待つ

歌垣丈太郎

            待つ

                               歌垣丈太郎


 文庫本のコーナーは今日も若い女性たちでにぎわっていた。

 私鉄電車のターミナルにあるこの大きな書店は、午後8時を過ぎた今も勤め帰りの人たちで混雑していて、とくに入り口近くの新刊雑誌売場のあたりは折り重なるような人波がつづいている。少し奥まったところにある文庫本コーナーは、その人混みにくらべるとまだましなほうでお互いに肩や肘を突き合わすこともなく、めざす書棚や本の背表紙になんとか手を伸ばすだけの余裕を残していたが、ゆっくりと立ち読みをするだけのゆとりはさすがに残されていなかった。それにこういう時間ともなると、じっくり本を択んだりする人も少なくなって、入れ替わり立ち替わりする客たちのほとんどはきまぐれに手に取った本を内容の一行にも目を通さず買い求めて、数分も経たないうちに足早に消え去ってしまう。

 矢代晶子は「現代イギリス名詩選」の数ページを読んでいるうちに、そんなあわただしい周囲の動きについ気怯れがしてしまい、たちまちその場所にもいたたまれなくなって本を書棚に戻すと、また追い立てられるように店内を移動した。

 恋人たちが待ち合わせ場所としていつも利用する書店前の公衆電話コーナーで40分。書店の中へ入って新刊雑誌売場を小さくなってすりぬけ、旅行関係の書籍をあれこれ手に取って30分。さらに文学新刊書やベストセラーがならぶ平台の前でも15分。ほんの数分しか立ち寄らなかった新書や全集もののコーナーなどを加えると、矢代晶子はすでに一時間半以上もこのあたりにいる計算になった。いつものことだったとはいうものの、晶子はさすがに細い足の膝裏あたりやローヒールの爪先に、軽い痺れのようなものを感じはじめている。時間の流れが実際より数倍も長く感じられるけれど、よけいに切なくなってしまうから我慢して腕時計を見ないようにしているが、見なくても晶子には1分刻みの長針の動きが手に取るように分かる。しかし晶子は今がもう何時頃なのかということや、黒田雄次を待ち始めてからどれくらいの時間が経ったのかということより、むしろ自分がいまこの広い書店のどのあたりにいるのかということのほうに気をとられていた。

 店内中央に位置している売場には自然科学や社会科学の専門書が並んでいる。大学生と思しき若者やネクタイを締めた男性たちが、深刻そうな顔をして本の腰巻に眼を通したり、めざす一冊に手を伸ばしたりしているその売場をすり抜けて、晶子はだんだん暗い顔になりかかっている自分を気にしながら、伏し目がちに美術書が並んでいる書棚のほうへ重い足を向けた。旅行関係の本の売場、ベストセラーコーナー、そして文庫本の書棚への移動はそのまま、晶子が書籍に対して持っている関心の深さと順位を示していて、美術書はその最後のものだったけれど、晶子は最近の経験からすると、この場所まで足を運んだ日に雄次と会えたことは一度として無かった、ということをよく知っている。付き合い始めたころの雄次は、待ち合わせにどれほど遅れてきても、晶子がベストセラーコーナーにいる間には必ずやってきたものである。

 黒田雄次は会社の同僚だった。2歳年上だったけれど短大出の晶子とは同期の入社で、同じ営業部へ配属になってから男女の付き合いをするようになった。今ではほとんどの同僚が知る仲だったが、それでも手をつないで退社するほどの厚顔さはどちらも持ち合わせていない。だから最初のデートのときから二人はこの書店の前を待ち合わせ場所と決めていたのだ。しかし回を重ねるに従って雄次がやって来る時刻はまちまちになり、晶子は長い時間を書店前や公衆電話のそばでじっと待っていることが耐えられなくなった。周囲には何十人という男女が待ち合わせをしているが、そのほとんどが10分と経たないうちに相手をみつけて立ち去っていく。30分以上も待ち続けているのはいつも晶子だけだった。そうなると周囲の人たちや通行人の視線が、すべて自分へ向けられているように感じられて、晶子はいつも雄次のことを恨めしく思ってしまうのだった。だから、それまで不安そうだった若い女性の表情がいきなりぱっと弾けると遠くで手を振る男性のほうへ駈け去って行ったり、これ見よがしに男性の腕にからみついたりして次々と周囲から減っていくのを見ていると、なかなか相手が現われない自分がみじめになって、晶子はいつしか40分を過ぎると書店の中へ入るようになっていたのだ。雄次もそういうときは気を回して店内を探してくれたし、待たせた時間によって彼女がどの売場にいるかという見当も、長い交際のあいだにはつけられるようになっていた。しかし文庫本の書棚まで移動して、しかも彼と会えた経験はこれまでに一度あったきりだったから、その場所からさえ離れてしまった今では、すでに雄次が今夜やって来る可能性はほぼゼロに近かったのである。

 実際に待たされた時間の長さよりも、晶子の心にはその経験則のほうがはるかに重くのしかかっていた。だから美術書のコーナーへ足を向けることにはもう何の意味も残されていなかったのだが、かと言って今日だけはこのまま諦めて書店を出る気にもなれないでいたのである。

 この2カ月ばかりの間に晶子は立て続けに3度も雄次からすっぽかしをくらっていた。今日で4度目になるのはほぼ確実だろうが、こうして辛抱強く雄次を待ち続けることはこれで最後になるだろう、と思いながら晶子はぐっと下唇をかみしめた。4月の中ごろに初めてこういうことがあったとき、晶子がその理由を詰問したら、雄次はこう言って釈明したのだ。

 「あれからスポンサーとの打ち合せが入ってね。Pホテルのロビイでさんざん待たされた挙句に高いディナーまで奢らされてしまったんやけど、肝心の広告予算の話になると相手がどうも煮えきらなくてさ。それでもなんとか確約らしきものを取らないと、期待して待っている課長に申し訳が立たないからと、粘りに粘っているうちにだいぶ遅くなってしもうたんや。しかし待ち合わせ場所へ行くことは行ったんやで。2時間くらいは遅れていたけど」

 晶子はそんな雄次の釈明を聞かされると、むしろあと30分が待てなかった自分の非を責めて、次の待ち合わせの時には書店が閉まる頃まで待ってみたものの、やはり雄次は現われなかった。翌日会社へ出勤すると、雄次は忙しそうにしてなかなかつかまらなかったが、晶子は企画書に不明な点があるので説明してほしいという理由をつけて、むりやり雄次を商談ブースの中へ引っ張り込んだ。雄次がつくった企画書は事実わかりにくくて杜撰なところが多くあった。晶子の仕事はそれでもそのままワープロに入力してプリントアウトすれば済んだわけで、わざわざ細かな点まで理解する必要など無かったのだが、雄次はそのとき鼻の頭に脂汗を浮かばせて企画書の内容を丁寧に説明したあと、急に声をひそめてこう言ったのだ。

 「ほらS社のテレビCM、あれがいま制作段階に入っていることはきみも知っているやろ。その撮影にスポンサーが立ち合うと言い出したもんやから、ぼくも営業担当として付き合わんといかんようになってしもうて。CMの撮影はえらい時間のかかる仕事やから、まあ1時間もしたらS社の担当かて音をあげて、もう帰る、と言い出すはずやと高を括ってたんやけど、その担当者はまだ宣伝部へ配属されたばかりということもあって何もかもが珍しいらしく、スタジオの中をうろうろ歩き回ったあと、とうとうディレクターチェアに座り込んでしまい、それでなかなか現場を脱けられんようになったんや。えっ、閉店まで待っとったんか・・。まさか、きみがそんな時間まで待ってるとは思わんから昨夜はそのまま帰ってしもた。いやあ、そいつは悪いことをしたなあ」

 雄次は頭を掻きながら弁解の言葉を並べたてたが、なぜかさかんに商談ブースの外を気にしているようだった。二人の仲は会社でも知らない人のほうが少ないのだから、晶子はそんな雄次の落ち着きのない態度を不思議に思ったが、たぶん商談ブースを使って私的な会話をしていることに気を使っているのだろうと軽く考えただけで、そのときはまだ雄次の言い訳を疑ってかかる気持ちなど起こらなかった。ただ続けてすっぽかされたことに対する怒りだけが強くて、晶子はボールペンを指先でくるくる回しながら強い調子で雄次に詰め寄った。

 「二度もこんなことが続いたんじゃ、わたしだって我慢できないわ。それでなくても最近のあなたは、仕事が忙しいからと言ってなかなか会ってくれないのに、次がいつになるかも分からないなんて嫌よ。今夜にもその償いをしてちょうだい」

 「無茶を言うなよ。今夜は木村たちとマージャンの約束が出来てるんや」

 「わたしが断ってあげるわ。それなら文句ないでしょ」

 晶子は本当にそうするつもりだった。その剣幕に押されたのか、雄次は手に持った企画書を丸めながらあわてて立ち上がると、

 「分かったから。何とか都合をつけてみるよ。だから木村にはそんなことを言わんといてくれ」

 と視線を宙に泳がせながら力なく答えて商談ブースを出ていった。

 4人掛けテーブルの上に残された灰皿の中で、雄次が消し忘れていったマイルドセブンの紫煙が、広告会社のオフィスには不釣り合いなほど高い天井に向かって燻っていた。紫煙は上空の半ばを過ぎたあたりでエアコンの風にぶつかってゆらめき、ブースの右奥のほうへと流されていく。雄次が残していったフィルターの湿った吸い殻を改めて鋳物製の灰皿に押しつけて残り火を消しながら、晶子はブースの中にまだかすかに漂っている彼の体臭を拾いあつめた。ひさしぶりに嗅ぐその体臭は、晶子が実家で飼っている座敷犬で、ポメラニアンのケニーの匂いに似ていた。男性は野性動物の匂いがするものだとそれまで思っていた晶子は、はじめて雄次の腕に抱かれたとき、そのことがひどく意外に感じられて、強い怯えと不安に襲われたことを覚えている。もしかするとこれは雄次の体臭ではなく、自分のからだにいつのまにか染みついたケニーの匂いなのではないか、と晶子は怖れたのだ。ポメラニアンのケニーは晶子が家に帰ると片時もそばを離れない。ベッドの中にまでもぐりこんできて、ふさふさした毛を朝まですり寄せてくる。だからその匂いが自分のからだに移っていても不思議ではなかったし、たまたま自分がこれまで気がつかなかっただけなのではないかという思いにとらわれて、晶子は雄次の逞しい腕でからだを押し開かれる恥ずかしさよりも、そのことのほうが気になって思わずからだを固くしたほどだったのである。だがそれから何度も雄次に抱かれるうちに、その体臭は間違いなく彼のものであり、ケニーのものではないということがはっきりして晶子をほっとさせた。

 商談ブースでそんなやりとりがあった二度目のときも、雄次はやはり約束を守らなかった。その夜も晶子は書店で二時間以上も待たされたのである。

 そうなるとさすがに晶子も雄次の心変わりを感じないわけにはいかなかった。あれこれ考えて眠れない夜を過ごした翌日の朝、晶子は早出して雄次の出社を待ち構えていた。ところが出社時間もぎりぎりに飛び込んできた雄次は、同僚の誰にともなく大きな声で、おはよう、と声を掛けると、所属課長と五分ばかりの打ち合せをしたあと、ばたばたと机の書類を紙袋に詰め込んであっというまに外回りへ出てしまい、晶子たち女子社員が帰社する時刻になっても戻ってこなかった。雄次は外回りの営業だからもともとそれほど長く社内にいるわけではないが、これまでなら目と目で合図を交わしてエレベーターホールや非常階段の踊り場に行ったりすることで、短い会話やデートの約束を交わしてきた。しかし雄次はその日ついに晶子へ何の弁解もしなかっただけでなく、翌日からは視線を合わすことすら避けるようになって、それまでさかんに晶子へ回してきた営業補助の業務まで意識的に他の女子社員へ頼むようになってしまったのだ。晶子は、今や自分は捨てられた女の立場に置かれている、ということをはっきりと思い知らされた。また実際にそうなってみると社内恋愛くらい惨めなものはなく、誰もが知っている恋仲だっただけに同僚たちの目がひどく気になって、これまでのように大胆な振る舞いはできなくなり、雄次とは毎日何度も顔を合わせているのに、ひとことも交わせない日ばかりがどんどん過ぎていった。

 黒田雄次は山口県の出身で阪急神戸線のT駅に近いマンションに一人で住んでいる。晶子はしかたなくそのマンションまで出掛けていって、終電車が走り去る時間近くまで二度ばかり待ってみたが、帰宅してくる雄次をつかまえることはできなかったし、3階の西隅にある彼の部屋の灯りはその間ついに点らなかった。固定電話へも何度か掛けてみたけれど、冷たい感じのする雄次の声でいつも同じ不在テープが回るばかりだった。ともかく一度会って話がしたいとか、せめて自宅へ電話をして欲しいとか、晶子はその都度短いメッセージを入れておいた。しかしそのテープを聞いているのかいないのか、雄次は相変わらず職場で晶子に声を掛けることもなく、一連の振る舞いを見るかぎり故意に晶子を避けていることは明らかだった。

 どうしてこんなことになってしまったのか、晶子にはさっぱり分からない。知らないうちに雄次を怒らせるようなことを言ったのかも知れないとか、彼が許せないようなことを自分で気がつかないままやってしまったのかとか、あれこれ考えてはみたものの、晶子にはついにこれという思い当るふしが見つからなかった。考えれば考えるほど分からなくなってしまい、やがて会社の仕事までが手につかなくなって、陰鬱な表情でぼんやりしている時間が多くなっていった。ここ数日などは仕事上のミスも増えてきて課長から何度も指摘や注意を受けている。ところが以前なら誰彼となく口汚くののしっていた課長が、どういうわけか近ごろ晶子にだけは言葉を択び、僅かな叱責だけで済ませるようになっていることにすら気がつかないほど、晶子の落ち込みようはひどいものだったのである。

 そして今日、ついに晶子は雄次の心変わりの理由を知った。

 営業一課の朝礼で課長が披露した話が今も晶子の頭の中でぐるぐると渦を巻いている。神妙な顔をして居並ぶ課員たちを前にして、課長はいま取り組んでいるプロジェクトの進捗状況をあれこれと説明し、営業成績がやや伸び悩んでいる現状などを大きな声で訴えたあと、全員を威圧的にぐるりと睨めまわしながらしばらくの間を置くと、それでは今日も一日頑張ろう、といういつものハッパの言葉に代えて突然こう言い出したのだ。

 「ところで、我が営業一課のホープである黒田雄次くんがこのたび結婚することになりました。まことにおめでたいかぎりで、黒田くんには結婚を機に一層の頑張りを期待したいと思います。式の日取りは来月の十五日と聞いていますが、彼はそのあと結婚休暇と夏期休暇、それに年次休暇までフルに使って約3週間の新婚旅行に出掛けるそうです。まことに羨ましくも不届きな申し入れなのですが、まあ事情が事情で致し方のないことだと許可しました。しかしながら一課の上半期の営業成績は、予算ぎりぎりの線をなんとか維持しているものの、7月から8月にかけては例年不振で数字が上がらず、非常に苦しい戦いになることは皆も知っての通りです。そのような時期に黒田くんが抜けるのは実に痛い。ただそれで予算が達成できないようでは全員の恥になります。石にかじりついても、いやクライアントにかじりついてでも何とか上期のノルマを果たすよう、残った者で頑張っていただきたい」

 7名の課員たちの後ろのほうで課長の話を聞いていた晶子は、その瞬間、顔から血の気がひいて脚がぶるぶると震えるのが自分でも分かった。立ちくらみにまで襲われて一瞬ぐらりとしたが、なんとか倒れ込まずに済んだのは、右横にいた同期の桜井めぐみがすかさず晶子の腕を支えてくれたからだった。目の前が真っ白になってほとんど何も見えなかったのに、晶子は課員たちの視線が一斉に自分へ注がれたような幻覚に襲われて、思わず床へ顔を背けずにはいられなかった。

 朝礼が終わると、桜井めぐみは晶子のからだを抱え込むようにして、広い廊下の突き当たりにある湯沸し場へ連れていってくれた。カーテンを締め切った狭い湯沸し場にうずくまって、晶子はしばらく声をころして泣いた。めぐみは他の女子社員が入ってきたり覗きこんだりしないように、後ろ手でカーテンの合わせ目をしっかり握ってガードしてくれた。覆った両手に長いストレートヘアが落ちかかり、晶子の表情はめぐみにはまったく見えなかったけれど、そのあいだから洩れ出る絶え間ない嗚咽とシルクの白いブラウスの下で小刻みに揺れている薄い肩が、突然のしかかってきた哀しみの深さと支えきれないほどの重さを切なく訴えていた。

 「晶子が知らなかったなんて、わたし、これまで考えもしなかったわ。決して隠していたわけじゃないのよ。だって何度も慰めなきゃと思っていたくらいなんだから。信じてくれるわよね。黒田さんがあなたと別れたってことも、他の人と結婚するらしいっていうことも、同じ課のものなら誰もがとっくに知っていたんだもの。ごめんね晶子、ほんとうにごめんね」

 そう言いながらめぐみは晶子の背中を擦ってもらい泣きした。頬を伝った大粒の涙がすーと糸を引いてめぐみの豊かな胸の谷間あたりへ落ち、さらに菫色をした制服のベストへ水玉のような黒ずんだ染みが残した。

 「それなのに肝心の晶子が知らなかったなんて・・。あなたに黙って結婚するなんて、わたしは絶対に黒田さんを許せないわ。今からでも遅くないから二人で話し合いなさいよ。晶子が言いにくいのなら、わたしが代わりに言ってあげる。今夜いつものところで晶子が待っているから必ず行って下さいとね。すぐ伝えてくるわ。それでいいわね。いえ、そうでないと駄目。だからしっかりして、晶子」

 めぐみはただ泣きじゃくるだけの晶子にそう言うと、後ろ手でカーテンの合わせ目をぎゅっと握り締めながら、はちきれそうな胸をさらに突き出して続けた。

 「晶子はしばらくここにいなさい。黒田さんはすぐ外回りに出掛けちゃうからその前につかまえないと。今から行ってそれだけを伝えたらすぐ戻ってくるわ。それまではここでじっとしているのよ」

 めぐみはそう言うと、ようやくカーテンから手を離して、涙も拭かないまま荒々しく湯沸し場を出ていった。

 晶子にはもうそんなめぐみを引き止めるだけの気力が残されていなかった。いきなり急流に突き落とされたような晶子は、深く傷ついた心とからだをその流れのままにまかせるより方法が無く、泳いで岸に這い上がる力も無ければ助けを呼ぶ声すら出せなかった。だから数分の後にめぐみが戻ってきて、何とか間に合ったからしっかり伝えておいたわよ、と言って肩を抱きすくめてくれたときも、晶子にはどう答えたらよいのかすら分からず、その思いやりに感謝するという気持ちより、してくれたことがさらに自分を激しく翻弄する波しぶきの一つになるように感じられて、ひどく迷惑に思ったくらいだった。

 だがつらい一日のあとにようやく退社時間がきて、更衣室でめぐみから、いいわね、黒田さんに言いくるめられないようにしっかり話し合ってくるのよ、とふたたびそのことで念を押されたとき、晶子はもうどうにでもなれという自棄的な気分になっていた。恵みが告げた場所に今さら雄次がやって来るとは到底思えなかったし、待ってみたところでまたいつもの惨めな時間を過ごすだけだということも晶子には分かっていた。ただこのままの状態で帰宅してしまうことが出来なかっただけで、地下街の人波に揉まれながら夢遊病者のようにターミナルまで歩き、ゆらゆらと押し流されるままに行き着いた先がこの書店であり美術書売場だったのである。

 「あれ、矢代くんじゃないか」

 何の目的もなく書棚の一画に近づいたとき、晶子はいきなり横合いからかけられた男の太い声に驚いて顔を上げた。

 するといかにも戸惑ったような表情の中年男が大きな画集を胸の前に開いて、晶子のからだともう少しでぶつかりかねないほどの距離に突っ立っていた。男が声を掛けてくれなかったら、晶子は間違いなく彼の足を踏んでいるか、抱えた画集を払い落としてしまっていたに違いない。

 「あっ、筒井次長・・」

 晶子は自分でも恥ずかしくなるほどの大きな声を上げた。

 筒井守は晶子が勤務している広告代理店の営業部次長で、4課のうち1課と2課を統括する立場にあったから、彼女にとってみれば直接の上司にあたる男だった。とは言え営業庶務の女子社員の一人に過ぎない晶子などは、ときたま彼の来客へお茶を運んだり、ちょっとした雑用を言いつけられることはあっても、ふだんはほとんど口を交わすことなど無かった。

 筒井次長はデスクに座っていつもぼんやり何かを考えているので「昼行燈」という古臭くて余り有り難くない渾名がついていた。その渾名には明るい昼の間はやや精彩を欠くけれども、暗い夜になるとたちまち元気になってキタやミナミの盛場をうろつき、深夜まで飲んだくれている男という意味も含まれているようだった。ただ今年の秋の人事異動では、何人もの同期を差し置いて部長に昇進するらしいと噂されている彼の真の正体は、そういう渾名とはまったく異なる一面を持っていることでもよく知られていた。たとえば数日デスクにいない日が続いたかと思うと、ある日途方も無く大きなプロジェクトや広告予算を持ち帰ってきて、予算の達成に苦しんでいる1課や2課へ振り分けてくれたりするのだ。またクライアントをまじえた宣伝会議などでは、気鋭のコピーライターやアートディレクターですら腰を抜かしてしまうような、斬新なアイデアを持ち出したりもするらしい。そればかりか営業部全体の動きもしっかりと把握していて、どんな難問に対しても決して判断を誤らないので、昼行燈という渾名とは裏腹に課長たちは筒井次長を内心で畏怖していたし、本当は大変な切れ者なのだということを誰もが認めていたのである。

 「これはまた嫌なところで会うてしもうたな。こんなところで俺に会うたなんて誰にも言わんといてな」

 筒井は、まるでポルノ写真集を覗いているところを見咎められたかのように晶子より何倍もうろたえて、開いていた画集をあわてて閉じると書棚へ戻してしまった。

 「次長は絵画にも関心をお持ちなのですか」

 晶子は凝っとその動きを見つめながら言った。

 筒井の狼狽振りがあまりに可笑しかったので、彼に負けないくらい驚いたはずの晶子のほうは、信じられないくらい冷静になれていた。だからそのときの晶子には、筒井が書棚に戻した画集に刻された『ジェラール・ディマシオ』という金色の背文字まで、しっかり読み取るだけの余裕さえあった。

 「いや、絵なんか俺には分からんよ。ちょっと時間つぶしに覗いていただけでね。それよりきみこそどうなんや。こんな売場へ来るのは画学生か俺みたいな気まぐれ客ということにおよそ相場が決まってる。若いOLなんて見たことがない。そういうきみのほうこそ絵が好きなんじゃないのか」

 「まあ人並み以上の関心くらいはあります。でも自分で描いたりはしませんし、ましてディマシオなんて画家は知りませんわ」

 「まいったな。俺だってそんなやつは知らんよ。そやから好奇心が湧いてちょっと覗いてただけや」

 筒井は頭を掻きながらそう言うと、きちんと締めていたネクタイをわざとだらしなく緩めながら、二歩ほど後ろにからだを引いた。

 ゆっくり筒井が後退りをしたのは、今にもお互いの胸が触れ合いそうなくらい接近していることに気付いたからだろうが、いきなりネクタイを緩めたのも会社の上司であることを忘れさせるための心くばりなのだ、と晶子は思った。昼行燈と呼ばれているけれど実は優秀なビジネスマンで対人関係にも繊細な神経を使う人なのよ、と晶子はいつか先輩の女子社員から聞かされたことがある。

 「それでどうでしたか、ディマシオの絵は」

 「うーん、そうやな」

 筒井は戸惑ったような表情をして書棚に視線を移すと、いま戻したばかりの画集の背文字のあたりをみつめながら言った。

 「ひとことで言うたら20世紀末のミケランジェロというところかな。ディマシオという画家は男と女のみごとなまでの肉体美を描いとる。彼は人体工学なんかも勉強してるそうやから、裸体で描かれた人物はその動きに応じたこまかな筋肉のメカニズムまで実に正確に描いてあって、そういう点ではミケランジェロよりはるかに躍動感がある。そやけど俺があえてこいつを世紀末のミケランジェロやと言うのは、同じように肉体美を描いていながらミケランジェロには人間への讃歌が感じられるけど、ディマシオの絵には滅びの予感が込められてるからなんや」

 「滅びの予感ですか」

 「そうや。このままやったら次の世紀の人類はきっとこういう姿になるに違いないという予見と警告を、ディマシオは描いているんやないかと俺は思う」

 「みごとな肉体を持ちながら人間は近い将来に滅んでしまうとディマシオはその絵の中で言っているのですか」

 「うん、俺にはそう思えるな。現代の若い者が皆そうやと言うつもりはないが、からだは立派でもこころは虚ろということもあるからな。愛とか生きがいを亡くしてもそうなるし、社会が豊かになりすぎてもそうなる。戦争とか裏切りなんかがはじまったらなおさらのことや」

 筒井の言った言葉がなぜか晶子に雄次の顔を思い浮かばせた。晶子はまた暗い表情に戻って目を伏せてしまう。

 「おいおい、きみが世紀末みたいな顔になってどないするんや。若い女性はな、もっと溌剌としとらんとあかん。どうもつまらん話をしてしもうたみたいやな」 

 「そんなことありません。次長の仰言っていることがこんなわたしにも分かるような気がしたものですから、それで少しばかり感傷的になったみたいです。わたし、なんだかこの画集が欲しくなってきました」

 「俺のことなら遠慮せんでもええよ。きみが欲しいと言うのなら喜んで譲るさかい買うていったらええ」

 「ありがとうございます。でも今日は何だか画集を見たりする気持ちにはなれそうにありませんから、二・三日のうちに改めて買いに来ます。ただそれまでに売れてしまわないか心配ですが」

 「もし無うなってたら、そのときは縁がなかったんやとすっぱり諦めることや。きみの人生にどうしても必要なものなら十日後にだって一ヵ月後にだってきっとあるよ。何に限らず縁というのはそういうもんや」

 「わたしにとって必要なもの・・」

 「そうや。たとえ一冊の画集でもな、きみから逃げていくもんはきみの人生にとって必要が無いと言うことなんや。そんなもんはいつまで追いかけても無駄なことやし、いっそ見んほうが賢明と考えることや」

 なぜか筒井は照れたような表情でそう言いながら、ゆっくりと太い腕をかざして黒いダイバーズウオッチを覗きこんだ。晶子もその動きにつられて、香港旅行へ行ったときに桜井めぐみとお揃いで買ったカルチェの腕時計へ視線を落した。午後八時三十分を過ぎたところだった。

 「さてと。ちょうどええ時間になったことやし、そろそろ俺は盛り場へ繰り出すとするかな。どうや、きみもつきあわんか。飲んで騒いで今日一日をパーと忘れるというのもたまにはええもんやで。もっとも俺なんかは毎日やけどな」

 そうしようかな、と頭の隅っこのほうで晶子は思った。

 だが筒井次長は会社であった今朝の出来事をもうきっと知っているだろうと思うと晶子の決心は鈍った。それだけではなくもしこの誘いが、思いがけなく出会った可哀相な女を慰めてやろうとする意図から出ているのだとすれば、なおさら晶子には耐えられない気がするのだった。

 「誘っていただいてありがとうございます。でも今夜はあいにくこれから立ち寄るところがありますので」

 「そうか、じゃあここで失敬するよ」

 「失礼します」

 筒井守はそう答えるとあっさり手を振って離れていった。

 その後ろ姿を見送りながら、晶子は筒井の誘いに乗らなかったことを今更ながら後悔しはじめていた。誘いにはそれほど深い意味など無かったのだということを気づかされたこともあるが、それより咄嗟に口を突いて出た断りの言葉で、自分はこれから雄次のマンションを訪ねるつもりでいるのだということを自覚して、晶子は愕然としてしまったのである。諦めの心とは真逆にしがみつこうとする肉体が自分でも怖くなってきたのだ。それだけではない。今夜このまま一人きりでいたら何かとんでもないことをしでかしてしまいそうな予感さえした。だがもう遅い。筒井守の姿はとっくに書店の入り口近くの人波の中へ消えてしまっていた。

 矢代晶子はしばらくあとに書店を出て電車の改札口に向かった。定期券を手のひらにしっかり握り締めているのに、ふらふらと自動券売機に近づいてサイフから小銭を引き出すと、わざわざ阪急神戸線T駅までの切符を買っていた。T駅は黒田雄次のマンションがあるところだ。晶子はこんな仕打ちを受けてもなお雄次に会いに行くための切符を買ってしまっている自分が腹立たしかった。いまさら雄次に会ってみてもどうなるものでもなかったし、たとえ泣き言や怒りをぶつけてもこの気持ちが晴れるわけではない。まして雄次から言い訳や謝罪の言葉を聞きたいわけでもなかった。それなのに自分はなぜまだ雄次に会いに行こうとしているのか。

 確かに雄次とのつきあいの長さから言えば、晶子にはとても信じられないほどのあっけない結末だった。それだけに雄次が晶子の中へ置き去りにしていった記憶の数々を短時間で整理することなどとうてい出来るとは思えないし、しばらくは雄次を忘れられない日々が続くに違いないとは思う。だが朝礼のあと会社の湯沸かし場で泣きつづけ、桜井めぐみがあえて譲ってくれたワープロ入力の簡単な仕事を人っ気の無いオペレーションルームでやっているうちに、晶子は今日一日をかけてほんの少しながら気持ちの整理をしたつもりだった。めぐみから指示されるまま書店へ来たのも雄次に会えると思ったからではなく、せっかくの親友の好意を無にしたくなかっただけのことで、すでに今の晶子には明日から待ち受けている同僚たちの同情や好奇の目に耐え、隠しきれない傷心の身をあえて人前に晒す覚悟が出来ていたはずだった。

 だがその覚悟とは裏腹に、晶子は定期券をいつのまにかショルダーバッグにしまい込み、買った切符を改札機へ通そうとしている。理性では分かっていても、からだの奥底からむくむくと頭をもたげてくる熱いものが、捨てられた女の現実を認めようとしないのだ。逞しい雄次の肉体に下半身を貫かれたときの感覚がよみがえって、突き上げるような激情が抗っても抗っても切れ目なく湧き上がってくる。もしこのあと雄次に会えたとしたら、わたしは何も言わずにひたすら泣き喚くのだろうか。それとも思いのたけの恨みごとを並べ立てて雄次を責めるのだろうか。そんな様々な思いが家路を急ぐ人波のように晶子の中でぶつかり合いせめぎ合っていた。

 だから改札を抜けてプラットホームへ上がる階段を前にすると、晶子はもう一度かすかな逡巡にとらわれてその場に立ちすくんだ。行ってはいけない、という声が聞こえる。行けば何とかなる、と囁く声もある。どちらの声に従うべきかその結論が下せないうちに、晶子は後方から小走りにやってきた若い男に思い切り背中を突かれ、つんのめるように前へ踏み出した足を止めることが出来ないまま、発車のベルが鳴りはじめたホームに向かって階段を上がって行った。


 T駅の改札を出ようとして矢代晶子は足を止めた。

 何気無く見た視線の先に思いがけなく黒田雄次の姿があったからだ。二人の間は改札機を隔てて数メートルしか離れていなかったが、横を向いている雄次は晶子の存在にまったく気づいていないようだった。雄次は右端の改札機の外側で人の流れを避けるようにして若い女性と立ち話をしていた。ショートカットの髪に淡い黄色のサマーセーターと白っぽいミニスカートがよく似合う女性は、背の高い雄次を見上げるようにしてしきりに何か話しかけている。ワイシャツの腕まくりをした雄次はすでに背広とネクタイを外してはいるが、会社から帰ってきた格好そのままなのではないかと思う。晶子は雄次が持っている背広やネクタイの色や柄のすべてを覚えていた。だが今日一日だけに限って言えば、その服装に注意をはらう余裕などまるで無かったから、たとえズボンの色柄に見覚えがあったとしても、間違いなくそうだと言い切れるだけの自信は無かった。いずれにしても背広やネクタイを着けていないところを見ると、サマーセーターの女性は先程まで雄次のマンションにいて、ほどなく帰るのを見送るために彼が駅までついてきたという状況を物語っていた。

 晶子はすばやく改札口のそばを離れると、ホームのスレート屋根を支えている太い鉄柱の陰に隠れた。ブラジャーが透けて見えそうな薄いシルクのブラウスの下で急に胸の動悸がたかまってくる。線路の方角から流れてくる熱気がそのあたりで澱んでいるらしく、鉄気まじりのいやな空気に包まれて、晶子は固くなったからだのあちこちからじわじわと汗が吹き出すのを感じていた。それでもその場所を動こうとしなかったのは、まもなく雄次と相手の女性の交わす会話が、驚くほどはっきりと聞こえてきたからだった。

 「ほんとうに大丈夫なんでしょうね。もし結婚式に乗り込んで来たりしたら、わたし絶対にあなたを許さないわよ」

 「そんなことしやしないよ。結婚の約束なんかしてないし、あいつも結婚して欲しいなんて一度も言ったことは無い。そやから気楽につきあってただけや」

 「それは男であるあなたの勝手な解釈に過ぎないわ。結婚も考えずに関係を続ける女なんかいるもんですか」

 「つきあうことと結婚は別物さ。恋人とか愛人としては申し分なくたって、妻にするとなると考えてしまう女もいるんだぜ。それは男の身勝手じゃなくて女のほうにもあるんじゃないかな」

 「そうかしら。でもきっとその人はあなたが結婚しようと言ってくれる日をずっと待ち続けていたんじゃないかと思うわよ」

 「そうかな。もしそういう気持ちがあったのなら、あいつもこれまでに一度くらいは言ったはずやけどなあ」

 「それだけあなたのことを信じていたのよ。愛していたのよ。だからこそわたしは今後のことを心配しているの」

 「結婚式を取り止めようというのなら今のうちだよ。ぼくはきみが問い質してきたことに対して事実を正直に言っただけや。それで二人の仲が毀れるんなら仕方がないと思っている」

 「馬鹿ね、そんなこと言ってやしないわ。あなたがその人にまだ未練を残しているのかどうか、それが知りたかっただけよ」

 「それで・・どうなんだ」

 「まあ合格ね。捨てられた人には悪いけど、こんな場合、わたしには男の身勝手さが有り難いわ。それほどわたしはあなたが好きだっていうこと・・」

 「それなら安心したよ。きみが膨れっ面でマンションを飛び出したときは一体どうなることかと心配したけど」

 「こんな話を打ち明けられてにこにこしているフィアンセなんかいるわけないでしょ。でも隠し事はもっと嫌。正直に言ってくれたことにはまあ感謝しているわ」

 「何なら家まで送って行こうか」

 「いいわよ、まだ時間も早いから・・・」

 そのとき上り線のホームへ電車が入ってきて二人の会話が聞こえなくなった。

 雄次の婚約者は電車に乗って帰るようだから、まもなく二人は別れるのだろうが、上りの電車が入ってきても急いでいないところをみると、彼女はきっと下りの電車へ乗るに違いないと晶子は確信した。それで改札口を大きく迂回して晶子はさっき自分が降りたばかりのホームへ戻った。婚約者と別れたあとの雄次を帰路につかまえて、不実を責めようという気持ちはすでに晶子の頭の中から消え去っていた。それまで雄次に向けられていたあらゆる激情がいま二人の会話を盗み聴きしたことで一瞬のうちに方向を変え、理不尽にも婚約者である女のほうに向かって奔流しはじめたのだ。激情はただちに憎悪へと変わっていたけれど、晶子にはいま初めて会ったばかりでその顔すら定かではない彼女に、なぜこれほどまでの憎悪が沸き立ってくるのかが分からなかった。分からないのも当然で、晶子は金輪際その女の顔を見たくなかっただけでなく、一瞬でも直視しただけでたちまち消え去ってしまいそうなくらい曖昧な憎悪に過ぎなかったからである。

 だからそのときの晶子には、雄次のほうを振り返りながらゆっくりと近づいてくるショートカットの髪と、黄色のサマーセーターと、白っぽいミニスカートだけしか目に入らなかった。あらわな肉体の部分、つまり女の顔や手や脚はまるで透明人間のように透けてまったく見えなかった。いや見たくなかった。見れば躊躇いが生じてしまう。晶子はひたすら女の髪の毛や服装にだけ全神経を集中して、ホームの中央で立ち止まった女の後方へと近づいて行った。さっき鉄柱の陰で噴き出した汗の続きが晶子の脇の下や胸のあいだを冷たく流れ落ちた。

 轟々という音を響かせてあずき色の電車が迫ってきた。

 白線をわずかに越えたサマーセーターの背後へシルクのブラウスがふらふらと歩み寄ると、とたんにその肩からショルダーバッグがすべり落ちた。だがそんなことにも気がつかない晶子の両手が大きく持ち上がって、サマーセーターの背中へと突き出されようとした瞬間、ひょいと横から伸びてきた太い男の腕がしびれるほどの強い力で晶子の細い手首を掴んでいた。

 「お嬢さん、ショルダーが落ちましたよ」

 男は低く落ち着いた優しい声でそう言った。

 だが男はその声とは逆に荒々しく晶子の手首を引っ張ると、あっというまに彼女を白線の内側へと連れ出していた。正気を失っている晶子の目には男の顔や姿がしばらく判然としなかった。尖り切った神経を逆撫でするようなブレーキ音とともに電車が停車して、ドアが左右に大きく開かれるのを見届けてから、男はようやくグローブのような手を離すと晶子の足もとに腰を屈めた。そして拾い上げたショルダーバッグをしばらく丁寧にハンカチで拭っていたが、発車のベルが鳴りはじめると慌ててもう一度晶子の肩を抱きかかえながら言った。

 「この電車はきみの家とは方向が違うはずや。乗らんでもええやろ」

 どこかで聞いた声だった。

 抱え込まれた男のからだから野性動物のような強い匂いがした。わたしが雄次に求めてきた男の匂いはこれだ、と晶子は男にその身をまかせながら思った。五感が痺れている中で真っ先に嗅覚が機能を取り戻したのだ。大勢の客を呑み込んだドアが閉じたあと電車がゆっくり動き出すと、ホームには晶子と男の二人だけが残された。雄次の婚約者はいつのまにか他の乗客とともに電車の中に消えていた。

 「今は何も考えんほうがええ。しばらくあのベンチにでも腰掛けてゆっくり気持ちを鎮めることやな。落ち着いたら俺がきみの家まで送ってやるから」

 晶子の耳もとでそう言うくぐもった男の声が聞こえ、三半規管のあたりで何度もこだました。ぐらぐらと周囲の景色が揺れている。頭の中では線香花火のようなこまかい火花が飛び散って、その火花で脳細胞の一つ一つがちりちりと焼け溶けていくようだった。晶子は男の手で薄汚れたホームのベンチへ導かれ、その上へ崩れ落ちるように座った。嗅覚は戻ったようだが、ずたずたになったその他の知覚が回復するまでにはまだ時間がかかった。ぐったりとベンチの背に預けた右腕から冷たい金属の感触が全身に伝わってくる。汗に濡れた脇の下や胸の谷間に鳥肌が立って、それがどんどん全身へと広がっていくと、他人のようだった自分のからだの輪郭が徐々に見えてくる。すると再びホームに集まりだした乗客のざわめきが聞こえはじめ、反対側にある上り線路をほとんどスピードを緩めずに通過していく特急の風圧までが感じられるようになった。それでも晶子は、ベンチの前に立ちはだかって客の一部が向けてくる好奇の視線から自分を守ってくれている男が、さっき書店で別れたばかりの筒井守だったのだと知るまでに、まだ上下数本の電車が行き交って、客を乗せては運び去るだけの時間が必要だった。

 「あとを追けたりして悪かったけど、さっき書店で会ったとき、きみの目はまるでディマシオの絵に描かれた女たちのように虚ろやった。いや、その目の奥で青い焔が燃えとった。それを見た瞬間、きみはきっと今夜のうちに何かをしでかすに違いない、と俺は直感したんや。そやからきみを放っておくわけにはいかんかった」

 筒井守はそう言ってようやく晶子のそばに腰をおろした。

 そしてワイシャツの胸ポケットからロングピースの箱を取り出すと、銀色に光るジッポーでおもむろに火を点けた。ほぼ完全に恢復した晶子の嗅覚がチョコレートに似たピース独特の香りをしっかりととらえる。同時に晶子はずり上がっているミニスカートと開き気味の膝がしらに気がついて、あわててベンチに座りなおした。たちまち置きどころのない羞恥心が全身を駆け抜ける。

 「実を言うと、あの書店できみを見かけたのは今日が初めてやない。これまで何度も見かけてた。そやから、いつもきみが長い時間をかけて黒田くんが来るのを待っていたことも知っている。人を待つということほど辛いもんはないからな。デートの待ち合わせだけやないで。好きな相手が結婚しようと言ってくれるまで待つのんはもっと辛い。桜井くんから聞いたんやけど、黒田くんがそう言ってくれるまで、きみは三年間も待ち続けたそうやないか。待って、待って、待ちくたびれたんやろな」

 筒井守はそこで言葉を切ると、何かを思い浮かべるようにホームの天井を見上げた。それからピースの煙を深く吸い込むと、胸の裡にたまったものを吐き出すように汚れた天井に向けてぷうと煙を吹き上げた。もしかすると筒井次長も誰かを待ち続けているのかもしれないと、晶子は苦しげに顰めた彼の顔を間近かにみつめながら、ぼんやりとした意識でそう思った。

 「まあそれでも待つことかて人生の大事な一部やからなあ。いや人生そのものかも知れんなあ。きみらは若いからまだまだ気が遠くなるくらいの時間を待たんといかん。色んな人から待ち惚けを食わされるやろ。そのたびに泣いたり喚いたりするのも悪くはないけど、そのあとはすっぱり忘れ去ることや。相手がきみを待たせていることを何とも思うてへんのなら、なおさら泣いたり喚いたりするんは馬鹿くさいやないか。そうやろ、なあ矢代くん」

 筒井守はそう言うと、拾い持ってくれていたショルダーバッグを晶子の膝の上に置いてから、勢いよく立ち上がった。そしてベンチの端っこのほうへ歩み寄ると、短くなったロングピースの吸い殻を灰皿へ押しつけている。晶子は膝の上の黒皮のショルダーバッグに残った筒井の指紋のあとをみつめていた。しっかりと握っていてくれたのか渦を巻く指紋の痕跡がくっきりと浮かんでいる。すると晶子はいきなり目頭が熱くなり、胸が苦しくなって、そのうえ涙までが溢れ出しくるのを止められなかった。また今頃になって泣いている自分が不思議でもあった。

 「泣いたらあかんと言うた途端に泣きだすのも人間やからな。まあええやろ。いまは思い切り泣いたらええ。そのかわり泣くのは今日かぎりにしとくんやで」

 そう言うと筒井守はまた晶子に覆いかぶさるようにしてベンチの前に立った。だが涙はそれきりで涸れて、晶子は彼をまぶしげに見上げると、もう大丈夫です、と言うようにはにかんでみせた。

 「さあ、帰ろう。きみがたとえ嫌やと拒んでも今夜は家まで送って行くで。これは上司としての責任でもあるし、たまたま居合わせた男が果たすべき義務でもあるからな。それから明日からのことやけどなあ。絶対に会社を辞めたり休んだりせえへんと、ここで俺に約束してくれるか」

 「・・・はい、約束します」

 「偉いぞ、よう言うてくれた。俺はその言葉を信じるよ。それにこの約束をしっかり守ってくれたら、いつかきみの都合のつく日に食事を奢ってやるよ」

 「今夜じゃ駄目ですか」

 「こいつは驚いた。心配なんかして損をしたな。そやけど今夜は駄目や。さっき書店で断られたばかりやから俺にも意地というものがある。さあ、帰るぞ」

 筒井守は冗談まじりにそう言うと、ベンチからやっと立ち上がったばかりの晶子の背中を大きな手のひらでどんと押した。

 まだ膝頭のあたりががくがくしていた晶子はよろめいて筒井の厚い胸のあたりにしがみついた。すると白いコットンのワイシャツを通してまた野性動物のような強い匂いが晶子の鼻腔を突き抜けた。

                                 〈了〉


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待つ 歌垣丈太郎 @jo-taro

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