その蝶の羽ばたきは嵐を引き起こす②
― 相馬様
こんにちは。工理大学の園田です。
昨日は突然お電話を切ってしまい、申し訳ありませんでした。会議の時間が迫っていたので、急いでおりました。
先日の記事が載っている冊子を届けてくださるとのこと、ありがとうございます。
下記の日程はいかがでしょうか ―
翌日、圭からメールが届いた。
私が急に距離を詰めすぎたから園田さんに拒絶されたと思っていたけれど、彼女は気にしていないようだ…。
かおるは不安が杞憂であったことに安堵した。
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幼いころに親から満足に与えられなかった愛情。私は思春期から、親以外からそれを与えてもらおうと躍起になった。
だから、自分に好意を持ってくれている人に嫌われないようにすることに必死だった。
でも誰も、私が欲しい愛情は与えてくれなかった。
容姿だけを目当てに近づいてくる連中は、私の心など見てくれなかった。
自ら初めて愛した人は、その愛情を与えてくれるかに思えた。でも結局は、拒絶された。私の貪欲さに耐えられなくなったのだろう。
私はいつも、飢えたハイエナが死肉を求めるように愛を求めていた。与えられたとしても、満足できなかった。
そんな満たされない私はどんなに醜かっただろう。今も、変わらない。
愛が手に入らないと知った私は、代わりに仕事で承認欲求を満たすことに集中した。
でも、やはりどうしても満たされない。
愛を求めてしまう。そして、好意を持った相手に気持ちを隠せずに近づき、拒絶されて傷つく。この繰り返し。
もう、傷つきたくない。
園田圭は私に好意を持ってくれているかもしれない。でも、その好意に甘えてはいけない。表面上の付き合いに留めなくては。
なぜなら私はきっと、彼女の好意が欲しいだけだから。
愛情の欠如、底なしの承認欲求を満たしたいだけ。その好意に応えることにはならない。
園田さんを傷つけるだけだ。
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初めて圭と会った取材の日から1か月が経った12月20日の午後、かおるは一軒の古民家カフェに到着した。
朝から降り続く雨で、今日は一段と寒い。
雨は嫌いだ。否応なしに孤独を実感させられるから。
圭が選んで指定してくれたそのカフェに入ると、かおるは店員に待ち合わせであることを告げ、奥の庭に面した席に通された。
「園田さん。お待たせしました。」
弾かれたように立ち上がった圭は、かおるの瞳をまっすぐに見つめた。
大きめの白いシャツに、細身の黒いパンツ、黒い革の紐靴。
園田さんらしい、質素な服装。
肌が白いからか、あまり生命力を感じない。まるで透き通る白いジャスミンの花のよう。
黒いショートカットは1か月の間にあごの付近まで伸びて、今日は眼鏡をしていない。
前回会ったときは思春期の少年のような尖った雰囲気だったけれど、今日は年相応の女性に見える。
「相馬さん、お久しぶりです。お時間作っていただいて、ありがとうございます。」
相変わらずにこりともしない不愛想な佇まいだが、頬には赤みが差している。
かおるは、取材の最後に差し掛かった時に見せた、圭の熱に浮かされたような高揚した表情を思い出した。
「いいえ。こちらこそ、雨の中わざわざ私の自宅付近にまでいらしていただいて。しかもこのお店、すごく雰囲気がいいですね!家の近くなのに知らなかったです」
「今日は学会の振り替えで半日休みをもらっていて…。せっかくなので、良さそうなお店を探してみました。」
恥ずかしそうにもごもごと話す圭に、かおるは母性本能がくすぐられるのを感じ、自然と笑みが浮かぶ。
こじんまりとした和風のカフェ。目の前に広がるよく手入れされた庭は、木々の葉の一枚一枚に雨のしずくを乗せて輝いている。
雨は嫌い。でも、この景色は美しい。
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相馬さんと会った後は、研究室の誰にも会いたくなかった。たぶん、平常心ではないだろうから。
浮かれていても、落ち込んでいても、それが表情に表れて勘ぐられたくなかった。特に勘のいい大木教授には。
だから、代休の日に合わせられてホッとした。
先日、不愛想に電話を突然切ってしまったことへの謝罪は、快く受け入れてもらえた。
今度は、少しでも相馬さんに気に入られたい。
彼女の自宅の最寄り駅を聞いて、その周辺で雰囲気の良いカフェを探した。
まるでデートの下調べをしているようで、カフェに入ってくるかおる、良い店だと喜んで瞳が輝くかおるを想像して、胸が高鳴る。
ただの取材相手としてだけではなく、一人の人間として、気に入られたい。
そんなことを考える自分に、圭は驚いた。
圭は、他人に媚びたことが一度もない。
他人から好かれようと嫌われようと、どうでも良いことだった。
研究や趣味などが圭の人生で最も優先順位が高いことだから。
その優先順位が脅かされているのを圭は感じていた。
相馬さんのことで浮かれると研究に集中できた。でも落ち込むと、全く集中できない。
常に優先順位が1番だったものが、変わりつつあるのを感じていた。
「このお店、すごく雰囲気がいいですね!」
店内に入ってきたかおるは、感動しているような表情を浮かべている。楽しそうだ。
ベージュのワンピースに、濃茶のヒールのない靴。ボルドーの大きめのトートバッグ。
丈が長めのワンピースは、胸元が着物のようになっている。カシュクールというのだろうか。相馬さんによく似合っている。
かばんはPCや仕事道具を入れられるように大きめなところが、仕事をバリバリこなす相馬さんらしい。
そして今日も、この人は本当に美しい。決して容姿だけで好意を持っているわけではないけれど、整った顔立ちと、活発とアンニュイが同居した雰囲気は、目を引く。
庭を眺められるように、席はカウンターになっている。
圭は店員から渡されたメニューを眺めるふりをしつつ、さりげなく隣にいるかおるの様子を伺った。
かおるは自分用のメニューを見ながら、「甘いもの、食べちゃおうかな…。あ、飲み物もけっこう種類がある。」などと圭に聞こえるか聞こえないかの声でコメントしている。
何を注文するか選びながら、自分の唇を触るかおる。
少し厚めの唇の形が歪むのを見た瞬間、圭の眼前に、真っ白なシーツの波の中、全裸で何者かにまたがり、背中を反らして官能的に喘ぐかおるの姿が浮かんだ。
思いがけない性的な妄想に一気に鼓動が激しくなり、顔が赤くなる。
「園田さん、決まりました?」
突然メニューから顔を上げたかおるに悟られまいと、自分のメニューに目線を落とし、集中する。
初めて会った時も、こんな想像をしてしまった。
この人の大人の色気がそうさせるのか、それとも私の好意がそうさせるのか。もし前者だとしたら、私以外の人もこんな下品な想像をしているのかもしれない…。
先日電話で話しているときに脳裏に浮かんだ、かおるの前で鼻の下を伸ばす男たちの姿がまた浮かびそうになり、圭は思考を止めた。今日は楽しく過ごしたい。
注文を済ませると、かおるはかばんから冊子を取り出した。
「できました!これ、全国の大学で就活中の学生に配られるんです。園田さんの存在が全国に知られるって、嬉しくもあり、ちょっと寂しくもありますけど。何はともあれ、取材を受けてくださってありがとうございます。」
「こちらこそ、ありがとうございます。ちょっと気恥ずかしいですが。」
「ところで園田さん、先日知り合いのテレビ局のプロデューサーに会って園田さんのお話をしたら、ぜひ番組で取り上げさせてもらいたいって言ってたんです。また取材させていただくことって、可能でしょうか…。」
テレビとは、話しが大きくなってきたな…。でも、この研究って人に知られていないから興味を持つ人が増えるのはありがたいし、なにより…。
また相馬さんと会えるなら…。
「そうですね。個人的には良さそうな気はしていますが、教授や大学広報にも確認しないと。概要が分かるものをメールしていただけますか?」
「わかりました。ぜひ、前向きにご検討ください。」
仕事以外の話しもしたいな…。
そう圭が思っていると、注文したものが運ばれてきた。
かおるはケーキとブラックコーヒー。圭はブラックコーヒーだけだ。
和風にデコレーションされたケーキに歓喜の声をあげるかおる。
外見は落ち着いた大人だけど、内面は子供の要素が強い人だな…。
ふとかおるの指を見ると、指輪をしていないことに気づく。
そうだ。どうして今まで気づかなかったのだろう。かおるが結婚をしている可能性は十分ある。
「個人的なお話をしてもよいですか?」
「はい?あ、大丈夫ですよ。なんでも、どうぞ!」
「相馬さんはご結婚はされていますか」
くすっと笑うかおる。
「園田さんは紳士的ですね。もっとカジュアルにお話してください。私、あなたに聞かれて嫌なことはたぶんないですよ。
結婚は、していません。園田さんは?」
「私もしていません。」
良かった。結婚していないということは、相馬さんはまだ誰のものでもないということ。でも、待てよ…。
「恋人は、いますか」
「うーん、特定の人はいません。長らく、ステディな関係は避けてきてますねー。」
圭はこの言葉に浮かれた。
「そうなんですね。私も長いこと恋人はいません。ところで相馬さんはおいくつですか?女性に年齢を聞くのは失礼かもしれませんが…」
「いま、38です。アラフォーになっちゃいました。もうおばさんです。」
「じゃあ、私と9歳差ですね。相馬さんが大人に見えるわけです。おばさんには見えませんよ。素敵に年を重ねていると思います。」
この言葉に、かおるの顔がみるみるうちに紅潮していく。
「あ、ありがとうございます。あまりそういうこと、面と向かって言われないから…。」
恋愛にうぶな少女のような反応に、圭まで気恥ずかしくなる。
「でも、そういうこと、あまり言わない方がいいですよ。勘違いする人もいるかもしれませんからね。」
手で顔を扇ぎながら、諭すような口調のかおる。
「勘違いしてもいい人にしか、言いませんから。」
気づいてほしいと思ってしまった。
圭はかおるに、好意を間接的ながら、明確に示した。
「え…?」
目を見開いて圭を見るかおる。
「も、もう!おばさんをからかわないでください!なんだか、研究室で会う時とだいぶ雰囲気が違いますね、園田さん。明るくて、年相応で。」
そう言いながら俯き、コーヒーカップの縁を指でなぞるかおる。
口調は明るいのに、自らの指先を追う瞳に寂しさが宿っている。
初めて会った時から、圭はかおるの中に何か違和感を感じていた。
どんなに明るくしていても、どんなに瞳が輝いていても、打ち解けた仲になっても、誰にも触れさせない何かがある気がしていた。
その違和感の正体が、いま、分かった気がした。
相馬さんは、独りだ。
いや、深く傷ついているといってもいいかもしれない。そしてその傷を誰にも見せないようにしている。
底抜けに明るいオーラのある人だから、この陰に気づく人は少ないのではないだろうか。
いや、これは私の想像でしかない。憶測だけで判断するなんて、数学者としてあるまじき行為だ。
でも圭は、かおるのことを案じてならなかった。
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「今日はありがとうございました。楽しい時間でした。テレビの取材のお話、企画がまとまったらまたご連絡しますね。研究、頑張ってください。」
「こちらこそ、ありがとうございました。質問責めにしてしまいましたが、相馬さんのことを知ることができて良かったです。ご連絡、お待ちしています。」
店の前で二人は別れた。
圭はかおるに雰囲気の良いカフェを準備していた。会話でも、かおるのことを知ろうとしてくれた。そして、好意をはっきりと示す言葉を発した。
かおるは唇をきつく噛んだ。
求めてはいけない。
もっと、欲しいと思ってしまう。園田さんの好意を、もっともっとと欲してしまう。
大切にされたいと、愛されたいと思ってしまう。
彼女の好意を私の自己中心的な欲求の充足に利用してはいけない。
突然、かおるの電話のベルが鳴った。
「はい。」
「かおる、今日の夜、食事でもどうかな?」
以前、バーで出会った男。経済力があり、女をもてなすスキルが高い男。
今夜、私はこの男に抱かれるだろう。
求められているという実感を得るためだけに。承認欲求を満たすためだけに。
女として求められているという、仕事では手に入れられない充足を得るため、私はそうやって、かりそめの関係をいくつも持つ。
なんとも虚しい人生だわ。
こんな人生に、園田さんを巻き込んではいけない。
かおるは圭がじっと見ていることも知らず、後ろを振り向かずに歩き始めた。
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