第12話 回想〜脱獄〜
深い深い暗闇の中。
昔の記憶にふけっていたマーリンは、混濁した意識のままずっと横たわっていた。
重い瞼を持ち上げる。昼か夜かもわからない。
長い間拘束されたまま閉じ込められていたせいで、指一本として動かせなかった。
マーリンはのろのろと重い首を上げ、果てしない闇の中を見回した。相変わらず僅かな光さえ見えない。どれだけの時が経ったのだろう。
再び気絶のような眠りに入ろうとした。
『駄目だよ』
声が聞こえた。高いのか低いのかよくわからない声だ。どこから聞こえてくるのかとマーリンは耳をそばだてた。
『君は立たなきゃ。立って走れ…君が必要なんだ』
同じ声がこだまのようにあたりに響いた。その声は前からも後ろからも左右からも聞こえてくるようであったし、またそのどちらからも聞こえないようだった。
『逃げろ、マーリン』
奇妙な声はなおも続いた。どこへ逃げろというのか。
この世界でマーリンの味方は誰一人としていないというのに。
たとえこの暗い洞窟の中から運よく逃げ出せたとしても、
罪人である自分に居場所などない。
あなたは誰、と聞きたかった。何を言っているんだと。
だが猿轡をかまされていて喋ることができなかった。
『逃げろ』
声は再び囁いた。
『そして戻ってきて。君を真に必要とする世界へ』
それきり声は途絶えた。しかしその言葉にマーリンは目を見開いた。
マーリンは後ろ手で縛られたままうつぶせに転がっていた。
しかし、その瞬間、ふらつく足で立ち上がろうともがいた。
何度も転びながら、やっと立ち上がった。
「……」
相変わらずぞっとするほどの闇の中、マーリンは自分がなぜこんなことをしたのか分からなかった。
さっきの幻聴に惑わされたのか。バカバカしい。
何が自分を動かしているのか。
(でも…)
自分を必要としてくれるところがあるのだろうか。
それならば、
「もう一度頑張ってみたい」
言葉が口をついて出た。
マーリンは体中に力がみなぎっているのを感じた。
気の遠くなる程長い間この牢に閉じ込められ、一日一度のパンと水だけで生きてきたマーリンにはもはや力をふるう気力さえ残されていなかったというのに。
こみ上げてくる衝動に突き動かされて、マーリンは手探りで近くの岩を探し、それに猿轡をこすりつけ始めた。
口が自由になれば後は何とかなる。
何度もこすりつけるうちに鋭い岩肌に頬が当たって切れたが、マーリンは構わず地道にこすり続けた。
やっと猿轡がずれて声が出せるようになった。マーリンは微笑んだ。
「壊れろ」
その瞬間、猿轡は青い炎で燃えて灰になり、手錠は粉々に砕け散った。。
(できた)
痛みの残る手首を摩っていると、遠くの方からかすかな足音が聞こえてくるのに気づいた。
マーリンは唐突に理解した。もうすぐ一日に一度きりの食事の時間だ。何とも間が悪い。
カラカラと台車を押す音が聞こえる。
どうせいつもと同じ、黒くて固いパンの切れ端と冷めたスープの食事だろう。
マーリンは、昔食べていた色とりどりのごちそうを思い浮かべた。
バターの香りのするふかふかのパン、陽の光をいっぱいに浴びて育った野菜、甘く芳醇な汁がしたたり落ちるみずみずしい果物…。寮母の作ってくれる料理も飛び切り美味しかった。
しかしそれらはもはや遠い昔の思い出だ。
マーリンが収監されてからすべてが変わってしまったのだから。あれらを食べることは生涯ないだろう。
音はどんどん近づいてきた。
ギシリと扉のようなものが開かれた音がしたと思うと、突然目を刺すような光が飛び込んできた。それは洞窟でも使えるように加工された松明の炎だった。
「…!」
頭が痛くなるような眩しさに思わずマーリンは目をぎゅっと閉じた。
「こいつ、まじでしぶといな。…あれ?手錠が無くなってやがる」
男の声がした。不審に思いつつも心底面倒くさそうな声だった。
「傷んだんだろう。これだけ長くいれば、な。仕方ねぇ。後で付け直しだ」
また別の男の声が聞こえた。さっきのとは違って、甲高い声だ。
「でもよう」
「これだけ弱ってるんだ、飯の後でも構わんだろう」
この二人はマーリンの食事係だった。毎日来ているから嫌でも覚えてしまった。
会話から推測するに、どうやら最初に喋った男がクリスという名で、後の方がアンリという名であるようだった。二人とも自分と同じナジェイラの一族であり、彼らの特徴である金髪碧眼を備えていた。
しかし、どうやらこのみすぼらしい監獄で雇われているところを見ると、神に気に入られるような歌の才能も、容姿にも恵まれなかったらしい。その点に関してはマーリンも納得できるような男たちだった。
しかしそのせいか性格は見事にねじ曲がっており、マーリンに対しても今まで暴言を吐いたり暴行を加えたりと、ひどい扱いをしてきた。自分より立場の低いところにいる者を相手に憂さ晴らしをすることで、自らの虚栄心を満たしているのだろう…。哀れな男達だ。
それにしても、先の手錠の反応で分かるように、頭はそんなに良くないようだ。
マーリンは眼が慣れてきたのを感じて閉じた瞼を上げた。
するとそこにはやはり痩せてひょろりと背の高いアンリと、薄気味悪い笑みを浮かべている背の低い小太りな男が立っていた。
「突っ立ってんじゃねぇ、豚。餌の時間だ。欲しいんならご主人様に頭下げろ」
クリスが陰気な顔に嘲笑を浮かべて言った。
この哀れな男はマーリンが土下座をするまで絶対に食事を与えない。囚われの身のマーリンは残念ながら従う他ない。
この暗い監獄に長い間閉じ込められ、いつからか考えることをやめたマーリンは、言われるがままのろのろと洞窟の硬い岩肌にひれ伏そうとした。なんて事はない、いつもの日課だ。マーリンは必死でそう思い込もうとしていた。従順なマーリンに男たちの嫌な笑い声があたりに響き渡る。
「ほら早くしろよ」
アンリがニヤつきながら言った。本当に気持ちの悪い目つきだった。
「……」
膝をついた瞬間、マーリンは口の中に血の味がひろがっていくのを感じた。舌で傷ついたところを辿ると、唇だった。知らないうちにマーリンは自分が唇をかみしめていた。
(やめろ)
心の中で小さな自分が叫んだ。
(なぜこんなことを甘んじて受けなければならない。何故ここから出て行こうとしない――)
「さっさとしろ」
苛立った声がして、長い金髪を掴まれ強引に頭を下げさせられる。マーリンの顔は地面に激突した。同時に背中にどんと重みがのしかかり、マーリンは息が詰まって呻いた。背中に押し付けられているのはアンリの足だったのだ。
「俺様を待たせるんじゃねぇ。さっさとその餌を平らげろ」
クリスが唾を飛ばして吠えた。グワンと木の皿がぶつかり合う音がして、マーリンの目の前には盆に載った粗末な食事が乱暴に置かれた。
(なぜ、こいつらに素直に従わなければならない?)
男たちは盛んにマーリンを罵り始めた。
「狂人め。下界の穢れた人間どもに一族の力を使うなんざ、恥を知れ」
「歌聖様を苦しませやがって!この一族のゴミが」
下卑た笑い声がマーリンの心臓をぞわりとさせる。
この瞬間、マーリンの中で何かが切れるのが分かった。
「違う」
考えるより先に口が動いていた。マーリンは強い調子で言った。
それは今まで何度も口にした言葉だった。捕まった時も、ここに入れられた時も。マーリンはあの日、親友の命を救うため、大罪とわかっていても力を使った。その事に後悔はない。
「おかしいのは、貴様らだ」
マーリンは2人を見つめ、静かな怒りを込めて言った。親友の優しい顔を思い浮かべる。赤に近い黒髪、童顔だがその大きな目から放たれる光は鷹のように鋭かった。背はそれほど高くはなかったが、武芸の修練を重ねているだけあって体は筋肉質だった。整った顔立ちなのに表情の乏しい友人であった。だがそれは決して無愛想なのではなく、むしろ彼はとても誠実でいつもマーリンに優しかった。
そんな彼を見殺しにできるわけがなかった。できるはずがない。もしも、自分があの時運よく彼の傍にいなかったらと思うと、今でも身震いがするくらい怖い。マーリンは自分が正しいことをしたのだと信じて疑わなかった。それなのに、それを撤回するなんて死んでもできない。静かな怒りの炎がマーリンの心でずっと灯っていた。
自分の置かれている立場など今更どうでも良かった。
「間違っているのは、貴様らだ」
そう言い切った途端、鈍い音と同時に、脇腹に衝撃が走った。アンリに蹴られたのだ。認識する暇もなく、マーリンは勢いを逃がせずゴロゴロと転がった。ゴツゴツした地面に身体が悲鳴をあげる。
男たちは巨大なナメクジを見るような目でこちらを睨みつけていた。
「ほーら、このお嬢さんは完全に頭がいかれちまってる」
クリスがマーリンの体を足で小突いた。
「全くだ、もうこいつは治らねぇ。普通のやつなら1週間と経たずに耐え切れなくなって改心するってのに。こいつときたらこんなに長ぇ間ぶち込まれてもまだこんなこと言ってやがる」アンリが細い目をぎらぎらと光らせて答えた。「歌聖様もお嘆きになるわけだ」
マーリンはせき込みながら二人の同族を睨みつけていた。自分の言ったことは何一つ届いていない。説明しても無駄だという事実がマーリンをさらにむなしくさせた。それと同時に、なぜわからないのだという怒りにも似たもどかしさを感じていた。
「尊いナジェイラの掟をこうも受け入れねぇとは…こんな奴は死刑にするべきだ。なぁ、俺たちがやってもいいと思うか?」
クリスはこちらを睨みつけて言った。
「やめておけ。どんな理由があろうとも俺たちはこの世界での殺生を禁じられている」
アンリは面白くなさそうに言った。
「だけどよぉ、こいつならいいんじゃねぇか?きっと歌聖様も褒めてくれるぜ」
クリスは待ちきれないようだった。まるでお預けをくらっている犬のようだとマーリンは思った。
「だめだ。最高刑は追放刑までだ。それ以上のことは歌聖様の上の神々がお決めになることだし、あのお方達は許可されてねえ」
クリスより幾分かは冷静らしいアンリは首を振った。
「そもそも報告も聞き流されているんだろう?神々にとっちゃ、俺たちなんて矮小な存在だものな」
「まぁな…」
「ちぇっ、せめて歌聖様が追放刑にしてくださればな」
クリスはイライラと地面に唾を吐いた。
我々ナジェイラの一族にはいくつかの掟がある。その中に、下界に行ってはいけない、下界のために歌を歌ってはいけないというものがあった。行ったものには最高刑として追放に処される。
一族から追放されるということは、すなわちこの世界からの追放を意味し、刑を受けた者は汚れた下界に堕とされる。老衰以外で死ぬことのないこの世界と違い、下界は死にあふれている。
追放されるということはすなわち遠くない未来の死を宣告されるのと同義だった。ナジェイラの一族はこの平和な環境に慣れきっているため、厳しい下界で生きていくのは困難を極める。加えて彼らは端麗な容姿と、神をも魅了する歌声を持つ一方、それと引き換えのように身体があまり強くはない。マーリンとて例外ではなく、正直な話、下界でやっていける保証が何もないのだ。
…親友に頼み込めば何とか面倒は見てもらえるかもしれない。しかし下界について何も知らないマーリンは彼にとって完全にお荷物だ。大切な親友は「それでもいい」と、もしかしたら笑ってくれるかもしれない。だが、それではマーリンが嫌だ。落ちこぼれは御免なんだ。
でもいっそ追放刑になって、敵しかいないこの世界を抜け出したい。頼れる人がいないまま下界に飛び込んでいくのは自殺行為だが、このままでいるよりはずっと良い。
短い命になったとしても、鮮烈な人生だろう。
(今ここで、声の通りに逃げてしまおうか。)
マーリンは静かにそう思い、舌打ちとともに男達の蹴りが飛んでくるのを視界の端で捉えながら、思い切り口を開いた。
弱っているからと言って油断したな。
マーリンは微笑んだ。
「眠れ」
(その先に何が待っていたとしても、)
数秒後、その場には失神した2人の男が倒れていた。
男から奪った松明の光を頼りに、マーリンは迷路のような洞窟の出口を目指して走っていった・・・。
★★★
マーリンは震える体で目を覚ました。どうやら少し前の夢を見ていたようだ。
窓の外はまだ真っ暗で、寝入ってからさほど時間が経っていないように見えた。マーリンは深呼吸して昂った気持ちを整えた。
「今回は結果的に追放刑ってところかな」
過程はどうあれ、まさかこんな形で再び下界に戻って来られようとは。
彼を生かした後、マーリンは閉じ込められ、幾度となく自分の「罪」について言い聞かせられた。「思考の矯正」というらしい。だが、何をされてもマーリンには関係がなかった。
あの時の選択は間違っていなかった。下界の人間である彼に力を使ったことは重大な禁忌だった。ナジェイラの一族の歌は神々のものであり、彼らにしか捧げてはならなかったからだ。掟に忠実な一族の他の者なら間違いなく力を使わずに、そのまま姿をくらましただろう。だがこれがマーリンの選択なのだ。
学校では散々才能がないと言われてきたマーリンだったが、あの時確かに彼の命はこぼれ落ちる寸前で縫いとめられた。命を救う歌は最難関であるにも関わらず。
俯いてばかりのマーリンの人生の中で、これだけが唯一胸を張って誇れることだった。後遺症はないだろうか。何かのトラブルで細菌感染で死んではいないだろうか。
次にまた下界に戻れることがあった彼の安否を確かめてみたいとずっと思ってきた。
「せっかくだからモードレッドを探そう」
そう決意すると、胸がじんわりと暖かくなった。あの日から暫く会えていないから、会うのは久しぶりだ。彼がどこにいるのか分からないが、それはおいおい探していけば良い。なにせ今のマーリンには時間だけはたっぷりあるのだから。
ジーンの安らかな寝息が聞こえた。
「そう、魔物も倒さなくちゃね。皇帝にも会って・・・」
マーリンはぐっすりと眠るジーンの顔を見ながら呟いた。
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