第5話 俺は逃げられない





 風呂から上がった俺は、部屋の中が玲夜の匂いをしているのに気がついて、思わず顔をしかめてしまった。

 先程までのやり取りを思い出すたびに、何かに八つ当たりしたい衝動に襲われる。


 結局スマホを見たかった理由は、今も言われていない。

 ただどことなく苛ついていて、夕食の時は両親が心配していた。

 輝夜の方もいつもより口数が無いところが、少しだけ気になった。

 機嫌の悪くなるようなことでも起こったのだろうと思ったが、嫌な予感と言うのがぬぐえなかったのだ。


 気まずい中、ご飯をさっさと食べて風呂に逃げ込んだけど、帰ってきて嫌な気分になるとは思わなかった。

 先ほどのやり取りだけで、匂いがこんなに染みつくものなのか。

 玲夜が使っているせいで嫌いになった香水に、俺は換気をするために窓を開けた。

 もう肌寒い季節だけど、そんなことは関係無い。

 匂いが完全に消えるまで俺は窓を開けたまま、机に向かって勉強をした。



 ♢♢♢



 寝苦しい。

 勉強を終えてから寝ていた俺は、胸の息苦しさで目が覚めた。

 何かが胸の上にのっている。

 まっさきに金縛りを考えたけど、すぐに違う可能性に思い至った。


「……に、いさん?」


 この匂いは、嗅ぎなれている。

 暗闇の中、一段と濃い部分がもぞりと動いた。


「灯里」


 名前で呼ばれたのなんて初めてだ。

 いつも、おいとかお前とか、両親の前でさえも名前で呼ばれたことは無かった。

 よくよく考えるとおかしいけど、それよりも今の方がずっとおかしい。


 輝夜は、こんなにも言葉が甘かっただろうか。

 砂糖にはちみつをかけたぐらい胸焼けがしそうな甘さで、敵意以外を向けられたのだけど、全く嬉しさを感じない。


 俺の胸の上で馬乗りになっている輝夜の表情は暗くて見えないが、背筋がぞくりと寒くなった。


「何……してるの?」


 まだ頭が覚醒しきっていない中で、それでも必死に状況を把握しようとしているけど、意味が分からな過ぎて混乱してしまう。

 俺の問いかけに、輝夜はくつりと喉の奥で笑った。


「何をしているんだと思う?」


 そして逆に聞き返してきて、そしてほっぺに手が伸びてきた。

 触れられた瞬間、そこからぞわりと鳥肌が立つ。


 気持ち悪い気持ち悪い。

 相手の目的が分からなくて気味が悪いし、ただの気まぐれで次の瞬間には首を絞められる恐怖もある。

 逃げた方が絶対に良いのに、本当に金縛りにあったみたいに体が動かない。


 唯一動かせるのは口だけだから、俺はそれを使うしかない。


「分からないから、聞いているんです」


「もっと考えるべきじゃないか? いつも言っているだろう。全く考えなしだな」


 いつものような嫌味な言葉なはずなのに、声や雰囲気が違いすぎて違和感がある。

 まだほっぺに手を添えられているのも、気味の悪さを増長させている。

 するすると撫でられたかと思えば、指が移動していく。


 今度は唇を感触を確かめるように、ふにふにと押された。

 そして顔が近づいてくる。


「灯里は本当に可愛いなあ」


 耳元で囁かれた言葉に、吐き気が出るかと思った。

 一体何を言っているんだろうか。

 可愛い?

 本当に気持ち悪い。


 俺はその気持ち悪さから、やっと金縛りから解けた。


「どけっ!!」


 手を勢いよく前に突き出し、輝夜の体を押した。

 不意打ちだったからか、簡単に俺の上からいなくなった。


 とにかく逃げなくちゃ。

 頭のおかしくなった輝夜から逃げて、とりあえず落ち着ける場所に行くべきだ。

 ベッドからおりた俺は、足をもつらせながら部屋から出ようとする。


 暗闇の中、何とか扉まで辿り着いた俺は、ドアノブに手をかけて開けようとした。


「ひっ!」


 その前に手首を掴まれる。

 輝夜にしては、あまりにも早すぎる。

 となると、掴んでいるのは一人しかいない。



 名前を呼ぼうとした瞬間、眩い光に目が眩んだ。

 どちらかが部屋の電気をつけたせいで、暗闇に慣れていた目がダメージを受けた。

 ぎゅっと固くつむって、痛みをこらえる。

 そのまま待っていれば、光に慣れてくる。



「……玲夜」


 俺の手を掴んでいたのは、やっぱり玲夜だった。

 視線が合うと手を引っ張ってきて、ほっぺに擦り寄せられた。


「どこ行くんだよ」


 輝夜の時と同じく、甘い声色。

 気持ちが悪すぎて、腕を振り払った。

 いつもだったら睨まれたりするはずなのに、玲夜の表情は嬉しそうにとろけている。


「な、何なんだよ! 気持ち悪い!」


 敵意を向けられていた時よりも、今の方がずっとずっと気持ち悪かった。

 自分の体を抱きしめながら叫べば、後ろからするりと腕が巻きついてきた。


「灯里、突き飛ばすなんて酷いな」


 言いながら抱き寄せられ、俺はまた固まってしまう。

 俺は夢でも見ているんじゃないか。

 そう思ってしまうぐらい、今の状況は受け入れられないものだった。


「……離せっ! 何するんだ!」


 もがいてもどうすることも出来ず、俺は目の前にいる玲夜の顔を睨みつけた。


「何ってなあ……分からないのか?」


「分からないから聞いているんだろ!今まで散々嫌がらせしてきたくせに、急に頭おかしくなったんじゃないか!?」


「急にじゃない。灯里だって、本当は分かっているんじゃないか?」


 後ろの輝夜が、俺の耳を舐める。

 その感触に、思わず足から力が抜けた。

 でも抱えられているから、寄りかかるしかない。


「分かってるって……なにを?」


「優真って誰だ?」


 その言葉に息が止まった。

 どうして輝夜の口から、優真の名前が出てくるんだ。


「ど、して、その名前?」


「どうしてってなあ。連絡先を消すなんて小賢しい真似をしても、無駄ってことだ」


 全部バレていた。

 もしかして、風呂上がりの感じた玲夜の匂いは、実際に少し前まで部屋にいたからだったのか。

 そんなことを全く考えずに、いつも通りに過ごしていた俺は、とてつもない馬鹿だった。


 今更後悔しても遅すぎるが、自分を殴りたい気分だ。


「優真を傷つけようとしているなら許さない」


 俺はもう慣れているからどうなっても構わないけど、優真を巻き込みたくはない。

 だから頼み事なんてしたくないと思いつつ、それでもはっきりと言えば、玲夜から一切の表情が抜けた。


「……そんなに、そいつが大事か」


 その問いかけになんと答えるのが正解か分からず、何も言わずに固まっていれば、舌打ちが前と後ろからも聞こえてくる。


「もう二度とそいつに関わるのを止めるんだ」


「……は? 何言って?」


「これは頼み事じゃない、命令だ」


 命令だと言われても、納得が出来るわけない。

 今まで虐げられていたのだから、友達を好きに作ったって構わないはずだ。

 何かを言われる筋合いは全く無い。


「ふざけるな! お前達には関係無いだろ!」


 優真はやっと会えた光。そう簡単に手放せるわけがない。

 だから暴れながら怒鳴れば、拘束する力が強くなった。


 前には玲夜、後ろには輝夜。

 完全に逃げられない状況で、相手が何をしてくるのかも分からない。

 こめかみに、汗が一筋流れた。



「関係無い? 灯里、本気で言っているのか?」


「あ、たりまえだろ。何の関係が……」


「だから言ったんだよ。もっと他にやり方があるだろうって」


 玲夜が輝夜に文句を言って、そして俺のことを前から抱きしめてきた。


「や、やめ……」


「嫌だ。もう我慢しないって決めたんだ」


「……そうだな。もう我慢するのは止めるか」


 その言葉を聞いて、俺の本能が警報を発する。

 でも、どうすることも出来なかった。

 俺は近づいてくる玲夜の顔を見て、そして絶望した。




「「愛している。灯里」」




 シンクロした二人の愛の言葉と共に、俺の唇に柔らかいものが触れた。

 目を閉じ、俺は涙を流す。



 これが愛だと言うけど、とても信じることは出来なかった。



 ♢♢♢



 今日は優真が何度も話しかけてくれたのに、俺は無視し続けた。

 そんな態度でも怒ることなく、逆に心配してくれたけど、それに答えることは出来なかった。


 こうしている間も、じっとりとした視線を感じる。

 たぶん優真と話をすれば、すぐに駆けつけてくるはずだ。


 その執着がどうして俺に向けられているのかと、本気で疑問だった。

 こんなことなら、嫌われたままの方が良かった。



 もう手遅れだけど、俺は逃げ出したくてたまらない。

 あれは恋や愛なんて、そんな可愛らしいものじゃない。

 ドロドロとして、いつかは腐ってしまいそうだ。



 服の下につけられた多数の痕を服の上から押さえながら、俺は唇を強く噛みしめた。




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逃げ出したい 瀬川 @segawa08

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