2011年 漫画の実写映画の地図。

【2011年 実写化映画】「本当の不幸は、決してありのままの姿で近づいてこない」作品群。

『郷倉』


 2011年に行きましょう。

 3.11が起こった年ですね。

 僕が2月で20歳になって、倉木さんが25歳で10月に26歳になった年です。


 順番は倉木さんからでよろしいですか?

 今回、逆にしても面白いと思うのですが、2010年を踏まえて変えたい部分があれば、伺いたいです。


『倉木』


 逆でいこう。しばらくは、あまり、書き込めんかもしれんから。


 あと、最近、感銘を受けた話があって。

 少年漫画と少女漫画のちがいです。

 結論から言えば、少年漫画の主人公は挑戦者としての戦いで、一方の少女漫画の主人公は防衛戦である。


 詳しく話したいが眠い。


『郷倉』


 かしこまりました。

 僕も今から書くのと、明日は忘年会? みたいなものが入っているので、もしかすると、少し空くかも知れません。

 申し訳ないです。


 その上で、少年漫画と少女漫画の違いは面白いですね。

 漫画の実写映画について考えていくと、原作がどこの誰に向けて描かれているか、というのが重要になるな、と思うようになっています。


 10代女子に向けた作品と20代男子に向けた作品を同列に語るって、難しいよね? というか、同列に語る場合、普遍的なことしか話せなくなるよね? と思っています。

 その違いで言うと、青年漫画とレディースコミックはどう違うのかも、気になるところです。


 とはいえ、まずは寝てください!

 全然、こちらは体力がある時とかに返信いただければ、問題ないものですので。


(※3日経過)


 すみません、遅れてしまいました。

 もはや誰が読んでいるんだろ? ってなっているカクヨムのエッセイなんですが、地味に直しに時間が食われて、昨日はこちらを書くことができませんでした。


 さっそく、2011年の映画について語らせていただきたいと思います(毎回のごとくですが、質問は後でまとめていただければです)。


 まず、今回語りたいとタイトルを羅列いたします。

「GANTZ」「GANTZ PERFECT ANSWER」「モテキ」「スマグラー おまえの未来を運べ」


 とくに共通点のないタイトルに思えますが、震災があった年ということを踏まえて改めて見直したり、思い返したところ以下のような一言にまとめることができる気がします。


「本当の不幸は、決してありのままの姿で近づいてこない」


 例えば、「GANTZ」「GANTZ PERFECT ANSWER」は地下鉄での人助けによる死、「モテキ」は新しい職場の上司を逆恨みした女性に刺される、「スマグラー おまえの未来を運べ」は運び屋という甘い仕事。

 すべてが、最初のきっかけより、更なる不幸へと落とされる構造となっています。


 また、「GANTZ」と「モテキ」はそれほど不幸になっただろうか? と首を傾げる部分ではありますし、考え方によっては幸福な終わりだったと言うことも可能です。

 実際そういう部分はあって、今回挙げた物語は決してバッドエンドという訳ではありません。

 考え方によってはハッピーエンドと解釈できます。


 しかし、彼らが映画内で体験するエピソード(冒頭)は間違いなく地獄(ないし、日常の降下)のそれであり、共通の印象として僕は「地獄めぐり」の物語を感じました。


 それは今回、選んだ映画が特別というよりは、生きるってことは突き詰めれば「地獄めぐり」的な側面があり、それを際立った映画が今回、僕の選んだタイトルである、と理解いただければ幸いです。


 そんな訳で、こんな地獄めぐりは嫌だ、という視点で選ぶなら、「GANTZ」「GANTZ PERFECT ANSWER」になるかと思います。

 地下鉄で死ぬところから始まり、強制的に宇宙人と戦う羽目に陥るので、地獄の入り口が過酷すぎません? ってなります。


 けれど、GANTZのゲームに参加することで、小学校の頃の友達(松山ケンイチ)と交流が戻ってきたり、同じ大学の女の子(吉高由里子)と関係ができたりもするんで、「あれ? 地獄にしては意外と……」ってなっている間に、松山ケンイチが死んだり、参加した訳じゃなかったGANTZゲームにどっぷりハマってプレイする他なくなったりする訳です。


 ネットなどで感想を探してみると、みんな二部作目の「GANTZ PERFECT ANSWER」で描かれたオリジナル展開に不満を持っているようでした。


「GANTZ」って、青年漫画界でカルト的な人気を誇っていて、男の子のバイブルみたいな位置付けで、そんな「GANTZ」の主人公がジャニーズの二宮和也が演じて、女性向けの吉高由里子と二人で過酷な世界を生きるためのラブロマンスに落とし込もうとされていて、不満みたいな印象を僕は持ちました。


 そう印象を持たれても仕方がないくらい、とりあえず吉高由里子が死なない。敵がそんな銃をぶっ放しているのに、ほんとまったく当たらない。

 にも関わらず、仲間のおじさんだったり、「GANTZ」を知り尽くしている西くんだったりは、あっさり死んでいく。


 映画の都合で命の選別されていません? って言われても、まぁしょうがない作りで、原作の「GANTZ」は、そういう命の選別がなく、無慈悲に重要キャラが死んでいくのが良いんだよ! そういう無慈悲さが逆に命の大切さを描いているんだよ! っていう原作房の不満は分かります。


 分かりますが、原作との違いを見つけて不満を言うことには何の生産性もありませんから、そんな無駄なことをせずに、なぜ、「GANTZ」はこんな映画になってしまったのか? ということを考えるべきでしょう。


 2010年でも少し書きましたが、この時期の漫画の実写映画はファンの顔色を窺いつつ、作品を作るような、少しおどおどした印象を僕は持っています。

 今回の「GANTZ」に関しても顔色を窺った相手がいます。


 それが二宮和也と松山ケンイチというイケメンを見に来た女性ファンたちだったのだろう、と僕は思います。

 その女性ファンが自分を投影する相手として小島多恵役の吉高由里子だったのでしょう。


 だから、そんな女性ファンを投影した吉高由里子は敵の攻撃の最中でも自分の感情を優先しますし、誰も彼女を殺すことはできません。


 吉高由里子を殺す、ということは「GANTZ」の原作を知らずに見に来た視聴者を切り捨てる印象になってしまいます。

 つまり、「GANTZ」のファンだけが見にくるだけでは映画という巨大なコンテンツの製作費は稼げないから、「GANTZ」を知らない人にも楽しめるように作らざるおえなかったんだ、といことなんでしょう。 


 とはいえ、「GANTZ」読者の玄人も見に来る訳だから、そんな彼らが楽しめる作りにもしたいんだ、というような足掻きは随所に見受けられて、個人的に終盤あたりの二宮和也の演技は戦い方が身についてきたような、達人感が出てきていましたし、延長戦としての小島多恵(吉高由里子)がターゲットになっていく展開は説明不足ですが、原作の「GANTZ」にはないものの、あっても悪くない展開の一つに見えました。


 なんなら、「GANTZ PERFECT ANSWER」のラスト、玄野計の決断は原作者が幾つか考えたけれど、選択しなかった結末だったんじゃないか?と疑うレベルで、よく出来ていたような気がします。


 ただ、売れる為にあっちの顔色を窺いこっちの顔色を窺いとぐるぐる回ってしまった為に、説明不足と世界観の破綻があって、細部の作り込みが弱い映画になってしまった。

 そんな印象を「GANTZ」には持ってしまいます。


 むちゃくちゃオススメするぜ、とは言いませんが、鬼滅の刃とかにハマって、僕/私もこんな物語を作るんだ!って創作欲が湯水のように沸いてます系の十代には、意外と楽しめる映画にはなっているかもしれません。


 思ったより、書いてしまって自分で引いています……

 次は「スマグラー おまえの未来を運べ」にしますが、明日にします。

 そして、もっとコンパクトにします。

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