第7話 魔物邂逅

一瞬で緊迫した空気が流れた。バキバキと恐ろしい音が聞こえ、上を見ると鉤爪の生えた熊のような大きな手が天井から生えていた。


「まずいっ…みんな馬車から降りなさい‼早く!」


カールおじさんが吠えた。エドモンドがドアを開けると、それに続いて他の者達とマーリンが転がり出た。地面にしりもちをついたマーリンは、外の光景を見て凍りついた。


馬車と同じくらいの体高の獣がそこにいた。真っ黒な体毛に、獅子のような頭、マーリンの胴と同じ太さの白い二本の角ー…。そしてそれが放つ醜悪な空気に、マーリンは急に吐き気にも似た悪寒に襲われた。


「魔物だ!マーリンも早く逃げろ!」


ウィルが魔獣とは反対側に走りながら叫んだ。


「私たちが奴の気を引きつける。お前達はその間に逃げろ!」


カールおじさんは俊敏な手つきで弓をつがえると、魔物の目に向かって放った。見るとバーナードも同じように連射している。だが弓矢は魔物の体を透過していた。


「行きましょう!マーリン‼」


ジーンが腕を掴んで走り出した。


「カールおじさんとバーナードは?弓矢が全く効いてないようだけど?」


マーリンは走りながら叫んだ。


「大丈夫だ‼とにかく走れ…!父さん達ならきっと生き延びる…!」


ウィルは先を行くエドワード達をじっと睨みながら怒鳴った。しかしその両目からは滝のような涙が零れ落ちていた。それを見て、マーリンは唐突に理解した。カールおじさん達は命をかけて自分たちを逃したのだ。つまり、死を覚悟しているー…。マーリンは心の中がすっと冷えるのを感じた。力一杯走っていた足を止める。


忘れていた。この世界はひどく厳しく、残酷なのだった。


「おい、なにしてるんだ!気は確かか?」


ウィルはギョッとしたように吠えた。


「早く走りなさい!危険だってことがどうして分からないの?」


悲鳴のような声はジーンのものだ。


(魔物を見た時感じた穢れの気配ー…もしかしたら自分の力でどうにかなるかもしれない)


どくどくと心臓が激しく胸を打った。その瞬間、マーリンは元来た道を戻り始めた。


「「マーリン‼」」


二人の制止の声を浴びながらも、カールおじさん達のところに戻った。二人は怪我をしているようで、苦悶の表情を浮かべながら血を流していた。近くに激しく損傷し、使い物にならなくなった弓矢が散らばっている。あぁ、命が消える音がする。


膝をついたカールおじさんに、魔物の容赦ない腕が振り下ろされるー…バーナードが絶望の声を上げたー…。


(させない)


マーリンは口を開いた。

その瞬間空気が凍り付いた。


「清めよ。穢れし者の血と涙を。救いたまえ。かの者の魂をー」


その場が一瞬にして見えない力に支配される。魔物の動きがピタリと止まった。


「な…んだと?」


バーナードが呆気に取られて呟くのが見えた。マーリンは一心不乱に大気を震わせ歌い続けた。段々と魔物は恐ろしいうめき声をあげて悶え苦しみ始めた。


カールおじさんは駆け寄ったバーナードの介助で何とか立ち上がると、信じられないというように魔物とマーリンを交互に見た。


「赦せ、愚かな子羊の過ちを。愛せ、無垢なる者の営みをー」


マーリンの声が一段と高くなる。あまりの高音に周囲の空気がビリビリと激しく震えた。魔物は狂ったように頭をめちゃめちゃに振りだす。両手を広げた、もう少しだ。マーリンはより一層の力を込めて歌い続けた。後ろでウィルとジーンが来る気配がする。マーリンを追いかけてきてくれたのだろう。危険を顧みず戻ってきてくれたことが、マーリンにはとても嬉しかった。


「ーやがてかの者は神に召されん。清らかなる光に包まれ、穢れし身、輪廻の環に帰らん」


マーリンはとどめとばかりに声を張り上げた。ついに魔物が断末魔の叫び声を上げた。すると魔物から暗い霧のようなものが吹き出て、右往左往したかと思うと、一気に消滅した。


霧がなくなった後には一頭の狼が倒れていた。マーリンはその様子を見て、歌を止めた。


「よかった…」


胸をなでおろす。すると、一瞬の間ののちジーンが歓声をあげて抱きついてきた。


「マーリン…あなた、あなたすごいわ!」


ウィルも目を真っ赤にしてしきりに鼻をこすっていた。


「何が起きたか全くわからないけど…。ウン、君、俺たち家族の命の恩人だ」


二人にもみくちゃにされながら、マーリンはうずくまっているバーナード達のところへ近づいた。


「お怪我は大丈夫ですか?」

「あ…あぁ、少し骨にヒビが入ったかもしれないが、君のおかげで他はかすり傷だ。バーナードも問題ないかね?」


カールおじさんは、まるでマーリンが背中に翼を生やして、たった今空から舞い降りてきたかのような目でこちらを見つめて頷いた。


「…はい。大丈夫です」


バーナードも体を震わせながらこちらへ近づいてきた。その顔にさっきまでの疑いの表情はなく、むしろ畏敬の念すら感じられた。


「サ、サイラスとエドモンドを呼ばないと」


カールおじさんはしどろもどろに言いながら指笛を吹いた。


「さっきは何をやったんだ?」


バーナードはマーリンと鼻がくっつきそうになるくらい近づいて言った。


「私の故郷で教わった歌を歌いました――」マーリンは言いかけたが、バーナードが不可解そうに眉を顰めたのを見て慌てて言葉を変えて説明した。「私の歌は力を持つんです」

「力?」


バーナードは不思議そうに聞き返した。


「バーナード、それ以上の話は家に帰ってからにしなさい」カールおじさんは厳しい顔で言った。「サイラスとエドモンドも今来たから、お前達は馬車から荷物を持ってきて帰る支度をしてくれないか」


バーナードやウィル、ジーンに続いて馬車に向かおうとしたマーリンにカールおじさんの声が飛んできた。


「君は休んでいてくれ。マーリンと言ったかね。先ほどは本当にありがとう…」


おじさんは禿げ上がった頭を深々と下げた。


「いいえ、少しでもお役に立てて嬉しいです」マーリンは首を振って言った。「あと…すみませんが傷を見せてもらえませんか」


マーリンはそっとカールおじさんの足元に膝をついた。カールおじさんは驚いたように身じろぎした。


(やっぱり、ヒビは入ってる…それに、魔物の汚染が少しある)


傷の周りが黒く変色していた。マーリンはそこにそっと手をやると優しい声で囁いた。


「清めよ」


するとみるみるうちに毒々しい黒がひいていった。


「驚いた…」おじさんは信じられないというように呟いた。

「少し悪いものが入っていたようです。このままだと歩きづらいでしょうから、ヒビも治してしまいますね」


マーリンは傷から目を離さずに小さな声で歌った。


「癒えよー」


みるみるうちに痛々しい足の腫れが綺麗さっぱりなくなった。カールおじさんは驚いた顔で治った足をプラプラと動かすと、狐につままれたように首を振った。


「痛みが消えた…?治っている?」

「よかった。他にお体でおかしいところはないですか?」

「いや、大丈夫だ。魔物から命を救ってくれたことといい、傷のことといい…何から何まですまない。あの場所でウィルとジーンが君を見つけた事が我が家にとって大変な幸運だった」


カールおじさんは立ち上がったマーリンに微笑んだ。


「君は本当に不思議な力を持っているのだね」


ローズブレイト家の子供とジーンもマーリン達の側に戻ってきていた。


「なんの冗談だ?君あいつを倒したんだって?それに親父の傷も治したとか」

「その場で見ることができなくて、残念だ。それにしても冗談抜きで女神様じゃないか。え?」


サイラスとエドモンドが口々に言った。


「いいえ、私の故郷ではこれくらいのことはみんなできたわ」


マーリンが顔を赤らめると、ジーンが 呆れたように首を振った。


「あなたの国の人達については知らないわ。だけど、この世界で今のようなことが出来るのは貴方しかいないのよ。だから私達にとっては驚きなの」

「そうさ。さっきので君の話に一気に信憑性が増した事だし、君について僕たちは興味津々だ。マーリン、ぜひうちに泊まっていけよ。うちのママの料理はとても美味しいんだ」


ウィルがウィンクした。


「あぁ、ぜひそうしてくれ。もう君は私の家族同然だ。気がすむまでずっとうちにいてくれ」カールおじさんも熱を込めて言った。

「さぁ、ぐずぐずしてる暇はないわ。行きましょう。マーリン、これからもよろしくね!」


ジーンが明るい声を出した。サイラスとエドモンドもやんやと騒ぎ立てる。

マーリンは心がじんわりと暖かくなるのを感じた。

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