第2話 楽園追放
曇天の空。眼下に広がる黒々とした海は荒れに荒れていた。びゅうびゅうと吹き付ける冷たい潮風は、少女の金色の髪を激しく巻き上げ、その青白い肌に容赦なく叩きつけている。
黒々とした断崖絶壁の海食崖が険しくそびえ立ち、その上にボロボロの衣を纏った少女が震えながら立ちつくしていた。
恐ろしい轟音をあげて荒れ狂う海を見て、彼女は自らの退路が完全に絶たれたことを悟った。
その碧玉の如き瞳に絶望の色をはっきりと浮かべ、ただ言葉もなく、鈍色の空と暗色の海が織りなす二色の世界を見つめていた。
「残念だったな、マーリン。くだらぬ追いかけっこもここまでだ」
激しい波音の合間から、冷たい声が背後から聞こえた。何人もの人の気配がする。マーリンと呼ばれた少女は、肩に引っかかった白いワンピースの襟を緩慢な動作で直しながら、海から目を離し、後ろを振り返った。
そこには彼女と同じく金色の髪に青の瞳を持つ男達が番えた矢をこちらに向けて立っていた。純白の貫頭衣を纏い、背中には矢筒を背負っている。その目は一様に冷たく、腐った物をみるかのような嫌悪感に満ちていた。
無理もないだろう。彼らにとって少女は一族の掟を破った大罪人なのだから…。
「脱獄の罪は重い。ついにアナスタシア様は先ほど我々に命令を下された。お前はここで処分されるのだ」
男達のリーダーらしき人物が言葉を続けた。青白い顔で、マーリンは感情を抑えた声で問うた。
「他の大陸ならまだしも、神々の治められるこの大陸では、殺生は禁忌のはず」
その言葉に、追手の兵士たちは皆不快げな顔をした。
ギリリ…と矢を引く音が強くなる。
「後で事情を話せば神々も理解されよう。きっと罰をお与えにはならない」
面倒臭そうに男は言った。
「掟」というナジェイラ族の事情とやらが、この楽園の神々に理解されるとは、マーリンには到底思えなかった。しかし族長の命令が出ている以上、彼らは何が何でもそれを遂行するつもりらしい。あの美しい族長を盲信しているのだから。…そこに彼らの意思はない。
本当に、一族の者らしい見事なまでの忠誠心だ。あいにくマーリンにそんなものなどこれっぽっちもなかった。
だから昔から一族の掟を破り、下界に遊びに行っていた。行き方は簡単だった。学校裏の森にひっそりとたたずむ泉に、ただ飛び込めばいいのだ。立ち入り禁止の看板を無視して森に入る気持ち一つさえあればそれは簡単なことだった。
そうしてマーリンは一族の誰も足を踏み入れた事の無い下界へ赴いたのだ。そこは、「地獄」だと一族の言い伝えにあったように、確かに醜くて、恐ろしい世界だった。
生き物は互いに殺し合い、そこらじゅうに悲しみや絶望が渦巻いていた。清浄な気で満たされ、死の匂いなど微塵もない、穏やかなこの地で育ったマーリンにとって、それは衝撃だった。
しかしマーリンは下界を恐ろしく感じるとともに、違う感情も同時に抱いた。
マーリンはこう思ったのだ。『あんなに鮮やかで生命力に満ち溢れた美しい世界は生まれて初めてだ』と。
「最後のチャンスだ。マーリン、己の犯した過ちを悔いよ。禁を破って下界に堕ちただけでなく、尊い我がナジェイラの力を徒に使った罪は重い。しかし悔い改めるというならば一族はお前を殺しはしないだろう」
これを拒否すれば殺される。そんな事は明白であった。だが「自らの罪を肯定する」ことが、少女にはできなかった。
「悔いる?友達を助けたことを?この力は、それでは何の為にあるの」
マーリンは手錠の跡が色濃く残る手首を無意識にさすった。長い牢生活で付いてしまったもので、治癒魔法では完全には消えなかった。
一瞬の沈黙の後、男は吐き捨てた。
「悪魔め。下界に住む虫けらなどに心を奪われおって…幾度となくアナスタシア様は、その広い御心からお前に更生の機会をお与えになったというのに、お前はその度にあの方の心を踏みにじった…」
歯軋りした男は、すらりとした片手を上げた。それを合図に、一列に並んだ兵士達からぶわりと殺気が膨れ上がる。威嚇の時とは違い、全ての矢が正確にマーリンに向けられていた。
「最後の機会をお前は拒絶した。お前はもはやナジェイラの一族ではない」
男の目には冷酷な光が浮かんでいた。
容赦無くマーリンの体を貫くであろう、数多の矢を目にして、心臓が早鐘を打つ。寒さではなく、恐怖でもなく、ただ本能的な絶望が彼女の体を激しく震わせていた。
恐怖に支配された少女は、それでも言わなければならないことがあると、口を開いた。とうに何度も言い、そのたびに聞き入られなかった主張ではあったが、それでも言わずにはいられなかった。
「この大陸でしか力を使ってはいけないのはなぜ?…聞いても出てくるのは『穢れた土地の生き物に干渉すると穢れが映る』とか、『尊い一族の秘術を他の事に使ってはいけない』とか、そういうのばかり。ちゃんとした理由が何一つとしてない!だから私は自分が罪を犯したとは思ってはいない!」
死が目前に迫った人間は、こうも饒舌なのか。言葉がポンポンと出てくる、とマーリンは彼らに向かってまくし立てながら笑いたくなった。
だがこれは紛れもない本心だし、このまま殺されるのなら、この際言いたい事は言っておきたい。一度死を覚悟すれば、不思議と何も怖くなくなったのだから。
「他者を助けることの何が悪い?同じ人間だろう?私達の存在は神々のカナリアか?何度でも言おう、この一族はおかしい!この掟も変だ!お前たちは狂っている!」
右肩に灼熱の鉄を当てられたような激しい痛みと衝撃が走った。不意を突かれて体がよろけた。
「何…?」
激痛の走っている右肩を見ると、放たれた矢が深々と突き刺さっていた。少女は目を見開いた。
「う…」
マーリンは回らぬ頭で言葉を発しようとした。痛い、苦しい、辛い…怖い。すべての感情が頭の中でないまぜになっていた。
肩に矢が刺さっただけで泣くんじゃない、冷静な自分が頭の奥で叱咤する。あの子は胸をナイフで刺されたんだ。それも深く。それに比べればお前の傷などたいしたことはない。自分を取り戻せ、泣くんじゃない、この弱虫のマーリンが、頑張れ。
「殺せ」
無慈悲な声が前から聞こえた。その声にハッとした。
「や…めろ…」
マーリンは泣きそうになって、ずりずりと後ずさった。後ろは高い崖だが、そんなことはどうでもよかった。マーリンの意識はただ前方の処刑人にみに向いていた。
霞む視界の中で、兵士達が一斉に矢を放った音が聞こえた。マーリンは震えながらただただ後ずさる。踵がついに崖の淵に触れた。それでも構わず、マーリンは目の前から向かってくる死から逃れようと、後ずさった。
ぐらり、とその瞬間、ついに体が後ろに傾いだ。急激な浮遊感に瞬きする。その後すぐに襲ってきたのは、胃袋がズンと持ち上げられるような衝撃だった。
小さく悲鳴を漏らしながら落ちていくと、先ほどマーリンが立っていた場所が遥か上方に見えた。ゴツゴツした岩壁が視界いっぱいに広がっていく。
壁が上へ上へと流れていくようだ。崖からこちらを覗く、男達の小さな顔が見えた。どんな表情をしているかはこちらからは見えないが、きっと面倒な仕事がやっと終わったと笑みを浮かべているのだろう。マーリンは悔しくて唇をかんだ。
その時、大きな風が強く吹き付け、マーリンの呼吸を無理やり奪った。下から突き上げるような突風に苦悶の表情を浮かべて身を仰け反らせると、おどろおどろしい鉛色の天井が静かに己を見下ろしているのが分かった。マーリンは加速をつけて落ちていく。肩から流れる血が礫となって上空に舞い上がった。
氷水に落ちたーーそう感じた瞬間、全身に電撃が走ったような感覚とともに、マーリンは意識を手放した。
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