土と華④

かおるは圭に事務的な挨拶をすると、研究室を去っていった。


冷たく色のない視線を残して。


その瞳の中には、先ほどまでの生き生きとした輝きや親しみは微塵もなかった。


圭に何の関心も抱いていない目。


去り際にかおるが見せたその態度に、圭は冷や水を浴びせられたように我に返った。


そうか…。相馬さんにとって私は一人の取材対象。


これまでもこれからも、何人もいる対象者のうちの一人に過ぎない。


そこで初めて圭は、自分が今日の取材を心から楽しんでいたこと、そして、かおるも同じだと願っていたことに気づいた。


二人だけの秘密の時間を共有したような親密さを感じていたのは、私だけだったんだ…。


体が鉛のように重い。圭はどさりと椅子に腰を下ろし、目の前のデスクに突っ伏した。


どうしたんだ、園田圭。こんなに感情に支配されるなんて。一人の人間に何かを期待するなんて。


あの女性、相馬かおるがどんなに魅力的でも、お前の人生に大きな影響を及ぼす存在ではないだろう。


いや、影響を及ぼされてはいけないのだ。


無駄に心を乱されるな。お前の人生は研究に捧げたはずだ。


もし彼女がどんなに心を開ける相手だったとしても、万が一、彼女に特別な感情を抱いたとしても、それはお前の人生にとってはノイズでしかない。


相馬かおるは、今日初めて会った人。


たぶんもう、二度と会わない人。


園田圭、お前の人生にイレギュラーなことは起きない。起きてはいけない。


もし今みたいに激しく心が動いたとしても、軌道修正して平静な状態に戻して研究に没頭すればいい。


心乱されるな。


しばらくして体を起こすと、圭は大きく深呼吸をした。


何度も深呼吸を繰り返しながら、自戒の言葉を反芻する。


幸い、大木教授はまだ帰ってきていない。動揺した姿を見られなくてよかった。


圭はよろよろと立ち上がると、気分転換のために研究室を出た。


そうだ。まだ昼食をとっていなかった。食欲はないけれど、他に行くあてもないし、食堂に行こう。


研究室から食堂には渡り廊下を通れば、外を通らなくても行くことができる。


しかし圭は、冷たい風に当たるために外に出た。


大学の構内は車はほとんど通らないし、今日は人通りが少なく静かだ。


食堂まで続く銀杏並木。


鮮やかに黄色く色づいた葉がはらはらと舞い落ち、地面は黄金色の絨毯を敷き詰めたようだ。


室内よりも冷えた空気が、圭を冷静にさせてくれる。


夕方の入り口。


空を見上げると、青空の一部が薄紫色に変わり始めている。


銀杏の葉の黄金色、空の青と薄紫。


強烈な色と淡い色。


秋、昼間、夕方。


全てが溶け合い、目の前に広がっている。


綺麗だな。


圭は、見慣れた景色に目を奪われ、こんなにも感動している自分に驚いた。


視線を下ろして食堂の方に歩き始めると、目的地の少し手前、圭のいる場所から50メートルくらい先のベンチに見覚えのあるジャケットを羽織った黒髪の女性が座っていることに気づいた。


ああ、そんな…。どうして…。


心臓がせわしなく動き始める。


そうするべきではないと頭ではわかっているのに、圭は自分の体が動くのを止められなかった。


見つからないように、かおるの視線に入らないように少しずつ近づくと、物陰からかおるを観察した。


対面に置かれた二人掛けのベンチの間にテーブルがあり、四人掛けで食事ができるようになっている。


かおるはテーブルの上にPCを開き、先ほどはしていなかった太い黒縁の眼鏡をかけて真剣に作業をしている。


厳しい表情。


眉間に寄せた皺が苦しみすら感じさせるのに、時折見せる甘美な色。


まるで、ピアニストが旋律を奏でるようにキーボードを叩いている。


目が離せない。なんという美しい光景だ。


かおるは時折手を止めて、唇を触りながら考え事をしている。官能的なその仕草に圭は動物的な欲望が湧き上がるのを感じ、初めて感じる感覚に衝撃を受け自分を恥じた。


まただ。心が暴れ始める。


もっと、相馬さんのことを見ていたい。もっと彼女と話したい。彼女のことが、知りたい。


だめだ。これ以上ここにいてはいけない。


冷静になるために外に出てきたのだから。


離れなくては。


圭は後ろ髪ひかれつつも意を決して踵と返すと、来た道を戻り、渡り廊下を通って食堂に向かった。


いま会わなければ、一生会うこともないだろう。


それでいい。


制御できないのなら、離れるまでだ。私の人生に相馬かおるは必要ない。


必要ない。


相馬かおるは、私の人生に必要ない。


気を紛らすため圭は、食事をしながらスマホで研究に必要な情報収集を始めた。


食事は喉を通らず、情報は何も頭に入ってこない。


かおるのことが気になって仕方がない。


無意識に指が「気になる人」と打ち、検索していた。


検索結果には「気になる人」「好きな人」「恋」という言葉が並ぶ。


恋…?


まさか、これは恋なのか?


初めて会った人に?


この私が、恋?


これまで、恋らしき感情を抱いた記憶はある。好きだと言われて、交際をしたこともある。


でも、それは自分の感情と相手の感情を観察する行為でしかなかった。


欲求が理性を超えたことなど一度もないし、こんなに浮足立つことも、感情に支配されたこともない。


これが、恋なのか?それとも、別の感情なのか?


考え事をしていると、1時間が経過していた。


自分の感情が知りたい。この感情が何なのか、確かめたい。


研究室に戻る道のりに彼女がまだいたら、声を掛けよう。


いなければ、何もなかったことにしよう。


食堂の出口に差し掛かると、冷気を感じた。


外は先ほどよりいっそう紫に染まっている。気温も下がってきている。


圭は自動販売機で缶コーヒーを1本買った。ミルクコーヒーに手を伸ばしたが、思い直してブラックを選んだ。


受け取り口から缶コーヒーを取り出すと、少し考えて同じコーヒーをもう1本買った。


食堂を出て研究室に続く黄金色の道に視線を這わせると、かおるはまだ、そこにいた。


いるかもしれないと予想していたのに、ギクリとする。


先ほどより暗くなっているからかかおるの眼鏡にはPC画面が映り込んでいる。表情もあまり分からない。


圭はかおるの座るベンチに近づいた。


膝が震える。缶コーヒーを持つ手も、おぼつかない。「口から心臓が飛び出しそう」という感覚はこういうことなのか。


こんなにも動揺するなんて、我ながら滑稽だ。


「…相馬さん」


蚊の鳴くような声。


かおるは全く気が付かない。視線はPC画面からピクリとも動かない。


もう一度名前を呼ぶ勇気は出なかった。


圭は黙って缶コーヒーをかおるのPCの横に置いた。


驚いた表情で目を上げるかおる。


圭を見ているが、目線が泳いでいて誰かすぐには分からないようだ。


まるで、空想の世界から現実に戻ってきているようだ。


少しの間の後、瞳がはっきりと圭を捉えた。


「あ、園田、さん。ご、ごめんなさい。集中していて気付かなくて…。」


「いえ。先ほどはろくにご挨拶もできず、すみませんでした。寒くなってきたので、風邪ひかないようにしてください。原稿、楽しみにしています。」


かおるが想像以上に動揺してしどろもどろになっているからか、圭は自分でもビックリするくらい冷静に話した。


「こちらこそ、急に失礼してしまって、ごめんなさい。今ちょうど、伺ったお話を原稿にしていました。完成したらメールでお送りしますね。」


「はい。では。」


圭は感情を確かめるためにここに来たのに、緊張してそれどころではない。


いざかおるを目の前にすると何も言葉が出てこず、気恥ずかしさに一刻も早くこの場を立ち去りたくなった。


圭は研究室に向かって歩き出そうと、かおるに背を向けた。


「あの、これ。園田さんのでは?」


振り向くと、かおるが缶コーヒーを手にしている。


遠慮がちな瞳。どうしてそんなに弱々しい表情をするんだ、この人は。先ほどまでのエネルギッシュな印象と正反対だ。


「いいえ。差し上げます。今日のお礼です。私も同じものを買っていますので。」


「お礼をすべきはこちらなのに。すみません…。では、遠慮なくいただきます。ありがとうございます。」


「はい。では。」


「あ、待って。」


終始敬語だったかおるが突然口にした、親しみのある口調。


それだけで圭の心臓は跳ねる。


緊張でさらに顔がこわばるのを感じて、圭は表情をかおるに見られないよう半身だけ彼女のほうに向けた。


「はい?」


「園田さん、また、お話聞かせてください。私、これからもあなたのご活躍を追い続けてもいいですか?」


「…私で良ければ、いつでもどうぞ。ではもう戻ります。失礼します。」


これっきりには、できなかった。


相馬かおるは、離れるべき相手。


でも、また会いたい。


そう、強く願ってしまった。


恋なのかは、分からない。でも、相馬かおるは一瞬にして私の感情を全て、支配してしまった。


こんなことが私の人生に起こるなんて。


圭は地に足が着いていないことを感じつつ、研究室に向かった。


圭の細長い後姿を見送りながら、かおるは自分の口にした言葉を後悔していた。


気を持たせるようなことを言ってしまった…。でも、圭の不器用な好意を放っておくことができなかった。


圭が自分に好意を持ってくれているのは確かだろう。その好意がどのような類であったとしても、深入りは禁物だ。トラブルになるだけ。


応えることはできない。でも、この出会いを切ることはできない。仕事としても、一人の人間としても。


かおるは缶コーヒーを手に取ると、冷えた指先を温めた。


ブラック、ね。園田さんらしいわ。


タイムリミットはあと1時間というところかしら。日が沈むまでに書き上げてしまおう。


かおるは缶コーヒーを開けて一口飲むと、またPC画面を睨みつけた。

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