【2010年 実写化映画】生々しい現実を描くことはエンターテイメントになるのか。

『郷倉』


 カイジってビッグタイトルですし、藤原竜也がはまり役で、ぱっと見は失敗のしようのない作品な気がするんですけど。

「カイジ ファイナルゲーム」の評価は上映当初から低かった印象です。

 何がいけなかったのか……

 また、質問やツッコミがあれば、後からまとめてしていただくとして、続きの話を投下します。


 僕は「大奥〈男女逆転〉」を模範的な男の子(あるいは、理想的な男の子)を描いた物語だと位置づけました。

 しかし、この映画の副題は〈男女逆転〉であり、大奥の本来の物語は水野祐之進(二宮和也)が女性であり、徳川吉宗(柴咲コウ)が男性であったはずなんです。


 この男女の役割の逆転によって、男性と女性の違いを浮き彫りにさせようとした作品が「大奥〈男女逆転〉」だったようにも見れます。

 その為、2010年に僕がもっとも優れていると思う作品は「大奥〈男女逆転〉」になります。


 ただ、模範的な、あるいは理想的な男の子を描いていた、という言説によって、際立てられる作品があります。

 模範的な男の子、女の子の物語のほぼ全ての逆をやった物語、それが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」だったんだと僕は思っているんです。


「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を初めて見た時、倉木さんも近くにいました。

 覚えていますか?

 僕らが同じ教室で授業を受けていた頃のことです。ある先生が、「最近、見た映画でめちゃくちゃ面白い作品があったから、今日はこれを流す。授業じゃない。ただ、俺が好きだから見せるんだ」みたいことを言って、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を流したんですよね。

 つまり、その時に出席していたクラスメイトは全員、その映画を見たんですよね。


 あの映画を二十歳になっていない子たちもいる教室の中で流そうと思った、あの先生が僕は好きで仕方がありません。

 そんな「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のあらすじをウィキペディアで調べると以下のように出てきました。


 ――妄想ばかりの三十路目前である超等身大ダメ男・田西敏行・27歳は玩具を取り扱う会社に勤務している平凡な青年。職場の飲み会で憧れの後輩・植村ちはると初めて話をし、二人の仲は徐々に進展していくが、残酷で不条理な現実の前に翻弄される。


 僕が今回、注目したいのは「残酷で不条理な現実」という点です。


 当時、倉木さんと共通の友人Yが「トイレに向かって主人公がオナニーするシーンで、トイレットペーパーでちんこを包んではやらんくないですか?」と言っていました。

 どういうツッコミなんだ? って思ったんですが、倉木さんは「映画の演出上、ああいう見せ方しかなかったんじゃない?」と言っていて、(おそらく)二十歳にもまだなっていなかった僕(郷倉)は、凄い話をしているぜ、って内心で呟いたのを今でも覚えています。


 また、ヒロインに関して倉木さんが「付き合った男が悪かっただけで、あの子は純粋な良い子だと思うよ」と言っていたのも印象に残っています。


 ちなみに、ウィキペディアにて著者は「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は実話を元に描いたとインタビューで答えているようです。

 では、この残酷で理不尽な現実とはなんでしょうか?


 それは「好きな女子社員に告白できず、誤解に基づいて破局し、寝取られ、避妊手術に立ち会い、恋敵とケンカして負けるという展開」です。

 しかも、恋敵と喧嘩に向かう最中で入ったトイレで、恋敵の同僚と思われる男が、主人公の好きな女の子にフェラチオをしてもらった、というような立ち話を聞かされる、という地獄な展開。


 更に恋敵とケンカして負けた後、ヒロインが主人公に近付いてきての第一声が「○×くん(恋敵の名前)は無事?」という問いであり、主人公が恋敵の同僚にまでフェラチオをしたなら、自分にもしてくれ、と言う訳の分からないお願いに「うん、頑張る」と言われてしまい、そういうことじゃねーんだよ、とヒロインを突き飛ばして一人で走っていく、というのが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」な訳です。


 ここには「愛を信じて頑張っていれば、必ず報われる」というような漫画的、物語的なご都合主義は一切なく、模範的(理想的)な男の子も、模範的(理想的)な女の子も存在しない、ただの生々しい現実があるだけです。


 映画とはエンターテイメントであり、人を楽しませるコンテンツだと言われています。

「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は要素だけ見れば、決して人を楽しませられるものではありません。男の子は当然のようにトイレでオナニーをしますし、女の子は好きな男のためなら知らない男にフェラチオをします。

 見るからの悪役に挑んでも当然のように負けますし、挑んだことを誰も評価してくれません。


 けれど、これが面白い映画だよ、とわざわざ教室で上映する先生がいました。

 素晴しい先生です。僕は心から尊敬しています。


 ただ生々しい現実を描くことがエンターテイメントになることがある、そう高らかに宣言するような傑作「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を僕は2021年から振り返って重要な作品として推したいと思います。


『倉木』


 ボーイズ・オン・ザ・ランは名作やし、大好きやし、推してもいいと思うからこそ、僕なりの考えを語らせてもらいます。


 ただ生々しい現実を描くことがエンターテイメントになることがある。そういうのもあるのかもしれないけれど、ことボーイズ・オン・ザ・ランに関していえば、生々しい現実を描いたと「みせかけた」エンタメ作品だと、僕は思っています。


 というのも、説明してもらったようなあらすじの流れがあったとして、どうしてケンカや暴力でどうこうするねんって思うんよね。そこに生々しさがない。もっとも、その生々しさを排除したからうまれる流れは、エンタメ以外のなにものでもありません。サラリーマンアッパーは真似したくなる技やし。


 ケンカする流れをもっと自然にするならば、恋敵の日常に暴力があるべきだった。

 教室でボーイズ・オン・ザ・ランを見たときに先生にも言った感想やけど、恋敵はもっとクズであってほしかった。と話した記憶がある。


 クズ=暴力や喧嘩が相手の土俵であってほしかったんやろうな。

 それこそ大人なら別の解決法があるかもしれんのに、相手の土俵まであえて落ちて戦う。相手の得意なところで勝るのは盛り上がる展開だからね。


 似たような物語として思い出した映画は、フライ・ダディ・フライです。

 ふわふわした、まぁまぁな現実を送っていたオッサンが、あることをキッカケにして、不良に喧嘩を挑む。不良の土俵がそこだから、喧嘩という解決法が自然。ちなみに、一方的に武器を使う喧嘩は自然な流れだとしてもエンタメじゃないので、作中では許されない。


 喧嘩というものは、オッサンにとっては、いまよりも、下ともいえる場所になる。そこで走り回ることによって、オッサンは十分な助走をとって、物語がはじまったところよりも高く翔ぶ。


 ボーイズ・オン・ザ・ランは最後のシーンで走り出す。フライ・ダディ・フライのオッサンみたいに、高く翔んではいないものの、「そんなんじゃねぇんだよ」と、走り出した姿は、まさにエンタメの象徴ともいえる行動ではないでしょうか。


 ボーイズ・オン・ザ・ランへの批判というか、不満点を全部、吐き出した気分やで。名作で大好きだから、これぐらいしか否定的な部分がないんやろうね。

 この年の他の漫画原作への不満はこんなもんじゃねぇ。


『郷倉』


 なるほど。

 確かに僕の主張である「生々しい現実を描くことがエンタメになる」が芯に貫かれているのであれば、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のラストは走り出してはいけないんですね。


 ただただ生々しい現実を描くのなら、その場でへたり込んで終わるべきでしょう。

 また、原作漫画の「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は映画本編の内容後に二部のようなものがはじまって、主人公の田西敏行は海外へ行き、本場の格闘技を学ぶ、というコテコテのエンターテイメント展開を見せます。


「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の映画のラスト一歩手前までは僕の主張の「生々しい現実」だったとしても、走り出して向こう側(本場の格闘技を学ぶ)へと渡ってしまえば、エンタメになる。

 であれば、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は現実と虚構(エンタメ)を渡る、その瞬間を描いた作品として認識した方が良いのかも知れません。


 ちなみに、ウィキペディアでエンターテイメントを調べると以下のようにでてきます。


 ――"entertainment"という言葉の原義としては、特に演者の技能を鑑賞することを主体とした見せ物、出し物、余興などを指す語で、スポーツ・舞台演劇・演奏会・公演などを指す。


 ウィキペディアの主なエンターテイメントの中には映画も含まれています。

 森山未来が言っていたと記憶していますが、舞台の上に、その辺に酔っ払っているオッサンを立たせたら、それはもう作品(エンタメ)になるそうです。


 僕が「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を生々しい現実を描く作品であると評する根底にあるのは、原作が実話を元に描かれている、とインタビューにあったからでした。

 しかし、その実話を漫画に描き移す行為そのものが現実をエンタメ化させなかった、とは言い切れない。


 と言うよりも、どんな実話であっても、森山未来が言う舞台の上に立たせてしまえば作品になってしまうのだから、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の元になった実話は漫画化された時点で、エンターテイメントだった訳ですね。


 であれば、エンタメ的にエンタメを否定する構図が「ボーイズ・オン・ザ・ラン」にはある、という形で、最後に一つ語らせてください。


 倉木さんが言及していたサラリーマンアッパーなる技があって、それが映画のパッケージングにもなっています。

 そんな超エンタメ的な必殺技があって、それを使えば俺は勝てるんだ、って思っている主人公が普通に負けるのが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」なんです。


 主人公、田西は自分が模範的(理想的)な存在、「愛を信じて頑張っていれば、必ず報われる」と信じている痛い存在なんです。

 彼は、自分を物語の主人公だと思っている。


 だから、好きな女の子を孕ませて捨てた男に真正面から喧嘩を売って、ギャラリーを集めて、サラリーマンアッパーをかまそうとします。

 繰り返しますが、田西のそんな滑った行動は報われず、恋敵にあっさりと負けます。


「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のあらすじにもありましたが、「妄想ばかりの三十路目前である超等身大ダメ男」が田西なんですよね。

 恋敵に負け、好きな女の子にもフラれて、ようやく、本当にようやく自分は物語の主人公じゃないんだ、と思い知ることができた、それが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」なんだと思うんです。


 そして、そんな挫折を飲み込んで走り出した瞬間に、皮肉にも田西は物語の主人公になれたんだとすれば、これは結構面白い構造になっているなぁと思います。


 個人的にこうして考えていくと、次の年で語る「モテキ」の主人公、藤本幸世と通じる部分があります。田西は何も救えないが、それでも立ち上がったからこそヒーローとなり、藤本幸世は完璧なエンタメパワー(ミュージカル的演出)で世界の中心は俺だ。

 俺が主人公だ、と物語世界を巻き込んでいきます。


 やっていることは一緒なんですが、「モテキ」は「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とは違った終わり方を見せます。この辺は、またその際に語らせていただければと思います。

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