怪異

 そんな話があったからだろうか。


 その夜、俺は夢を見た。俺はいつもは夢の中で夢を見ていることを自覚しないタイプなのだが、今日だけはなぜかそうではなかった。




 夢の中で、俺は中学二年の一学期の終業式の日に戻っていた。卒業式でもないただの終業式に思い入れなどないが、この終業式だけは覚えていた。


 忘れもしない、本多美香と学校で会った最後の日だったからだ。


 夢の中の俺は、過去の俺が実際にそうだったように、終業式が終わった後の教室で本多に告白するかどうかを悩んでいた。その時のうだるような暑さや教室の喧噪が、なぜか鮮明によみがえってくる。


 今を逃せばもう一生思いを伝えるタイミングは訪れないかもしれない。

 しかし、今思いを伝えても彼女には迷惑なだけではないか。そして当時の俺は自信過剰なことに、もし本多も俺のことを好きだったらこの後離れるから余計に悲しませてしまう、などということを考えていた。

 夢の中であってもその時の感情を思い出して俺は恥ずかしくなってしまう。


 そんな夢の中の俺の前に一体の悪魔が現れる。

 悪魔、と呼ぶのが適切なのかは分からない。彼(彼と呼称するのも適切なのかも分からないが)は泥が人型をとった、いわゆる泥人形のような存在だった。

 彼はしばらくぐにゃぐにゃと変形を繰り返していたが、やがて人間のような姿になって固定される。

 夢の中の俺は教室にいたが、他のクラスメイトたちは誰も悪魔に気づかない。


「本多美香の転校を阻止したいか」


 悪魔は思いのほか俗っぽい内容を普通の男性のような声で俺に尋ねる。


「いや、それは」


 夢の中の俺は困惑した。突然目の前に謎の悪魔が現れたからではない。


 俺は自信過剰な思いを抱く一方で、もし彼女に振られたらどうしようと思っていた。


 もし転校を阻止までして告白して振られたら。

 もしくは、転校を阻止して告白すら出来なかったら。


 それは何も言えないよりも恐ろしい。 


 そう考えた俺は悪魔の提案を飲むことが出来なかった。要するに俺は日和ってしまったのだ。


 ちなみに夢の中だったせいか、悪魔が目の前にいることはなぜか全く疑わず、俺はこいつの存在を受け入れていたし、ここで頷けば本当に本多が転校しなくなるような気がした。


「くそ、このヘタレ野郎め」


 俺が答えられないでいると、彼はそんな悪魔にしては低俗な暴言を吐く。とはいえその言葉はその時の俺にぴったりな言葉だった。


 そして急に姿がぐにゃりと歪んだかと思うと急に泥に戻る。

 そしてその泥が俺を押し包むように覆いかぶさってきた。




「うわああああああああああ!」




「はっ」


 翌朝、俺は自分の悲鳴で目を覚ます。

 嫌にはっきりとした悪夢を見てしまったものだ。そのせいか、体中に嫌な汗をかいており、少し布団が濡れていて不快だ。


「シャワーでも浴びて着替えるか」


 そう思って自分に被せていたタオルケットに手をかけた時だった。手の先にべちゃりとしたものが触れる。


 ぎょっとして俺は手元を見た。すると、タオルケットと布団一体に大量の泥が散らばっている。タオルケットをめくってみると、泥は俺のパジャマにもついていた。


「な、何だこれは」


 ある意味悪夢よりも怖かった。が、思い返してみるとこの泥は夢の中に出てきた悪魔のものとよく似ている。

 だが、夢の中の泥が現実に現れるなどありえる訳がない。


「くそ!」


 訳が分からないが、それでも俺は大学に行かなければならない。

 俺は服を脱いでシャワーを浴びる。温かいお湯を浴びると、体についていた泥も悪夢で流した汗も流れ落ち、ひとまず俺はほっとする。


 シャワーですっきりすると、あれは寝ぼけていただけではないか、と思ったが部屋に戻っても布団周りは泥だらけになったままだった。

 仕方なく俺はタオルケットやシーツをまとめて洗濯機に放り込み、家を出た。


 そして何事もなく一限の講義が終わり、その後のことである。同じ教室で講義を受けていた友田が俺の姿を見つけるなりこちらへ向かってくる。


「おい、よくも昨日は子供騙しの嘘をついて俺から逃げたな?」

「お前がしつこいせいだし、むしろその子供だましに引っ掛かったお前が恥ずかしいやつなんじゃないか?」

「……突然だが、『しつこい』て『失恋』の訓読みだよな。やはりしつこい男は振られるってことなのかな」


 何なんだこいつは。会話に脈絡というものはないだろうか。まあ、初恋の話題を蒸し返されるよりはましだが。


「そうだ、そんなことはどうでもいい。今日は昨日のあの女性のことを聞こうと思っていたんだ。お前、あのきれいな人と知り合いなのか?」

「え、あ、いや……」


 初恋の話題ではないと思っていたが、これも偶然ながら初恋の話題だった。

 不意打ちだったこともあり、俺は返答に詰まってしまう。それを見た友田は何かある、と察したようだ。


「もしやお前……俺に隠れてあのきれいな人と付き合っているのか?」

「いや、それは断じてない」


 とりあえず友田が全く真相に辿り着いていないことに気づいて俺は安堵する。

 そして足早に教室を出たが、友田はしつこくついてくる。こういうとき、同じ授業を多くとっている相手は面倒くさい。


「じゃあ何なんだ!?」

「ただぶつかっただけだ。彼女とは何も」


 何もない、と言おうとして俺は胸が痛くなる。俺は告白すらしなかったくせに、今更「彼女とは何もない」と言うだけのことにすら胸の痛みを覚えるのだろうか。

 つくづく自分の面倒くささに苛々する。


「何か怪しいな。ほらほら、早く吐いて楽になっちまえよ~」


 そう言って友田はにやにやしながら俺に詰め寄ってくる。

 吐くも何も、俺の中ですら本多がどういう存在なのかはよく分からなくなっている。ただの終わった初恋ではない。


 では今も彼女が好きなのか? 

 今でも俺は彼女と付き合いたいと思っているのか?

 不思議なことに、その問いには即座に肯定することが出来なかった。


 そしてそんな俺の困惑を友田は敏感に察知する。


「うわ、これ本当に何かある奴じゃん」


 彼が言った時だった。


 そのとき俺たちは校舎と校舎の間を歩いていたのだが、突然俺の体にばしゃりと泥がかかる。外とはいえ、今日は雨が降っていないどころか爽やかな晴れで、日光は容赦なく肌をこがす。当然地面にもぬかるんでいるところはない。


「え、どうしたんだ?」


 突然の泥を見て友田は本気で困惑する。

 夢で見た泥にそっくりだ、と思ったがだからといってどう説明していいのかは分からない。


「おや、古城さんじゃないですか」


 そんなところに声をかけてきたのは神流川奏であった。まさかあれほど大学に行かないと話していた神流川奏と大学構内で出会うとは。


「げっ、か、神流川先輩じゃないですか」


 そんな神流川と出会った友田はあからさまに動揺する。最初に告白をはぐらかされて(?)以来、どうも彼は神流川奏には苦手意識を持っているらしく、可愛い女子やきれいな女性を見るとすぐに興奮する癖に、神流川だけは遠くから見てもスルーしていた。


 そんな友田に神流川はいつもの澄ました声で言う。


「ちょっと彼に用があったので借りていってもいいでしょうか?」

「あ、じゃあ、俺はここで」


 そう言って友田は逃げるように去っていった。


「あ、ありがとうございます?」


 俺は何と言っていいか分からず、とりあえずお礼を言ってしまう。

 すると神流川は首をかしげた。

 

「私はなぜ今お礼を言われたのでしょうか?」

「いえ、友田にウザ絡みをされていたところだったので」

「そうですか。別に私はあなたをウザ絡みから助けようと思った訳ではないので、それについてのお礼はいりませんよ」


 相変わらず神流川奏は変な人である。今日も圧倒的な美貌を誇りながらも、Tシャツにジーンズというラフすぎる格好は全く飾り気がない。


「それでは一体なぜ声をかけたんですか? というか、校内にいるなんて珍しいですね」

「ああ、それについてはあなたを助けるために来たと言っても過言ではないですよ」

「え、助ける? でもさっきは助けようと思った訳ではないと」


 俺は神流川の言葉に首をかしげた。


「ウザ絡みは私の専門外ですので。とりあえずどこかあまり人がいないところで話しましょうか」


 そう言って彼女は大学構内の人がいない方を指さす。大学には校舎がいくつかあり、敷地が広いため、必然的に人がいない空間が生じる。俺たちは校舎と校舎の間の微妙に日陰になっているところまで歩いていった。


「私が助けようと思ったのはそれですよ」


 そう言って神流川奏は俺の服についた泥を指さした。

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