8月で終わる恋

@paleman

第一話 376円の贈りもの

 コメダ珈琲で朝食を済ませた私は、すぐ下のミスタードーナツへ足を運んだ。日曜日だからか、三軒茶屋という地域だからか、まだ午前11時にも関わらず店内は多くの客で賑わっていた。思えばコメダ珈琲でも10分ほど待って入店したのだった。さらに10分待って運ばれてきたミックスサンドは、二日酔いが吹き飛ぶ美味さだった。

 入り口で子どもをあやす若い父親を避け、商品が並ぶケースの前に立った。目立つ場所に並んだ新商品を一瞥し、ケースからポンデリング、オールドファッション、エンゼルクリームをトレーに乗せた。それらは差し入れのために選ばれた商品だった。妻は低糖質のチュロスを好んで食べていたが、女性は皆普段から糖質を気にしているのだろうか。そんなことがふと頭を過ったが、結局トレーに乗せた三つを買って店を出た。


 世田谷通りを5分ほど歩いたところに職場がある。彼女はこの時間、一人で勤務しているはずだ。ドーナツの紙袋を左手に握りしめ、浮ついた気持で向かう。何と言って渡そうか。「日曜日なのにご苦労様、午後も頑張って」そんな台詞が浮かんだ直後に、彼女のシフトは私が管理していることを思い出した。彼女を日曜日に働かせているのは私なのだ。


 結局気の利いた言葉も思いつかないまま、職場の前まで来てしまった。正面玄関からではなく、従業員専用のドアからこっそりと忍び込んだ。オフィスには20人分の机とパソコンが並んでいるが、そのどれもが空席だった。やはり今日は彼女しかいない。しかし、肝心の彼女も見当たらなかった。その時、応接室から声が聞こえた。そうだ、この時間は来客があったのだ。ゆうべ彼女自身もそう言っていた。仕方なくドーナツの紙袋を彼女のデスクに置き、そのまま職場を後にした。タイミングが悪かったのか、良かったのか、私は彼女と顔を合わせなくてすんだ。


 三軒茶屋駅に戻る途中で、ふと気づいてスマートフォンを取り出した。正体不明の差し入れなど気味が悪くて仕方がない。LINEを開いて彼女にメッセージを送信した。

 この差し入れに彼女はどう反応するだろうか。驚いた彼女の顔を想像すると、マスクの下で口元が緩む。しかし、彼女がどう思うかは実はどうでもよく、私自身がどうしたいかが一番重要なのだった。私は自分の好意を相手に押しつけているだけであり、それを人は無条件に受け入れるべきだと考えている。嫌な男だ。


 田園都市線で渋谷まで向かう。まだ彼女からの返信はないが、来客対応をしているのだろう。私は彼女とのメッセージのやり取りを想像しながら、ジャケットのポケットにしまったレシートを握りしめた。

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