8:メスガキは色々心に刻まれる

「バケツはもうやらあああああ!」


 言ってアタシは布団を跳ねのける。ものすごい寝汗で寝間着がびっしょりだ。二年間ほどどこかに閉じ込められてようやく逃げることができたような、そんな恐怖心が体中を渦巻き――そして消えた。


「……あれ? アタシ何してたんだっけ?」


 息を整えながら混乱する記憶を整えようとする。状況から察するにアタシはベッドに寝て、ものすごい悪夢を見たのだろう。だけどそれが何かは思い出せない。ものすごく長い間よくわからない場所で何かをしていたような気がするんだけど……。


「あふ。頭だるだる……」


 隣のベッドではアイドルさんが寝すぎたかのように朦朧としている。なんでこの人がここにいるんだろ? えーと、昨日アタシ何してたんだっけ? 確か音楽ギルドに行って、それから――


「あ、おはようございます。トーカさん。どうですか? アイドルいけそうですか?」


 扉を開けて入ってきたのは、かみちゃまを抱いた聖女ちゃん。アタシの方を見て笑顔を向けて聞いてくる。アイドルって何のことよ?


「ああ、シュトレイン様が半日は記憶が混濁しているって言ってましたね。ゆっくりしてください。

 そう言えば先ほどバケツがどうとか言ってましたけどなにが――」


 バケツ。


 円柱形の容器で、水を入れるものだ。こっちの世界でも材質は異なるけど似たような道具はある。何のことはない道具の名前。


「バケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわいバケツこわい」


 なのにアタシは気が付けばベットから転がり落ち、部屋の隅で逃げるように怯えてそんなことを呟いていた。自分でも何に怯えているのかわからないけど、その単語を聞くだけで体が勝手に動いてしまう。


「ええええ!? ト、トーカさんどうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」

「ごめんなさいいうことききますもうさからいませんわからされましただからもうばけつはやめてくださいくらいせまいみえないきこえないきこえるうるさいひびくきこえるしんどうがのうにひびいてくるもうたえられないにげられない」


 なんでなのか分からない。だけど怖い。それが一番怖かった。分からない事への恐怖。理解できない恐怖。だけど確実にある恐怖。心臓は激しく動き、呼吸の制御もできない。心臓がうるさい。呼気がうるさい。いっそ止まってしまえとさえ思う。


 なんで、と思ってバケツのことを脳裏に浮かべた瞬間に意識が裏返る。ぐるん、と目の前が真っ暗になって自分がどんな格好をしているかもわからなくなった。景色も、音も、何もかもがぐちゃぐちゃになってアタシを暴力的に包み込む。


「あの、これはいったい……?」

「デミナルト空間で何かあったんでちかね? よほどの訓練だったのでちょうか。言葉通り心に刻まれるほどの」

「…………なにしたんですか、アミーさん?」

「変なことはしてないつもりだけど……でも記憶にないからなぁ。バケツ使う訓練て多分アレだろうけど……」

「とりあえず半日寝かしまちょう。しばらくはその単語は控えたほうがいいでち」


 そんな会話がされているのは聞こえるけど、意味は理解できない。アタシは抱えられて、ベッドに寝かされた。


 ………………………………。

 ………………。

 ………。


「あー、よく寝た」


 なんだか脳がグラングランする。外を見たらすでに夕方。どんだけ寝てたのよ、アタシ。


「……あの、トーカさん。無事ですか?」


 アタシの隣に座っていた聖女ちゃんが、恐る恐る尋ねてくる。無事?


「え? 無事って何かあったの? アタシ確かアイドルの訓練のために何とか空間に行ってたのよね」


 寝起きで少し気怠いけど、それは覚えている。『ティンクルスター』を手に入れるために何とか空間で二年間アイドルさんに訓練してもらったのだ。記憶にないけど。


「……その訓練の記憶とかは……例えば、怖かったとか」

「へ? 怖いとかはないわよ。かみちゃまも言ってたじゃない。夢見てるようなものだって。非……なんとかかんとか記憶に刻まれるから覚えてないとか」


 確かそんなことを言っていたわよね。難しいことは分からないけど、そういうもので、でも二年間の訓練はアタシの中にあるって。


「ところで唐突に話は変わりますが、トーカさん。掃除する時に水を貯めるとしたら何を使います?」


 聖女ちゃんは呼吸を整えるように胸に手を当てて深呼吸し、そんなことを聞いてくる。何故か分からないけど、かみちゃまとアイドルさんと鬼ドクロがこっちをじっと見ていた。


「は? いきなり何言うのよ。あれでしょ。あれ……あれ? 名前思い出せないけどあれ。なんだっけ……あの、えと……は、はれ? しょの、バ……あうあうあうあう」

「もういいです。忘れてください」


 何故か、の名前を思い出せない。思い出そうとすると目の前が真っ暗になって意味不明な音が脳裏に響く。眩暈を起こしたようにふらふらしてきた。そんなアタシの手を握る聖女ちゃん。気が付くと、身体中ぶるぶる震えていた。なんで?


「ゴメン、やりすぎた。記憶にないし、そこまで酷いことはしてないはずだけど」

「どちらかというと、750日分の訓練を1日で行った軋轢でちゅね。小さなストレスが圧縮されて非陳述記憶に残ったんでちょう。この訓練法は封印でち」

「恐怖は心に刻まれる。理解できた魔物は魔物に非ず。理解を拒むほどの存在こそ、真なる魔物よ。這いよる混沌とは気付かぬうちに足元に絡みつく絶望也」


 いつも明るいアイドルさんがガチで謝罪するように頭を下げ、かみちゃまがそれを慰めるようにため息をついた。あとなぜか鬼ドクロがわけわかんない言葉でしめている。なんなのよ、これ?


 なぜか乱れた呼吸。それを何度か深呼吸して戻した後にアタシはアイドルさんに問いかけた。


「よくわかんないけど、訓練終わったんでしょ。あとは腹筋鍛えたりしないといけないんだっけ?」

「あ、うん。今日は休んで明日からにしよう。アミーちゃんもちょっと反省したいし」

「反省? なんかミスったの?」

「ミス……ではないけど、初めての訓練法だったから予想外の影響が出てるかもだし。とりあえず時間を置いた方がいいかなって思って」


 何かを誤魔化すように――どちらかっていう何かに触れないように言葉を選んでるアイドルさん。この人、結構ずばずばいうタイプかとおもってたけど。


「そうですね。とりあえず明日にしましょう。色々ありましたし」

「色々? アタシ今まで寝てたんだけど、その間に何かあったの?」

「知らないほうがいいです。暖かいものを飲んで、ゆっくりしてください。今日はそのままベッドで横になりましょう」


 アタシを気遣うように聖女ちゃんが言う。いや、飲み物ぐらい自分でやるから、とベッドから出ようとするけどものすごい気怠さが襲ってきた。全力疾走したような、そんな疲れ。アタシずっと寝てたはずなんだけど、何に疲れたんだろ?


「なんか変に体がだるいわね。何とか空間は肉体影響でないんじゃなかったの?」

「無理しないでくださいね。デミナルト空間で色々あったみたいですし」

「ふーん、そうなんだ。でも一日でいろいろできるって結構便利かも。カナヅチな人に泳ぎを教えたり、英語覚えたりとかいけるんじゃない?」

「だめです」


 アタシの提案に、真剣な表情で首を横に振る聖女ちゃん。否定するにしても、『そうですね。ですが……』と一泊おいてから否定するのに。


「え? 短い期間で教育できるっていい事なんじゃない?」

「だめです」


 二度目の完全否定。理由も聞くな、とばかりの硬い表情だ。ホント、何があったのよ?


 ――結局、今日の件に関しては誰も教えてくれなかった。

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