すみません、少しばかり気障きざがすぎましたね。

 ああ、いえ、はい、いやはや、ありがとうございます。あなたの優しさ、スマートで、素敵です。いい仕事をありがとう。感謝をあなたに、その熱はこの胸に。

 ですから、……いえ、ここは、脈絡みゃくらくなど考えず、再発見としての新たなる第一声として切り出すべきでしょうね。


 私、あなたの声が、とても素敵だと考えているんです、いま現在。


 未来のことは分かりません。だから断言することはできない。私の内には、それほどの若さは、もはや残されていない。

 しかし、こうは言えます。『あなたの声を、未来永劫みらいえいごう愛するだろうということを、現在の私はすで想定そうてい済みである』、と。

 はい。これであれば、私の声は、クリアになれる。


 ええ確かに、いまここに、実際にミネラルウォーターがあれば、それは一番だったんでしょうね。だけど、どうでしょう。案外と、結果は同じだったのかもしれませんよ。『経緯』という漢字を、『けいい』と読むのか、あるいは『いきさつ』と読むのかという違いはあるにせよ、いまこの場の世界観は損なわれなかった、と私は考えます。


 つまりですね、ミネラルウォーターは自身の不在をもってして、私たちの胸に風穴かざあなを空け、そのことによって、私たちに語り続けている、ということなんです。


『ミネラルウォーター』、それは、その存在自体がさわやかですよね。その見姿みすがたが、その気配が、その概念がいねんが、そしてついには、そのあとの祭り的な消失でさえもが、名状めいじょうがたいさわやかさをかもしだす。深淵しんえんとしての森、その最深部さいしんぶで人知れず輝きでる流水りゅうすい、それは現実世界における全物質の中で、もっともイデアに近しい存在です。


『ミネラルウォーター』、それは、私たちを即座そくざに――かつ極めて柔和にゅうわに――さわやかの奔流ほんりゅうにいざなう。はい、ありとあらゆる手をこうじて、まさに五感すべてにうったえかけ、私たちの観念かんねんそのものを、さわやか化させる。


 手首にそそがれ流れ落ちてなお、気化きか清涼せいりょう感は夢でかわした約束のように、手首周辺をたゆたいながら残りつづける。


 今生こんじょうにおいては、まったく無臭であることなど不可能であるということ、その事実のほのかな香りは、なんどテイスティングしたところできることはない。


 本来の機能としての、口に含む、あるいはのどに通すということ、それは、私たちののどおよび口腔こうくう内の形状を、自分自身に対して浮きりにし、そのことによって、私たちに瑞々みずみずしい生命賛歌せいめいさんか宿やどらせる。


 窓辺まどべたたずみペットボトルをまとうそのさま、射しこむ陽光ようこうをきりわけ、七色の影を落とすその茶目ちゃめ、しかしその含意がんいは切実な優しさに満ちている、つまりは、透明なものを輝かせるのは透明な存在だという、幸福への足掛かりともいえるような投げかけ。


 そして、私がなにより魅了みりょうされるのは、その響き。


『ミネラルウォーター』。


 こんなにもさわやかな響きがほかにあるでしょうか?


『ミネラルウォーター』。


 この音のつらなりを耳にするだけで、私は、いまだかつて存在しなかった感覚を、そのたびごとに発見するのです。

 一例を差しだすなら、こうです。つまり、耳という感覚器官きかん、いわば受け身であるはずのそれが、音に応えることをやめ、自ら打ち震えはじめ、そしてそれが、いつまでも続いていく、そういう感覚。さらにその向こうに分けすすむのであれば、はい、ええ、まさに耳をまし、耳に手をえ、みずからの両掌りょうてのひら疑似ぎじ的な外耳がいじとするのであれば、次のようになります。


 全身の耳という穴すべてから、私に内在ないざいする歴史が吐き出されていくような気配、足音、いっけん矛盾むじゅんに満ちた表現ではありますが、その放出ほうしゅつ物は、熱を帯びているかのような確かなさわやかさを有している、と。そしてそれは内在ないざい的でありつつ外在がいざい的でもある。


 この事実を理解するには、『水は低きに流れ、人はやすきに流れる』が私たちに与えつづける、そのいやしさを克服こくふくする必要があります。つまり、浄水器じょうすいきとしての性善説せいぜんせつをもちい、ミネラルウォーターに付随ふずいする周辺概念がいねんまるごとを、常に濾過ろかし続けなければならないということ。


 絶対音感などなくとも、耳のメンテナンスをおこたらずにいれば、相対そうたい音感で充分すぎるほどに事足りるのです。ええ、そうですね。探求たんきゅうめさえしなければ、感覚の鈍化どんかまねくことなどまずありません。みずからの使命をまっとうするべく、自己の恒常こうじょう性が健全であるかを常に監視かんしし、巡回じゅんかい監督かんとくおこたらずにいることの重要性、その自明じめい性というのは、運命的ながたりとひょうして差しつかえないでしょう。


 自然。


 はい、ええ、まさに、自然です。その調しらべというのは極めてオーガニックであり、同時に強固きょうこな歯車のように力強く、脈絡みゃくらくを横目に、さらに流し目を向けつつすべてを置き去りにしながら、私たちを翻弄ほんろうする。それにより私たちは、好むと好まざるとに関わらず、『翻弄者ほんろうしゃ』としてのまいおどらざるをなくなる。それはつまり、まいまいうということ、私たちは誰しも舞人まいびとであるということ。これというのは、希望のある話なのです。つまり、その行い、いえ、ここでは『おこない』と言うべきですね、それは、自己じこ啓発けいはつ的なマイムマイムであるとしょうしてしまっていい。だってそれは、内なる可能性をり当てることにほかならないから。さらに言えば、私たちの可能性は十人じゅうにん十色といろで、また、私たちのおどり方や歌い方には、ひとつとして同じものはないから。だからこそ私たちは、互いにことなる『モグラかん』を、必ずひとつは持っているんですよね。


 いやいや、まったく。あなたという人は、感受かんじゅ性という点において、他者の追随ついずいを許さないほどに並外れている。それはまさに天性のものでしょう。


 なん根拠こんきょもなく天気予報をべることが許されるのは、確かな実力をともなうシャーマンだけです。並みの天気予報士がそれをしたとして、降板こうばんき目にうのが論理ろんり帰結きけつであり、心情的にも納得が許されるでしょう。つまり、彼らはおろかしい予報士であり、また彼ら自身が略奪りゃくだつ者であり、いずれ彼らさえもが略奪りゃくだつされるだろうということ。学びというあゆみ、それがないのであれば、とこしえなど望むべくもない。


 その意味においてあなたは特権とっけん的で、だからこそ魅力みりょく的で、また、そうであるからこそ、他者のもちえない孤独こどくさいなまれることもある。


 ああ、いえ、すみません、私こそ、勝手な憶測おくそくでものを語りました。ああ、よかった、気分をがいされたわけではないのですね。

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