第9話

 第9話


 どのくらい彼女に見惚れていたんだろう、ハッと我に返った僕は手に取ったストールを見つめた。ベージュと紺のチェック柄のストールは花さんが僕に掛けてくれた物だろうか。ストールからは彼女の香りがし、僕は少しドキドキした。


 僕はうたた寝をする彼女にストールをかけようと思い、静かに立ち上がり彼女に近づくとそっと肩にかけた。途端に彼女は目を覚まし、「はっ!」と言って慌てて突っ伏し顔を腕に埋めると、手探りでマスクと眼鏡を掴み手際よくそれらを装着した。彼女は僕を見つめ、


「見ました?」と言う。時間を忘れる程盛大に凝視してしまっていたけれど、僕は質問に答えず、

「僕にストールを掛けてくれたのは花子さん?」と尋ねる。


「風邪でもひかれて感染うつされたらたまんねーすからね」とストールを畳みながら言う。憎まれ口でそう言ったけれど、彼女の優しい一面を見た気がした。


「あと、いい加減言うの飽きてきたんすけど私は花です」

「どうもすみません、花さん。あと、ストールありがとう」とお礼を言った。


「やたらと今日眠ってますけど疲れてんすか?」

 彼女はストールを鞄に仕舞いながら言う。


「昼寝してないからかな」

「そう言えば今日お昼いなかったっすね?」

「売店で妹に会ってさ、中庭で一緒に食べてたら昼寝する時間無くなっちゃったんだ」


 中庭で昼食を取った事を少し悔やんだ。妹の友達に恥を晒したと言う事もあるけれど、昼寝をしなかった事の方に。


「妹さん同じガッコなんすか?」

「うん、今1年生」

「兄妹いるの羨ましいっす。私一人っ子なので」


 一人っ子の人は必ずこう言う。当たり前だけど僕には一人っ子の経験が無いからその羨ましいという気持ちを理解してあげられない。


「でも、両親の愛情一人占めじゃん」

「兄妹いたって愛情は受けれるっしょ」

「両親がいればね……」

「え?」

「あ、ごめん、なんでもない」


 あー、しまった、やらかした。彼女の表情がみるみる曇り、俯いて目だけコチラを見て、


「わ、私なんかやらかしちゃいましたか?」と言う。あんな意味深な事言えば気にするだろう。きっと彼女は気に病んでいるんだろう。迂闊だった。


「気にしないで、やらかしたのは僕だから」と僕は彼女を安心させるように微笑んだ。

 

 黒板の上の時計を見ると午後6時になろうとしている。


「花さん、いつも何時までここで本読んでるの?」

「そろそろ帰ります」

「じゃあ駅まで一緒に帰ろう」

「え!? は、はい……、望むところっす」



 二人並んで校門を出て駅まで歩く。西陽はいよいよビルへと吸い込まれ逆光になった建物は異様な程暗かった。


 並んで歩く彼女は思っていたよりも小柄で線も細い。背中のリュックとは別に本の詰まった鞄を持っていて、その手首はポキっと折れてしまいそうだ。


「花さん、そっちの鞄持ちますよ」

「え? で、でも重いから……」

「だから僕が持つんです」

「……あ、ありがとう……」


 本当に重い。いったい何冊本が入っているんだろう。

 


「僕の両親は9年前に事故で死んじゃってさ、毎日その夢を見るんだ。いつも眠いのはきっと熟睡出来ていないんだろうね」

「え!」


 唐突に語りだす僕に花さんは驚いて僕を見る。


「やっぱり私やらかしましたね、ごめんなさい……」と言って俯いてしまう。僕はふふんと鼻で笑って、


「だから気にしなくていいって」と努めて明るく言う。


「僕が8歳の時でさ、姉は11歳、妹は6歳だったかな」

「お姉さんもいたんすね」


「両親が死んだ時こう思ったんだよ。お姉ちゃんはずるいってね。僕より3年も長く両親と一緒だったんだよ、当たり前なんだけれど。子供の頃はさ、何でも人より少ないと不満に思っちゃうんだよね。お菓子の量が少ないだとか、ジュースの量が少ないだとか。僕は8年しか両親と一緒にいられなかったのにお姉ちゃんは11年も一緒だったんだって思ったら悔しくなっちゃってさ。でも妹は僕よりも少なくて――」


 花さんは黙って僕の話を聞いてくれている。かける言葉が無いんだろう。


「どうしようもない事なのにね。両親が今生きていたとしても姉は僕より3年長く両親と暮らしているし、妹は僕よりも2年少ない。それはこの先ずっと両親が生きていたとしても絶対に変わらない差。そんなのを嘆いたって仕方のない事だって大きくなってから気付いてさ、笑っちゃうよね」


「いや笑えねーっすよ空気読んで下さい、笑える空気じゃないっしょ」


「多分、これがきっかけだったんだと思うんだけど、こう感じたんだろうね。『親しくなればなるほど別れが辛い。それだったら最初から親しくならなければいいじゃん』って。『人を好きになったり愛したりしない。別れが辛いから』って」


「ボッチやってるのはその為っすか?」


「さあ? それは関係あるのかも知れないし関係無いのかも知れないなあ」


 正直僕にも判らないから肯定も否定も出来ない。だけれど何となくだけど前者なんだろうなあ。他人と親しくなろうとすると心のブレーキがかかるし、と付け加える。


「でもそれは相手次第じゃないですかね」と花さんが呟く。


「どういう事?」


「恋は盲目って言うじゃないすか。いつか来る別れなんて考えられないくらいに好きになる人が現れるかも知れないじゃないすか」


「ふむ……」

「恋をしていると『恐怖』だとか『悲しみ』だとかのネガティブな感情と繋がる神経回路が遮断されるらしいす」

「へえ……」


 そういう物かねえ。果たしてそんな人が現れるのだろうか。仮に現れたとしても、好きにならないように接してしまうんじゃないだろうか。そして、悲しみに対する恐怖は好きになればなるほど大きくなって行くんじゃないだろうか。


 いつもは裏通りを歩いて行くのだけれど、生徒はもう殆どいないし、花さんが一緒だから表通りの商店街を歩いていく。辺りは薄暗くなってきたけれど、お洒落なブティックやカフェから煌々と光が漏れ歩道を明るく照らす。道行く人も学生に変わってサラリーマンやOLの比率が高くなってきていた。


「花さんがボッチやってるのは自らの意思?」

「そういう訳でもないっすけど結果的になっちゃったみたいな?」


 その蓋然性は高いのだろう。


「そのマスクと眼鏡はひょっとして、変装か顔隠しの類?」

「良くわかりましたね」

「やっぱそうなんだ。なんで?」

「私の美しさに男子がメロメロになっちゃうからっす」

 彼女は冗談めかして言うけれど、あながち的外れでも無いと思い、妙に納得していると、

「冗談すよ?」



 反対方向へ行く彼女とは改札で別れ帰路につく。



 家に着くと妹の朱がソファーに寝転がりスマホを弄っていた。朱は僕に気付くと、

「おっそーい。お腹ペコペコだよー」と言う。

「お姉ちゃんは今日バイト?」と僕が聞くと、

「うん、鮭焼いてあるからって。あと豚汁温めて食べろって」

「ふうん」

「もう食べるでしょ? 豚汁温めるよ?」

「ああ、頼む、それから……」


「今後僕を待ってなくていいぞ、先に食べてくれ」と言うと朱は口をぽかんと開けて、


「え? どういう事? お兄ちゃん友達でもできたの?」と聞く。

「いや、そういう訳じゃないけど」

「けど?」


「待ってもらってるって言うのがプレッシャーになるんだよ」

「ふうん、変なの」


 テーブルに向かい合って座り、

「いただきます」と両手を合わせて言う。最近すっかりお決まりになった光景。僕は料理に箸を付けながら、いずれは目の前の少女ともバイトに行っている姉とも離別する日が来るんだろう。その時の悲しみや寂しさは想像も出来ないけれど、それならば今からでも少しづつ距離を置いていった方が良いのかも知れない。

 そんな事をぼんやりと考えていた。


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