03:枯れ薔薇屋敷

 枯れ薔薇屋敷は、海を見渡せる崖の上にあり、この町で一番高い場所に位置している屋敷と言えた。ただし廃墟で、住人はいない。過去に誰が住んでいたのか、誰の所有物なのか、そもそもいまこれはどういう扱いになっているのか、ヨースケは知らない。「枯れ薔薇屋敷」というのも、誰の屋敷であるかわからない故の、この町での通称だ。潮風が吹きつける過酷な環境の中でも、野バラが咲いていることからきている。ただそれは美しい薔薇ではなく、いまにも枯れそうな幽霊のような薔薇なのだ。風に散らないのが少し不思議なくらいの弱々しさと気味悪さを纏っている。

 荒れ果てた坂道を上って、ヨースケは壊れた門をくぐった。屋敷の扉も壊れていて、中に入れば上の階から旋律が降ってくる。今にも抜けてしまいそうな階段を、ぎいぎいと音を立てながら声のする方へ向かう。蜘蛛の巣が外からの風に糸くずのように揺れていた。

 屋敷はひどく荒れているだけではなく、過去に毒蛇が出て噛まれた子供が死んだという噂もあるものだから、大人達からは好かれていなかった。けれども子供達にとっては、肝試しするのにいい場所で、ヨースケもかつてはよくジュンや他の友達と一緒に探検をした。しかしやはり子供の頃の話で、いまはもうわくわくしなかった。ただ暗くて、いつ壊れてもおかしくなくて、早くここを出た方がいいのはわかっていた。

 最上階である三階まで来て、扉が外れて倒れてしまっている部屋に入れば、この屋敷が吹き飛ぶのではないかと思うほどの風になぶられた。

 ジュンはその部屋の窓辺にいた。何もない部屋で、窓も枠しか残っていない状態だ。彼はそこから、海を見つめながら不器用なメロディーを漏らしていた。こちらには気付いていない様子で、手にした小さな何かを、時折窓の外の空と海にかざしている――浜辺で拾った、あの正体不明の小さな何かだ。正体がわからないのだから「ゴミ」としか言いようのないそれを、指の腹でこすって磨いている。そしてまるでパズルピースをはめようとするかのように、宙にかざすのだ。

 それにしても、妙な音楽だった。即興で音を漏らしているように思えたが、そうではないらしい。未完成の音楽を繰り返しているかのようだ。故にどこか不気味だと思えるものの、透き通っているようにも思える。

 ただ、メロディーを口ずさむジュンは、壊れた音楽プレーヤーを彷彿させた。そして彼の向こうにある海が、より広く、ぬるぬると世界を覆って見えるのだ。

「ジュン」

 ヨースケが呼びかけても、ジュンは窓の外を見つめたまま、動かない。生臭さに似た磯の臭いに、どこか甘ったるいものが混じっているのは気のせいか。その臭いを波にする風が、ジュンの妙な歌をさらっていく。

「ジュン、おい」

 二回目の呼びかけ。時折音を外すかのような歌がぴたりと止まる。ジュンは夜空にかざしていた海で拾った「ゴミ」を、さっと手の内に握り込んで、やっと振り返った。

「あれ、ヨースケ。なんでこんなところに」

「それはこっちが言いたい」

 と、窓の外から、より濃い海の臭いを纏った風が吹き込んできて、ジュンがはっとしたように一瞬目を大きく開いた。そして改めて窓の外を見る。まるでそこに海があることに、いまはじめて気がついたかのようだった。

「――ここが、このあたりで一番高い場所だから」

 確かにその通りではあるものの、ヨースケは首を傾げた。ジュンは再び背を向け、窓の外に広がる泥のような海を見据えた。

「ほら、海が綺麗に見えるでしょ」

「そうか? 俺はあんまり、綺麗だと思わないけど」

 思うことを、少しだけ柔らかくしてヨースケは口にした。

 ――町を出たいと言わないジュン。

 ――それと同時に、ヨースケはジュンが「この町が好きだ」と言うのも、聞いたことがなかった。

 ジュンはこれから先のことを、どう考えているのだろうか。何も考えていないのだろうか。

「暗いね。帰らないとだね」

 ジュンは我に返ったようにヨースケに微笑みかける。

 二人はそろそろと階段を下りて屋敷の出口を目指した。

「にしても母さん、そんなに俺のこと、心配しなくたっていいのに」

 と、ジュンは言う。へらっとした笑みは、子供の頃と変わらないものの。

「ていうかヨースケもヨースケだよ。俺達、もう子供じゃあ、ないんだよ?」

「……まあ頼まれたら断りにくいっていうか? そういうお前だって、俺が探しにこなかったらあと一時間くらいは戻って来なかったんじゃないのか」

「そうかも」

 暗い夜道を、町に向かって進む。

 町は嫌いであるけれども、この時間は、人生で何度も繰り返してもいい。ヨースケはそう思って笑っていた。

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