02:町と海

 その町は、暗緑色の山と、濁ったような海に囲まれていた。観光地にもなれないその町には、確かに一定の数の人は住んでいるものの、寂れた空気が静けさと共に沈み込んでいた。

 それでもインターネットがあって、ヨースケはパソコンやスマートフォンから、町の外についてを仕入れられた。感染したかのように広がっている都会の話題。さらに勢いを増す人気の音楽。画面上に並ぶきらきらした食べ物。

 ベッドに寝転がりながらスマートフォンをいじっていると、たったいまイヤホンで聴き入っているバンドのSNSにたどり着いた。重大発表。コンサート開催。

 ヨースケは思わず身体を起こしたが、理不尽さに眉を寄せてゆっくり元のようにベッドに転がった。

 場所は、この町からずっと離れた都会。

 行くにはかなりの費用がかかるし、日帰りでは不可能。親が許してくれるとは思えない。

 昔に比べれば、インターネットがあるからこそ、世界は広がったかもしれない。

 けれども画面の向こうには、まだ簡単にいけないのだ。

 実際の音楽に身体を震わせることもできない。話題の渦中に飛び込むこともできない。写真のおいしそうなものも、食べることはできない。

 画面の向こう側から広い世界を見つめることの、ただ虚しいこと。

 大学はやはり、中途半端に町を出るのではなく、思い切って都会に行きたい。

 スマートフォンをベッドの隅に投げ置き、ヨースケは天井を仰ぐ。空気がのしかかってくるようで、息苦しさを覚える。その中で数年後のことを夢想するのは、一つの足掻きだった。

 だが大学に行かせてもらえるか、まずそこからがわからないのだ。簡単なことではないのは、わかっている。

 ……がらがら、と、窓の開く音がする。

「ヨースケくん?」

 隣の家から呼ばれた。ヨースケが自室の窓を開ければ、少し距離をおいたところに、隣の家の窓があって、ジュンの部屋があった。向かい合った窓からは、互いの部屋がよく見える。けれどもジュンの部屋にいたのは、彼ではなく彼の母親だった。

「ごめんねヨースケくん。ジュンがどこ行ったか、知らない?」

 ヨースケは何も知らなかった。隣の家にある部屋から、人の気配がしないことにも気付いていなかった。

 けれどもわかることが一つ。

「またいなくなったの? おばさん、俺、探しに行こうか?」

 ジュンの母親が、自分に息子の居場所を尋ねてきた。それは「探してきてくれ」という意味だ。

 昔からのことでわかる。ヨースケは内心では億劫に思うものの、面倒見のいい幼馴染として、ベッドから降りた。

「ごめんねヨースケくん」

 ジュンの母親に謝られ、ヨースケは気にしていないと手をひらひらと振る。

 ――幼い頃、ジュンは一人で山に入って迷子になって、最後には無事に保護はされたものの、数日間姿を消したことがあった。

 だがそれも幼い頃の話で、ジュンの母親は心配性だな、とヨースケは思う。

 そしてジュンは人の心も知らず、よくほっつき歩く。まるでさまようかのように。旅をするかのように。行動範囲を広げるかのように。けれども町からは離れない。

 ――彼の口から「町を離れたい」という言葉を、ヨースケは一度も聞いたことがなかった。


 * * *


 海の方に行ったのだろうと見当をつける。橙色に染まって、より寂しさを増した町を歩き、浜辺へと向かった。適当に歩いていれば、そのうち彼の姿を見つけられるだろう。穏やかな海は夕日色を帯びていくらか美しく見えた。しかしそれは表面だけと知っている。オレンジジュースだと思ってすくっても、手にあるのは塩辛く独特の臭いを放つ海水なのだ。

 海の音はノイズのようでうるさい。鳥の鳴き声は聞こえない。まるで世界の終わりのようだ。徐々に夜が迫ってくる中、町の光は吹けば消えてしまう蝋燭の火を思わせる。

 こうしてジュンを探していると、ヨースケは一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

 ――それは、自分がこの町を離れられないのではないかという、不安。

 どうも周りは、自分とジュンをセットに見ているようだから。関係が、絡まってしまっている気がするのだ。

 ……そもそもジュンももう高校一年生。どうして自分が彼を探しに行かなくてはならない。

 心配はあるものの。

 ――もし自分がこの町を出ると言ったのなら、周りはどんな反応をするのだろうか。

 身動きしにくいのは、それだけではない。

 ざざん、と海が存在を主張する。いつの間にか日は沈みきって、あたりは闇に包まれていた。今朝空を濁らせていた雲はまだそこにあって、それでも月明かりが薄く漏れて海を照らしている。

 その黒々さ。月の光を受けて、波はぬるりと輝いている。立ち止まって地平線を見れば、何も見えない。ただ漆黒の液体がどこまでも続いている。

 どこにもいけないような気がした。

 振り返って町を見れば光は弱々しく、その向こうには山が影となって巨人のようにそびえている。

 どこにも出ていけないような気がした。

 ……自分がこの町の生まれであること。その事実が、網のように絡みついているように感じられる。

 網に絡まった魚は、果てにどうなるか。

 弱って死ぬ。

 世界は広いはずであるのに。パソコンやスマートフォンの向こうは、無限に広がっていて鮮やかなもので溢れているというのに。

 再びヨースケが歩き出せば、むにゅっ、と妙なものを踏んだ。小魚の死体だった。群がっていた蠅が逃げ出す。

 気分は最悪だ。

 この町がいつから嫌いだったかは、覚えていない。しかし好きと思ったことは一度もなかったのは確かだ。

 軽く小魚の死体を蹴れば、波がその死体をさらっていった。海は大きな墓場かもしれない。

 ところで。

「……ジュンの奴、どこ歩いてんだ?」

 もう暗くなってしまって、これでは人探しも大変だ。さすがにジュンも家に戻ったのではないか。こちらが渋々探しに来ていることも知らないで。

 一度家に戻ろうか。

 だが、振り返ったところで、足を止めて、再び先を見つめる。

 歌声が聞こえた。歌といっても歌詞があるものではない。ただメロディーを漏らしているだけのもの。

 随分とおぼつかない旋律だった。まるで思い出しながら音符を並べているかのようで、弱々しく、歪で、しかし不思議と美しいと思える。

 ジュンの声。

 先にある、海を臨む崖をヨースケは見上げた。

 枯れ薔薇屋敷からだ。

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