それにしても、内からしょうじる、この揺らぎ。


 はい、これというのはやはり、天然水がきあがる感覚なのでしょうね。自然が私たちに語り掛けているのです。環境の変化のささやきをかいして外側から、そして同時に、私たち自身の内部から。


 自然という雄大ゆうだいなものに限らず、物事が散在さんざいしていることの再発見というのは、何故なぜこうも、真新しい驚きと不可思議を、私たちに感じさせるのでしょう。再発見がある、それを私たちは、いつだって予期よきしている。にもかかわらず、くりかえす日々を新鮮しんせんに感じて、あたたかな幸福をいだきつづけている。昔ながらのかまきによる、米の食感のばらつき、最新の炊飯器すいはんきのおどりきによる、その見事な均一きんいつさ。おこげの香ばしさ、むらのない継続的な食感、そのふたつに優劣など決して付けられないように、そこに答えなどないのかもしれませんね。


 時間の流れ――おお袈裟げさにいってしまえば歴史――、慣れの作用、理解の深度しんど、感覚の相違そうい、伝達能力の限界、そのようなものすべてが、互いに影響し合いながら、また時には、限りなく接近しつつも、互いを関知かんちせずにすれ違いながら、ランダムにっているのです。答えを求めること、それはあるいは、あまりにナンセンスなことなのかもしれない。

 しかし、『世の中に無駄なことなどない』という言葉を、パラノイア的に妄信もうしんするのであれば、いくらかの安心をることができます。そしてなにより、あなたと一緒だというのなら、なおさら。


 だから私は、いまだけは、おろかな予報士になろうと思います。


 論理ろんり飛躍ひやくであり、おそらく間違いだということは分かっています。しかし、私はあえて、その答えを出そうと思います。はい。大胆だいたんに。はい。それも性急せいきゅうに。はい、ええ。『時期じき尚早しょうそう』を置き去りにして。なおかつ、『時期じき早々そうそう』のあやまりに目をつむりながら。


 時間の前後関係は、この際、取り払うのが正解なのです。


 つまり、私たちのもちいる言語の伝達達成が、その文脈ぶんみゃく枠組わくぐみの中において、して、単語の前後関係だけに支配されないように。そればかりか、その真意しんい見出みいだされるのは、その階層かいそう構造こうぞうの中心点、つまり、すべての単語から遠ざかった『空きスペース』にこそだという事実。それをかんがみるのであれば、幸せというのは、時間に支配されないということになる。


 言いすぎを恐れずに言うのであれば、幸せこそが、時間を支配するのです。


 未来予想に過去の思いをたくすこと、もう取り戻せない過去を現在がなぐさめること、現在の苦難くなんを乗り越えるために、過去の努力や未来への展望てんぼうの力を借りること、それらはすべて、幸せになろうという私たちの意思なのではないでしょうか。


 はい、そうです、言うなればそれは、時間や空間をえた、ぜごはん的な行い。


 あ。オーブントースターの温熱おんねつが、窓から吹き込んできた風に運ばれていきましたね。


 分かります、ありのままの事実に意識を向けるだけで、日々の時間の流れに、あたたかな音楽を感じられること。

 やはりというか、再認識にんしきといえばいいのか、あなたとは波長はちょうが合うようですね。『運命的なまじわり』、これは言いすぎているように思います。しかし、私はそう感じざるをないし、それを口に出さざるをない。だって、世の中にはけっして分かり合えない人たちがいるのですから。それは間違いのないこと。


 時間さえかければ、誰とだって分かり合えるという向きもありますが、実際問題として、私たちの時間は限られている。まして、なにげない日常の足運びに、音楽や温熱おんねつ見出みいだすことのできるのは、ほんの一握ひとにぎりの方々だけに限られているから。悲しいことですが、こればかりは仕方がありません。


 こんな例えを持ちだすのは、失礼かもしれない。ですが私は、あえて敢行かんこうしようと思います。テストケースの告白として、あるいは、限りある時間の木漏こもれ日に手を伸ばす、そんな自然な行いとして。


『マウスのクリックおんと、時計の秒針びょうしんの鳴るおと。それらよりも、私たちは近しいところにいる』


 分かります、恥ずかしさというのは、年齢を重ねないのですね。ですが、私はいま、夏の陽光ようこうと冬のみ切った空気が、互いに寄りっているような、そんな観念かんねんを胸に覚えています。連帯感とも違う、もっとあゆみを進めたような。あるいはそれは、遠方にみえるかすかな灯火ともしびに、灯台とうだい見出みいだすような、もっといえば、その灯台守とうだいもりの顔さえ思い浮かべることのできるような。


 あなたの言いたいこと、なんとなくわかる気がします、その、慈愛じあいに満ちつつも誘導ゆうどう的な表情から。夜中よるじゅう誰かを待ちつづける彼女の手にはきっと、チーズトーストがにぎられていますね?


 あなたの指、素敵です。恥ずかしさのためなのか、あなたはしきりに指を、組んだりいたり、ええ、分かります、子供の頃からのくせなのですね?


 はい、ええ、そうですとも、私たちは誰だって、かつて幼子おさなごでした。その意味において私たちはみな、きょうだいです。ひとつのトーストを互いのために分け合う、小さなたましい。それはけっして失われることはない、そう思います私は。隠れているんです。心的なかくれんぼの果てに、私たちは大人という外殻がいかくているのです。

 いくら取りつくろおうとも、私たちは変わらずナイーブで、いつまでもシャイで、思いやりが損なわれることはしてないのです。それはつまり、一般に知られる常套句じょうとうくに当てめるのであれば、『外はカリカリで中はトロトロ』ということ。


 五指ごしのそのなめらかな動きは、思えば神秘しんぴですね。無線接続の利便りべん性、有線接続の信頼性、そのふたつをねているようで。『受け手』という言葉、そこには『手』の一字が含まれている。『送り手』、これにも『手』が含まれている。そして、あなたはいま、含み笑いを浮かべていますね? 私の言わんとしていることが、手に取るように分かるんですね? 与えることも、求めることもできる。中道ちゅうどうであっても、どちらかにてっしても、神からさずかったこの温熱おんねつは、私たちをめぐってゆく。関係しつづけている限りにおいて、私たちがこごえることはしてない。


 あなたの沈黙がうったえかけているのが分かります。――知っていると――感じていると――。


 私が、――もどかしく思っていることを――。私の、――いだいている怖れを――。


 こんなことをお願いするのは卑怯ひきょうかもしれない。しかし、私はあらたなこころみとして、つまり、家電機器の一度も使用することのなかった機能を、日常のなかに落としこむ作業としての第一歩目として、それを行おうと思います。

 お願いとは、こうです。『いまから私がべることを、私の単なる言語的独り遊びだとして処理していただきたい』。つまり私は、あなたに外注がいちゅうをしたいということなんです。

 ああ、ありがとう、み締めるように。

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