06:ヴィオルと外からの音楽
この嵐の中、枯れ薔薇屋敷が吹き飛ばないのが不思議だった。不思議を通り越して不気味だった。
中に入れば、外の轟音がわずかに遠ざかり、蠱惑の旋律が近づく。ヨースケは雨と海水に濡れ、震える身体を無視して階段を駆け上った。気をつけなかったために、途中で底が抜けて、危うく落ちかけた。慌てて掴んだ手すりすらもばきばきと音を立てて壊れたものだから、命の危機を感じた。それでも三階へとたどり着いて、あの窓枠しか残っていない部屋に飛び込んだ。
「ジュン」
ジュンは確かにそこにいた。一度目の呼びかけで、彼はすぐに振り返ってくれた。
が、ヨースケは顔を蒼白にして口を結んだ。
いま、この部屋には、あの奇妙な旋律が漂っている。しかしジュンは歌っていない。よく聞けばジュンの声ではない。別のものが奏でている。けれどもそれはどこから。
まるで生き物のように「旋律」が漂っていた。
そして振り返ったジュンは、外の嵐を知らないかのように、口元に笑みを浮かべていた。何も言わない。
明らかに何かがおかしくて、ヨースケは腹の底まで冷えるのを感じた。それでも。
「ジュン、帰るぞ」
早くここから立ち去りたかった。本能か、それとも第六感というものなのか、それがこの場所の異常を叫んでいた。
ただ一人で帰るわけにはいかないから。親友をおいていくことはできない。
手を差し伸べる。
――ところが、ジュンは奇怪な音楽がゆるゆると渦巻く中、あの「ゴミ」を握ったまま、ヨースケへと困ったように首を傾げ、微笑むのだった。
「ヨースケ……俺は、行きたいんだ」
ヨースケの指に撫でられる、正体不明のそれ。ちらりと彼は背後の窓へ視線を投げた。
「ここは……この町で、オーゼイユのあの窓に一番近い場所なんだ。ここなら」
突然、悲鳴のような響きが迸った。外で鳴り響く雷よりもけたたましいそれは、ジュンの手の内にあった例のものの悲鳴だった。
まるで卵が割れるかのように、それが中央から割れた。部屋の中で嵐が生まれ、それから溢れ出た音楽が風と共に部屋中に吹き荒れる。
異様で、その狂い泣き叫ぶ様子に慄くほどの音楽は、二つの旋律が合わさったものだった。一つは弦楽器のもののようで、まるで断末魔を繰り返しているかのように激しく狂っていた。もう一つは何の楽器であるかはわからないものの美しく、しかしこれも身の毛がよだつような狂気を孕んだ旋律を奏でていた。この二つが、部屋の中で肉薄し、せめぎ合い、混ざり合っている。
荒々しい音楽の中、ヨースケは立っていられなかった。身体はがくがくと震え、床に両膝をつく。思わず耳を押さえても、音楽は容赦なく脳に入ってくる。
しかしわかった。ジュンが歌っていた奇妙な歌について。
彼はこの、合わさり狂気を増したメロディーを口ずさんでいたのだ。
激しい狂気の音楽の中、ジュンは立ったままだった。けれどもその身体は震えていて、瞳孔は開ききっていた。まるで音楽に縛りつけられているかのように、背を伸ばして立っている。
そしてヨースケは見た。窓枠だけの窓。そこにこの世のものではない音楽がガラスを作り、一つの整った窓を完成させるのを。作られた窓は部屋が内包する狂気に弾かれるように外に向かって大きく開いた。
先に、ヨースケの嫌う海はなかった。
海よりもさらに深く濃い、奈落のような闇があった。
闇は瞳を塗りつぶす。外で雷が怒り狂っているのが、確かに聞こえていた。しかし窓の外には一つも光がない。雲もない。あるのは闇と、恐ろしい狂騒だけ。
「行ってみたいんだ」
音楽がジュンの声に絡みついてせせら笑う。
「行ってみたいんだ、この音楽の底に」
恐怖に満ちた顔でジュンは微笑み続けていた。
彼の足下で何かがきらりと光る。
蛇。
頭上で音楽を消し飛ばすかのような雷鳴が轟いた。建物が崩れたのではないかと思うほどの震動。目の前は激しい光に包まれ、瞳が焼けたかと思った。けれどもヨースケは見逃さなかった、蛇がジュンの足首に牙を突き立てるのを。
轟音が余韻を引き連れて徐々に薄れていく。気がつけば、窓の外には荒れ狂う海があった。この町の海。嵐に雷鳴と共に吠えている。
音楽はもう聞こえない。あれほどに狂い泣いていた音楽はもうどこにもない。
ヨースケはふらふらと立ち上がった。
目の前には、足首から出血し倒れたジュンの姿があった。その身体は枠だけになった窓から降り注ぐ豪雨に濡れ、冷えていく。
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