04:異変

 ジュンの様子がおかしい。

 ヨースケがそのことに気付いたのは、枯れ薔薇屋敷から帰ってきた数日後だった。

 ぼうっとしている。起きているのに、夢を見ているようだ。珍しく彼が授業で注意されているのを見た。

 ジュンがぼうっとしているように見えるのはいつものことだが、最近は本当にぼうっとしているのだ。普段の「ぼうっとしているように見える」様子は、実はそうではなく、周囲へのアンテナを張りすぎているが故に起きていることだと、幼馴染であるヨースケは知っていた。だからボタンのかけ間違いをしたり、人の話を聞けていなかったり、側溝の腐ったような淀みに足を突っ込むことはないのだ。

 そしてジュンは、常にその手に、海で拾ったあの「ゴミ」を握っているようになった。

 最近の注意力が散漫である様子とその「ゴミ」、何か関係があるのだろうか。とにかく、学業に関係のないもの見なされて、最近のジュンの様子からも、見かねた教師がそれを取り上げようとした。

 その時ヨースケは、ジュンがあんなにも大きな声を上げられることを、初めて知った。普段は人よりも小さな声で穏やかに話すものだから、彼の悲鳴とも怒声ともとれる大音声を耳にして、ヨースケはもちろん、他のクラスメイトも、教師ですらも驚いた。小さな高校でそれはちょっとした騒ぎになった。そして小さな高校を内包する寂れたちっぽけな町でも噂となった。

 都会の学校では、そう大したことのない出来事だとヨースケは思った。漫画や小説、そしてSNSで似たような話を見る。いわゆる反抗期だ。あの大人しいジュンにも、外に吐き出し当たり散らすようなことはあるのだ。

 家に帰れば、小さくも大きなジュンの騒ぎは、親達にも伝わっていたらしく、自分の母からもジュンの母からも、ジュンのことをよろしくと頼まれた。親達は不安に顔を曇らせていた。ジュンはすでに家に帰ってきていて、部屋にいるらしい。彼の家では、父親が帰り次第、家族会議が開かれるそうだった。

 ヨースケの家でも、隣の家族とその息子を議題に、夕食の際にぼんやりとした家族会議が開かれた。あの大人しい子は急にどうしてしまったのか。いつも心配している母親がひどく辛そうだ。父親も仕事故になかなか家にいられないから大変そうだ――そしてヨースケは、家に帰ってきた際に母親に言われたように、父親からもジュンを助けてやれと言われた。

 友達だから助ける時は助けるが、これはそう、大きな問題ではないだろう。少しの苛立ちを覚えながら、ヨースケは白米を咀嚼していた。ただ、苛立ちよりも楽しさが勝っていた。ジュンのことを考えると、笑みを浮かべてしまう。こんな状況で笑ったなら不謹慎と言われても仕方がないので、ヨースケはずっと真顔でいた――不満をずっと内に秘めている自分と違って、思い切り外に出したジュン。それがおもしろくて仕方がない。

 けれどもそれも最初の内で、両親があまりにも深刻そうに話し合っている上に、何度も自分にジュンのことを頼んでくる。煩わしくなってきて、ヨースケは自分が面倒事に巻き込まれたのだとやっと気付いた。

 夜。部屋の明かりを消して、ベッドで毛布にくるまる。明日も学校があった。

 明日、学校はどうなっているのだろうか。ジュンはどうなっているのだろうか。

 目を瞑りヨースケが柔らかな暗闇に浸っていると、囁き声のようなメロディーが聞こえてきた。ジュンが歌っている。枯れ薔薇屋敷で漏らしていた旋律。最近は自室でも口ずさんでいるようで、毎夜聞こえてきていた。

 お気に入りのアーティストでも見つけたのだろうか、とヨースケは当初思ったが、それにしても妙なメロディーだ。透き通った川のような旋律だが、時折音が狂う。その外れた一音が、不気味さを覚えるほどにずれているものだから、突然腹を見せてぷかりと浮かんだ魚が流れてくるようだった。だがそれでも、まるで絵画のように完成しているように思えるのだから、より不気味に感じられる。

 ジュンは音痴だっただろうか。今日の出来事もあって、まだヨースケの腹の底に居座っていた苛立ちがぐつぐつと沸き上がってくる。今日くらいは静かな中で寝たいのだが。が、ヨースケは深呼吸をして、ベッドから身体を起こせば窓を開けた。

 向かい合ってあるジュンの部屋。窓は開いていた。

「なあ、その曲、なんて曲? 誰の曲?」

 ジュンの部屋の窓は開いていた。だからこそ歌が聞こえてきていたが、その向こうはまるで黒い壁になっているかのような深淵で、ヨースケの表情は凍りついた。何も見えない。何も。そして問いかけから逃げたかのように、あの旋律は消え去った。

「ジュン、おい」

 そこに間違いなく彼の部屋があって、彼がいるはずであるのに、ヨースケの声はかすかに震えた。明らかに暗いのだ。今日も夜空が曇っていて、月明かりが少ないといっても。

「……なあお前、大丈夫だったか? 親から何か、言われたか?」

 返事はない。

「ジュン」

 まさか寝ているのだろうか。つい先程まで、歌が聞こえてきていたというのに。もしかすると、空耳か。

 仕方なく、ヨースケは寝ることにした。窓を閉める。鍵をかける。毛布にくるまる。

「ヨースケはさ」

 窓の向こうから、やっと返事がしたのはその時だった。

「ヨースケは、町を出たがってるよね……怖くないの?」

 突然の質問だった。ジュンに「この町を出たい」と、ヨースケは一言も言ってはいなかった。けれども言動でわかるのだろう。

 少し考えて、ヨースケは窓ガラスの向こうに答えた。

「別に。怖くないけど」

 小さな嘘。いくらインターネットで外の世界を知っても、知っているのと、経験しているのでは、話が違う。

 世界の広さに対して、自分はちっぽけなのだから。

 世界の広さだけを知ってしまった。

「……俺は、怖いよ」

 と、思わぬ言葉が返ってきた。ジュンが怖がっている事に対する驚きではなかった。

「ジュン、まさかお前、町を出たいのか?」

「……そこにいいものがあるからね」

 ふつふつと、空想が沸き上がる。

 電車に乗って、ジュンと共に町の外へ。にぎやかで華やかな都会へ。広い世界へ。楽しいもの素敵なものに溢れている場所へ。

 ジュンとなら、怖くはないだろう。

「そっか……じゃあ、いつか一緒に行こうな」

 けれども。

「一緒にはいけないよ」

 ジュンの声は、いつも通り。

「ヨースケには聞こえてないんでしょ。それって多分、資格がないってことなんだ」

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