第3話 「勇気」


「あれ? 水無瀬くん」


 何かの気配でも感じたのか。

 突然彼女はお下げ髪をふわりと浮かせながら後ろを振り返り、涼太の方へ向き直った。


 えっえっえっえっ、ちょちょ。


 まさかいきなり振り返られるとは思っていなかった涼太は思わず目を見開かせ、小さく動揺する。身体が瞬時的に音を立てて硬直せずにはいられない。

 何気なくあれ、日向さんじゃんとか挨拶だけして前を通り過ぎるつもりだった。そんなことを思いながらとにかく何かを絞り出そうとする。


「あ……え、えっと……お疲れ、日向さん」


「! ふふふ、うん。お疲れ様!」


 お疲れ様ってなんだよ、とそんなことを思い、自分の言動を軽く後悔する。

 そんな涼太がしどろもどろと焦りながら話をしようとしている事を察したのか。玲菜は何故か少しだけ微笑む。


「!」


 その時、涼太はその微笑みを見て。どこか安心したような気がした。 あ、これは違う、あの時の作り笑いとは違う気がする、と。


「……え、っと今、帰り?」


「そうだよ。私今日はちょっと親の用事があってね」


 なるほど、親の用事か。 涼太は1人、心の中でポンと手を打つ。 確か、玲菜の部活はダンス部だった気がする。


「え、部活休んだ感じ?」


「……! うん、そうだよ」


「そうなんだ」と涼太は頷き、玲菜は笑顔でうん、と返した。


「……………」と、数秒程。


 涼太は悩む。早く言葉のボールを返さなければ。

 果てしなくその五秒程の沈黙が重い。とにかく重い。

 その時、ふと涼太の脳内に一つの提案が浮かぶ。だが、それを口に出すのは怖い。


 断られたら、立ち直れないかもしれない。


 そんな怖さが身を縮めさせる。やがて涼太はほんの少しだけひと息を吸う。

 そして、冷たい湿った空気で喉を潤す。呼吸を、そっと整える。


「……あ、あのさ、日向、さん」


「ん? どうしたの、水無瀬くん」


「立……ち話もアレだし、歩きながら帰る?」


 それはまるで雑巾を絞り出して、零れ落ちる水滴のようになんとも頼りない勇気だった。


「……え、いいの?」


 玲菜は少し驚いたように首を小さく傾げる。その一つ一つの仕草に、涼太はいちいち熱を感じずにはいられない。あれ、もしかしてと、彼は心ごと浮き上がる。


「……うん。日向さんが良ければ」


「ほんと!? 1人で帰るの、少し寂しかったから、嬉しい!」と玲菜はぱあっと効果音が聞こえてきそうな程にはしゃぎ、喜ぶ。

 え? そんなことある?

 だがその疑問もつかぬ間、思わず内心でガッツポーズせずにはいられない。


 すると、「あ、あとね」と玲菜は付け足すように続ける。


「え?」


「私のこと、べつにさん付けしなくていいよ! そんな風にさん付けされるの、あまり好きじゃないんだー」


「……わ、分かった」


 一言一言話す度に。玲菜のお下げ髪と、整えられた前髪が小さく、柔らかく揺れる。

 涼太は、言葉が上手く繋げないもどかしさを感じた。だが、それをどうにかすることは、少なくとも今のこの状況においては、彼は出来そうになかった。

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