その蝶の羽ばたきは嵐を引き起こす①
取材の翌日、圭はかおるから原稿をメールで受け取った。
用件だけを伝えるそっけないメッセージとともに。
原稿には、圭の研究への一途な思い、この道を選んだきっかけなどが丁寧に綴られていて、胸が熱くなった。
私の話しをこんなに感動的な物語にしてくれた…。
美しい文体。昨日、銀杏の葉が舞い散る中、一心不乱に書いていたかおるの姿を思い出す。
それだけで鼓動が早くなり、顔が紅潮していく。圭は慌てて周囲を見回した。まるで淫らなことを考えているかのような後ろめたさを感じる。
研究室は他の研究員がキーボードを叩く音と、大木教授が研究書のページを繰るわずかな紙の音しかしない。
誰にも見られていないことを確認し、圭はホッとした。
圭はかおるに、原稿を確認したこと、修正点はないことを手短に返信した。
…もう、会えないのだろうか。
動くたびに揺れるかおるの漆黒の髪、考えるときに唇を触る癖、笑うと目尻が下がり優しさに溢れる目。
積極的で生命力に溢れた姿と、遠慮がちで控えめな態度。
また会いたい。もっと相馬さんのことが知りたい。
研究以外で、手に入れ難いものをここまで欲したことはなかった。
こんなにも、苦しくてどうにもならない感情があったとは。
― また、お話聞かせてください。
かおるは確かにそう言った。きっとまた会える。そう信じよう。
それからの数日、圭は仕事以外の時間はほとんどすべて、かおるのことを調べることに費やした。
幸い、メディアに関わる仕事をしているかおるの情報は、ネット上を探せば簡単に見つけることができた。
出版社で雑誌の編集をした後にテレビ局に転職し、いまはフリーの編集者となっていること。
企画から執筆まですべて一人でこなしていること。
手掛けた作品の数々。
プロフィールや仕事については調べ尽くし、仕事の状況を発信しているSNSも発見して、一日に何度も更新されていないかチェックした。
取材の日のSNSには、「若き数学研究者を取材。園田圭さんは将来、私たちの生活から"事故"という二文字をなくす存在になるかもしれない。彼女のこれからの活躍に目が離せない」と記されてあった。
素直に、嬉しかった。
誰かに認められたくてこの仕事をしているわけではない。
でも、これまでの苦労や数えきれないくらい味わってきた挫折を、「頑張ったね」と労ってもらっている気がした。
圭は毎朝、かおるが記したこの言葉と、あの日の記事を読み、自分を鼓舞して研究に向き合った。
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取材から2週間が経った、ある昼下がり。
静かな研究室に、電話のベルが鳴り響いた。
「はい、大木研究室です。」
圭が応答すると、
「私、編集者の相馬と申します。園田さんはいらっしゃいますでしょうか。」
聞き覚えのある、少し高めの落ち着いた声。
瞬時に目の前に、笑みをたたえた大きなアーモンド形の瞳が再現された。
目の前がくらくらする。
同時に、嬉しさがこみ上げてくる。
また、つながれた。毎日毎日、こうしてまた関われることを願っていた。
血が頭にのぼる。怒りではない。ここまで一気に感情が昂ることなんて、今まであっただろうか。
研究で新たな発見をしたときは、興奮しながらも冷静だ。頭で次の工程や展開を考えるから。
でも、相馬かおるのことになると、圭は冷静さを簡単に手放してしまう。
圭は逸る気持ちを抑えて、いつもの話し方を意識しながら、ようやくのことで言葉を絞り出した。
「はい、私が園田ですが。」
声がかすれる。
「やっぱり!その声は園田さんだと思いました。先日はありがとうございました!
実は、先日ウェブサイトに掲載した記事を、同じメディアの紙媒体にも掲載したいと依頼があったんです。
園田さんのご意思を伺いたく、ご連絡した次第です。いかがですか?」
かおるは浮かれた口調でまくしたてた。あまりに明るく勢いのある話し方につられて、圭の緊張は薄まり自然に笑みがこぼれた。
「すごい早口ですね。」
圭は無意識に口にした言葉にはっとして口をつぐんだ。
かおるの素直な感情表現が可愛らしくて、つい率直な感想を口にしていた。
まずい。余計なことを言ってしまった。気を悪くしなかったかな。
「あ、ごめんなさい。まさに今さっきこのお話を頂いて、真っ先に園田さんに報告したくて、嬉しくてつい…。突っ走ってしまいましたね…。」
申し訳なさそうな口ぶりだが、快活さは失われていない。
良かった。不快には思われていないようだ。
「いえ。ありがとうございます。嬉しいです。」
「ということは、紙媒体にも掲載してOKですか?」
「ええ。こちらこそ、お願いします。」
「良かった!明日入稿なので、早速進めますね。2週間後に刷り上がるので、出来立てほやほやをお送りします。あ、待って。もしよろしければ、お届けします。研究室に、お持ちします。」
またしてもすごい勢いだ。自己中心的とも思えるくらいの強引さ。
取材のときとも、その後の銀杏並木のときとも異なる、天真爛漫なかおるの様子に、圭の心は踊った
また相馬さんの一面を知れた。それに、また会う機会がもらえるなんて。
まるで子犬が母犬の足元を跳ね回るような、弾む気分。
「わざわざお越しいただくなんて…。よろしいんでしょうか。」
「全然構いません。ぜひ、伺わせてください。あ、園田さんがお嫌じゃなければ、ですけれど。」
かおるの含み笑い。
「特に、嫌ではないですよ。」
素直になれない自分に、我ながら苦笑する。
「あら?会っても会わなくてもどっちでもいい、ということですか?私は園田さんにお会いしたいのに。」
からかうような口調。
ああ、大人なんだな、この人は。こうやって、いろいろな人に好意を向けて、仕事を得ているのか。
きっと、気のない相手にもこうして、歯の浮くようなセリフを口にしているのだろう。
私とのこのやりとりも、所詮は「お仕事」なんだ。
先ほどまであんなにも愛しく感じていたかおるの明るく軽い口ぶり。
その先に鼻の下を伸ばす連中の顔が浮かんできて、急激に圭の心は冷えた。
「すみません、急ぐので。お会いする候補日時を複数メールします。では、失礼します。」
うまく対応できず、圭は一方的に言い切って受話器を置いた。
取材のときに向き合ってくれた真摯な姿勢、そのあとのあの遠慮がちな態度とは全く違う、軽いノリ。
恋愛ごっこを楽しんでいるようなかおる。
あんなに知的で品のある女性だと思っていたのに。
誰にでもこうやって好意を振りまくのか。
こんな調子じゃ、誰にでも体を預けるのではないか?かおるの髪に、頬に、肩に、体に触れる男たちの手を想像してしまう。
電話をもらって近づいたと思えたかおるとの距離が、一気に遠くなる。
…と、感情的になってとっさに失礼な電話の切り方をしたことに気づき、圭は焦った。
どうしよう。取り返しのつかないことをしてしまった。感じたことのない怒りが湧き上がって、抑えられなかった。
もう、会えないかもしれない。
不快な気持ちだが、かおるに会いたい気持ちは変わらない。
すぐにメールをして謝らなくては…。いや、他に方法はないか。こういう時、どうしたらいいんだ…。
圭の額から冷たい汗が流れ落ちた。
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ああ、また、人との距離の詰め方を間違えてしまった…。
かおるは受話器から流れるツーツーと通話が切れた音を聞きながら、打ちひしがれた。
圭の取材記事が高く評価されて、紙媒体にも掲載したいと話をもらった。
圭の研究への姿勢、彼女の純粋さ、浮わついたところが微塵もない無骨さを、尊敬もし、好意を抱いていた。
これからも彼女を見守りたい。応援したい。
そう、心から願っていた。それなのに。
好意を持った相手に、自分の気持ちを押し付けてしまう癖が出てしまった。
圭が私に好意を持ってくれていると自惚れて、自分を隠すことをつい、忘れてしまった。
こうやって、私はいつも特定の相手を困らせてしまう。
大切にしたいと思っていた圭に、拒絶のような態度を取られてしまった。
終話ボタンを押すと、ツーツーという音が消え、静寂が訪れる。
かおるは心がざっくりと傷ついたのを感じた。
仕事に打ち込んで、この場をしのごう。
気持ちが落ち着いたら、園田さんに謝ろう。
重たい気持ちとともにPCに向かった。
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