それにしても、今日きょうの天気の良さは、とてもいいですね。昨日までのくもは、いったい何処どこにいってしまったのか。こんなにも風が吹くのに、くものひとかけらさえやってくる気配がありません。空は加速度的にかがやきを増していくばかりで、本当に気持ちがいいですね。こうして窓辺まどべに腰掛けていると、屋内にいることを忘れてしまいそうです。実に晴れやかな心。


 あなたはまだどこか、肩に力がはいっておられるようですね。さては、教え子気分が抜けきれていませんね?

 私は思うのです。私とあなたの対話という、この行いの範疇はんちゅうにおいては、脱力することがなによりも重要なのだと。それが、楽しむことへの一番のショートカットであると。


 さて、そうですね、それでは、ゆっくりと息を吐いてみましょうか。そうです。肺のなかの空気をすべて吐きだしてしまいましょう。

 どうです? ご自身の息の熱いことを感じているのではないですか? ええ。まさに、扉のひらかれたオーブントースターのように。あるいは焼きたてのチーズトーストのように。程よく焼けたチーズの香ばしい匂い、トーストのひかえめな心情、感じますね?

 ええ、いいですよ、もっと力を抜いてください、熱でゆるんだチーズのように、そうです、はい、そう、そのまま、ええ、いいですよ、そうです。

 どうです? 自身が、もはや、人間よりもチーズトーストに近しい存在だという気がしてきませんか、そうでしょう? いま私が、手を叩きでもしたなら、あなたは完全にチーズトーストになってしまう、そうですね?


 しかし、私は手を叩かない。


 あくまで私は、あなたの自由意思に、ゆだねます。


 これは、ええ、そう、まさに信頼。私からあなたへの。はい? 逆もしかりと、そうおっしゃってくださるのですね? ありがとうございます。なんだか、無性に心地よくて……私は……いえ……、なんでもありません。今日きょうも順調だということ。そうです。ただそれだけのことに、私たちは感謝しなくてはならないんですよね。


 さて、それでは、次の文言もんごんをいっしょに唱えてみましょうか。


 それはこうです、『チーズトースト、とけてとろけて、時の彼方かなたに消えていく』。


 おっしゃる通り、かすれた声で唱えるのが良いでしょう。ええ、はい、まさにげたパンの耳のようなハスキーさで。はい。それがベストです。私もそう思っていたんです。私たち、自分たちで思っているよりも、ずっと気が合うようですね。さて、それでは唱えましょう、はい、限りなくかすれた声で。そうです、げた粉末が震え落ちるように、かぼそくもたしかな思いを込めながら。


 はい、ええ、今です。


『チーズトースト、とけてとろけて、時の彼方かなたに消えていく』


 あなたの香ばしいような声、素敵です。


『熱』、それによって、とろけているような、あるいはげ付いているような。両義りょうぎ性という言葉を、これほどまでに体現たいげんするものがあるなんて、およそ信じられないことです。


 そして、それはリアル。


 まるでそれは、極めて綿密めんみつなデッサン――その段階においてさえ、たしかな躍動やくどう、つまり、常時うぶごえをはっしているかのような生体反応を有している――の果てにえがきだされる、稀代きだいの名画のなかにたたずむ、可憐かれんな少女の微笑びしょうのあたたかさ。

 はい、そうです、あなたは素敵です。おそらく誰にとっても。


 ひとつ確かなのは、私にとって素敵であるということなんです。


 この想いというものに私は、驚くべきことに、最近になって思いあたりました。こんなにも再発見の感覚がありながらも、確かにそれは、内より巻きおこる新風しんぷうだったのです。だけれど、この風が神風かみかぜであるか否か、その答えはいまだ出ていない。

 正直に申せば、私はこの風をもてあましている。内にかかえたままのそれは、堂々どうどうめぐりを起こしながら中央の空洞くうどう化がすすみ、もはや台風たいふう化している。いま私が吐露とろしている言葉というのは、その台風たいふうよりちぎれた、くも断片だんぺんなのです。驚嘆きょうたんすべきは、それはちぎれながらも、確かに私の心と接続されているということなんです。そう、まるで見えざる糸のように。限りなく引き伸ばされたチーズのように。


 絹糸きぬいとのようなチーズの切れ端。その末端まったんでかんじるものは、やはり繊細せんさいです。


 私たちの到達している対話、例えるならばそれは、自己へのつぶやきを、心的な糸電話でわしているようなもの。それは、常に『もしもし』ではじまり、そして、これほどまでに押し進んでいながら、そのたびごとに、互いが何者であるかの確認が、手続き的に、いちから行われる。しかし、終了時には、次回への期待と共に、再会の約束がかならずともなう。


 これは、月と太陽の在り方に似ています。同時存在が許され、実際にそうしている。にもかかわらず、概念がいねんまた象徴しょうちょうとしては、限りなく遠いところに置かれている。いや、みずからまでもが、他者に規定きていされた枠組わくぐみにとらわれている。

 いまの私とあなたの関係は、ちょうどこれに当たります。近すぎず、かといって遠いわけではない。

 他意はありません。ですが、あなたも分かって、いえ、理解させているのではありませんか? なにか感じるもの、そこまでいかずとも、とても子細しさいな、感覚の揺らぎのようなものを。


 揺らぎながらも、それは至ってさわやかですね?


 ああ、ミネラルウォーター、それはいい例えですね。実にいいです。


 五感。


 それをかいするからこそ、私たちは、世界と繋がり、心をはぐくませることが可能で、そしてこれらのことは、これからも普遍ふへん性を失うことはないのでしょうね。しかしながら、こんなにも絶対的なものだからといって、それを私たち自身であると――感情や思考を差し置いて――言い切ってしまっていいのか、正直わかりません。


 ただここでひとつ明らかなのは、私自身なにを言っているのか分からなくなっているということなんです。


 私のこの言葉のつらなりは、どこから来て、どこに向かっているのか。そこに各駅停車かくえきていしゃ的なものはあるのか。始発が不明であるもの、終電を定めないもの、それらによってしょうじた思考は、投じた時間のリソースに見合うのか。

 はい、そうですね、身のたけに合わないこと、それは、時と場合が、滑稽こっけいかどうかを判断するんですよね。


 小さいトーストに、かけすぎてこぼれたチーズ、それは滑稽こっけいを通りこし、悲しい化している。しかし、背伸びをつづけて筋肉化した苦労は、力強くて胸のすくような思いにられますよね。たとえそれがどんなに他人事であっても、たとえそれでアキレスけんが、再建不能なほどに断ち切れたとしても。


 帰納きのうすること、演算えんざんすること、それによって揺れうごくのは思考だけではありません。心、それだって動くのです。はい、ええ、それはまったく予想の付かないものです。震源の深さ、そればかりか震源地さえ分からない。マグニチュードはおろか、それが地震によってもたらされているのか、耐震工事によるものなのかさえ、私たちには判別することができません。ここでの不可能性という言葉の範囲は、広く、深いです。それほどまでにその全容は不透明であり、そして、更に驚くべきは、そこには、巧妙こうみょう誘導ゆうどうさえもが、そこかしこに張りめぐらされているということなのです。それは、堅牢けんろうな城壁であり、同時に夜のとばりであり、そしてまた、悪魔的な空耳の誘発ゆうはつでもあります。


 トリックアート美術館で生まれ、人との交流をいっさい絶ち、そこで一生を終えるということがない限り、その予想というのは、あらかじめはじけることが運命づけられた水泡すいほうのように、意味のなさにおいてのみ、美しさをかもしだす存在としての機能しか果たさない。つまりは、そういうことなんですね。


 はい、そうです。それがたとえ、どのような形で私たちの眼前がんぜんに現れようと、盤石ばんじゃくであることになんら変わりはないのです。はい。ええ、それはAIによるチェスそのものです。それがどんなに人間由来のものであろうと、人間にどうこうできる代物しろものではないのです。


 たとえそれが、禅問答ぜんもんどう的に、他者の考えを拒絶するように、これ見よがしに沈黙していようと。あるいは、『人生で一度は言ってみたいセリフはなんですか?』、というセリフそれ自体を、人生で一度は口にしてみたいというような、再帰さいき性や回帰かいき性を有した――もっといえば、行きすぎた構造主義こうぞうしゅぎ的な解釈かいしゃくによる、思考感情までも含めた全概念がいねんの、化が行われた――形態けいたいとして現れようとも。


 しかし、だからといって、人間というのは、夢見ることをやめることなど、できはしないのです。ですから、私の想いというのはまりませんし、そのつもりなど、私には毛頭もうとうないのです。だって、形而上けいじじょう形而下けいじかかん乱高下らんこうげに、やりすぎるということはありませんから。すべてに満たされていながら、すべてに渇望かつぼうすること。それはして夢物語などではありません。

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