第10話 嫉妬の少女 その1

 それはつまり――記憶喪失。

 原因は、分からない。


 もしかしたら、さっきのトラック襲撃の時かもしれない。

 それとも、それよりも前に起こったことなのかもしれない。


 明日希にはまったく、分からない。


 すると、メモリは不安になったのか、

 明日希の体をぎゅっと掴みながら、体を震わせる。


 分かりやすいほどに、怯えていた。

 さっきまでの、平気そうな顔。平気そうな態度は完全に崩れている。

 ここにきて、記憶がないという事実が、メモリを縛っているのだろう。


 がっちりと。逃げられないようにと、縛っているのだろう。

 それを見て、明日希は。


「――メモリ」

 声をかける。俯く顔を上げさせて、自分の顔と平行にさせる。


 これで、目と目が合うようになった。

 恥ずかしいという気持ちはあるにはある。

 けれど、この状況で思うほど、心が違うところに向いているというわけではなかった。


「お前が一体、なにを抱えているのかは知らないけど。どういう問題を抱えているのか知ったことではないけど。でも、ここで止まってたって、仕方ねえんだからさ。

 今はどうでもいいことを忘れて、気楽に過ごせばいいんじゃねえの?」


「……気楽にって、どういう――」


「気楽は気楽さ。好きなことをすればいい。嫌いなことはしないで、わがままに、自由に気ままに、過ごせばいいんだよ。それはお前のしたいことでいいんだ。それにここは街だ――『澱切』だ。必要なものは全部、揃ってる。娯楽だってたくさんある。

 そりゃ、都市部に比べれば全然、大したことないものばかりだとは思うけど。そこはがまんしてくれ。だから、言いたいことってのはさ。俺がこの街で一緒に遊んでやる。記憶だって探してやるし、できたらだけど、取り戻させてやる。

 だから落ち込むなって――そういうことなんだよ」


 こんな言葉をかけてくれるなんて、思っていなかったのだろう。


 メモリは意外そうな顔をして。明日希を見つめて。そして、優しく微笑んだ。


「じゃあ、お願い、明日希」


 メモリからの、はっきりとした助けての声。

 その声を胸の内にしっかりと刻み込ませて。明日希は、力強く頷いた。


 メモリの微笑み。


 それは限りなく小さなものであったが。

 しかし、笑顔であることに変わりはない。


 さっき出会い。どこの誰かも分からない状態から関係が始まり。

 けれど今、明日希はメモリの笑顔を見ることができている。


 そのことを、嬉しく思う。


 だから明日希も、メモリと同じように微笑んだ。その光景を外から見ていれば、仲の良い二人組に見えるだろう。しかし、それが問題なのである。


 この光景を見れば、誰でも微笑んで、見守ってしまうくらいの効果はあったが。


 だが、中にはこの光景を、よく思わない者もいる。


 たとえば。

 その二人の内の片方を好きになっている者にとっては、良い光景とは思えない。


 好きな人ではない片方を、殺してしまう。というのは、言い過ぎか。

 しかし、それに近い感情を持っていてもおかしくはないのだ。


 恋する乙女というのは、恐い生き物である。

 自分の恋を叶えるためには、平気でなにもかもを破壊しようとする意思が働くのだ。

 しかも、制御ができていないから、止めることもできない。

 それは、暴走と言っても差し支えないものである。


 そう――阿波原あははら菊乃きくのも、その性質を持っていた。


 しかも、菊乃の場合はレベルが違う。嫉妬心を解消させるために、ストレス発散のために巻き起こされる暴力は、途轍もない威力を持つ。


 戦場なのかと思ってしまうほどだ。

 それに近い光景を見ることになるだろう。


 そう、直感的に思った明日希は、本当に偶然に。

 完璧なまでの偶然によって、自分に迫る、『死』の危機を、避けることができた。


 メモリを無意識に抱えて、前に倒れ込む。

 後ろではなぜか、建物が崩れる音がした。


 菊乃が建物を、蹴り壊した音であった。


 これは予測なのだが――、菊乃は、明日希の頭蓋を割るようにして、蹴りを繰り出したように見えるのだけれど……勘違いだろうか? というか、勘違いであってほしいが。


 しかし希望は、容易く打ち砕かれ、踏み潰される。

 ぐしゃぐしゃに、何度も何度も。


 すると、崩れた建物の中から、瓦礫をどかしながら出てきたのは、菊乃――。


 静かに、一言も発することなく。

 足音も立てないほどにゆっくりと。明日希の元へ、近づいてくる。


 その静けさが、今までにないような恐怖を明日希に抱かせる。


 一瞬だけではあるものの。走馬灯が見えたような気がした。


「…………明日希?」


「……キク、か。怒っているように見えるというか、確実に怒っているんだろうけど、なんでお前が怒っているのか、俺にはまったく、予想もつかないんだけど――お前は一体、なんで怒ってるんだって――おわっ!」


 菊乃の、数値にしたらゼロが多過ぎるような怒りのステイタス。


 それに怯え、早口になってしまう明日希。しかし、言葉は唐突に途切れる。


 いや、途切れさせられた、と言うべきだろう。


 菊乃が近くにあった手頃な瓦礫……(明日希にとっては、当たれば致命傷になってしまうほどの大きさではあるが)を、思い切り投げてきたのだ。


 四つん這いに近い状態。


 しかも、メモリを抱えている明日希である。この瓦礫は避けられないだろう。


 しかし、今回は気合と根性でなんとか、横に転がることで危機を避けることができた。


 というか。

 手加減がなくて。

 なさ過ぎる。


 殺す気で投げたのか。

 聞いてみれば、菊乃は笑顔で「うん!」と答えそうなものだ。


 本当にそう言いそうだったので、明日希は聞くことをしなかったけれど――。


「なんであたしが怒っているのか分からない……。

 知らない、分かろうとしない。――ふーん、ああそう。そうなんだね、ふーん」

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