その蝶の羽ばたきは嵐を引き起こす④

真冬の澄んだ空気の粒が無数の刃となって頬を刺す。


それなのに頭はじんじんと熱く、脈打っている。


何者かが心臓を強く握って、全身に巡らせるはずの血を直接頭に流し込んでいるよう。


目を開けているのに何も見えない。


微かに浮かぶのは、愛しい人の後姿。


私が愛した、たった一人の人。


彼女は私を振り向いて冷たい一瞥を残し、今まさに去ろうとしている。


行かせてしまったら、もう二度と振り返ってはくれない。


…待って。いかないで。


私はその背中に無様に縋る。どんなに惨めでも、どんなに浅ましくて醜くても、構わない。


彼女がいないと生きていけない。


…詩歩!お願い、戻ってきて。拒絶しないで…。


詩歩…!


無我夢中で彼女の腕を掴んで振り向かせようとしても、彼女はそれを上回る力で振りほどき、軽蔑した目で私を見下ろす。


冷淡なその目を、私は何度向けられただろう。


お願い、私を拒絶しないで。あなたが必要なの。あなたを誰より、愛している…。


「…さん。」


「か…るさん。」


遠くから誰かの声が聞こえる。


待って。詩歩が行ってしまうの。


なんとしても引き止めないと。もう永遠に戻ってこないから…。


また私は独りになってしまう。もう孤独には耐えられない…。もう二度と、こんなに傷つきたくない…。


「…さん!」


「…かおるさん!私を見てください。」


大きな力が無理やり、息の絶えそうな私を冷たく暗い海の底から引き揚げる。


かおるがハッとして声のするほうを見つめると、白い顔がぼんやりと浮かび上がってきた。


公園の外灯に照らされた、園田圭の白い顔。


ああ、美しい…。まるで、天使のよう。


この人はこんなに、美しかったのか。


無造作にあごの下まで伸びた黒いショートカット。


陶器のようにきめの細かい透き通った白い肌。整った鼻筋。


迷いのない、切れ長の瞳。


深海のような空の濃紺と外灯の光を映しこんだその瞳は、真っすぐに、真剣にかおるを見つめる。


混じりけのない純粋さ。


私があなたにすべてをさらけ出したら、あなたも詩歩のように去っていくの?


それともあなたは本当に、永遠に私のそばにいてくれるというの?


「……もう、傷つきたくない。誰のことも、傷つけたくない…。」


声がかすれる。


声を発して初めて、かおるは自分が泣いていること、誰にも言ったことのない心の声を発していることに気づいた。


圭はかおるから目を逸らさない。


真っすぐに見つめたままかおるの濡れた頬をそっと拭う。


温かい指先。


「あなたを決して傷つけません。あなたを独りにもしません。絶対に。」


優しい瞳。


信じてもいいというの?


ねえ、園田さん。


そんな目をされたら私は…。


― ワン!


突然の犬の鳴き声に現実に引き戻される二人。


「ご自宅まで、送ります。」


圭はかおるを支えて立たせると、かおるが首元に巻いている自分のマフラーを彼女の鼻のあたりまで引き上げた。


泣いているかおるの顔を誰にも見られないように。


こうして接近して立つと、圭の方がかおるよりずっと背が高い。


一人で歩かせるのが心もとないかおるの肩に腕を回し、かおるが黙って指さす方向にゆっくりと歩き始める。


圭に頼り切って体を預けているかおるの体の重みを感じると、圭の体の奥底からとめどなく温かい液体が流れだし、全身にめぐる。


こんな感情がこの世にあったなんて。


理屈でも、数値でも表せない、果てしなく大きな熱い気持ち。


世界はなんて美しいんだ。


冷気の粒子の一粒一粒が輝き、私たちのうえに降り注いでいる。


圭はかおるを見下ろした。


表情は窺えないが、圭の腕にすっぽりと収まっている。


この人がこの上なく愛おしい。


でもなぜだろう。


どうしてこんなに、悲しいんだろう。


----------


大きな本棚とデスクとベッドだけの殺風景な部屋。


相馬かおるの部屋に着くと、圭はかおるをベッドの上に座らせた。


圭がデスクの上に置かれた照明をつけると、申し訳なさそうに圭を見上げるかおる。


「…ごめんなさい。こんなところまで来させてしまって。」


「謝らないでください。私が好きでしていることですから。


では、私は帰ります。先ほどのお話ですが、すぐにお返事を頂きたいわけではありません。忘れてくださっても、構いません。とにかく今は、ゆっくり休んでください。」


圭が立ち去ろうとすると、コートの裾が何かに引っかかった。


見ると、かおるが握っている。


「本当に、忘れてもいいと思っているの?」


圭をまっすぐに見上げるその瞳は、照明の暖色を映して、まるで燃えているように強い光を放つ。


これまで敬語を崩したことのなかったかおるの口調が変わっていることに、圭は気づいた。


「その程度の気持ちなの?」


怒っているような、苛立っているようなかおるの表情。


「ねえ、答えて。」


「…」


言葉が出てこない。


「そう…。分かりました。」


かおるは圭のコートから手を離した。


「帰って。もう二度と、私の前に現れないでください。」


「…」


あまりの急展開に、圭は状況把握が追い付かず動くことすらできない。


「帰ってください!」


両腕をだらりと垂らしうなだれる圭にかおるは近づき、腕を強くつかむ。


「帰ってください。もう二度と、お会いしません。」


腕に込められた強い力が、圭を家の外に追い出そうとする。


…と、圭の頭の中で銃声のような大きな音が弾けた。


考えるより先に体が動く。


圭はかおるの顔を両手で押さえると、いきなり唇を奪った。


「…んっ」


抵抗し、圭の両腕を強く掴んで引き離そうとするかおる。


圭の方が背が高い。上から顔を押さえられているかおるの抵抗は意味をなさない。


圭は構わず、自らの唇でかおるの唇を塞ぐ。


初めて会った時に印象的だったのは、かおるの瞳と唇だった。


厚めで、感情を映して形を変える艶っぽい唇。


思考する時に指で唇に触れるかおるの癖が好きだった。


何度も頭の中で、この唇に触れた。


何度も、この唇を味わった。


想像するより何倍も熱く湿って、甘い。


無理やりこんなことするなんて、私は最低だ。


でも、真剣なこの気持ちを否定されたくなかった。


誰よりも、あなたを愛しているから。


この気持ちを分かって。信じて。


夢中で貪るかおるの唇。


「っん…」


圭の腕をつかむかおるの手に一層力がこもる。


でもそのベクトルは、引き離す方から、かおる自身に引き寄せるほうに変わっている。


圭の唇が離れそうになると、追いかけて自分から唇を押し付けるかおる。


いつしか圭が一方的に感情をぶつける口づけから、お互いが相手を求める口づけに変わっている。


…と、かおるの両手が圭の頭を両手で包み、唇が引き離された。


頬は上気して、バラ色に染まっている。


かおるは艶めかしく息が上がっているなかで、切れ切れに言葉を紡ぐ。


「…これ以上したら、もう、後戻りできなくなる…。」


圭はもう、止める気はなかった。


この人と一緒に、どこまでも落ちよう。この人の抱える傷も孤独も、私が癒そう。何があっても絶対に、離さない。


圭はかおるを強く、優しく見つめた。


「後戻りさせません。あなたを決して、離しません。」


圭はかおるの豊かで柔らかな黒髪をかきあげると、そのままベッドに押し倒した。

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