土と華②

久しぶりに足を踏み入れた「学校」という場所。


でもここは、私がかつて通っていた大学の雰囲気とはかなり異なる。


若い学生の将来への期待や不安、溢れる好奇心からせわしなく動く数多の視線、満たされない承認欲求と恋や性への渇望。


感情の"るつぼ"。


精神的にも物理的にも騒々しく、そんな空間に興奮もし、またゲンナリもしたものだ。


ここにはそういう、大学特有の活発な空気がない。


静かだ。


開いている扉を覗くと人はいるし、声も聞こえる。閉じている扉の中にも微かに人の気配を感じるというのに。


相馬かおるは、大学の広報担当者の後を歩きながら、周囲を注意深く見た。


コツコツと響くかおるのヒールの音が異質なノイズとなって聞こえる。


ここが大学の研究室棟。独特の雰囲気があるのね。


工理大学の理系学科の研究室が集まる研究室棟。


初めて訪れた場所、初めて会う人、これから聞けるであろう興味深い話。


知的好奇心が心の底から湧き上がり、子供のようにワクワクした気持ちになる。


かおるは、この静かな場所とは裏腹な胸の高鳴りを覚え、笑顔になるのを抑えられなかった。


取材の度、かおるは編集者という仕事を続けていられることに感謝した。


自分の知的欲求を満たせて、さらにそれをメディアに仕上げてたくさんの人に有益な情報だと受け取ってもらえる。


この上なく幸せな仕事だと思う。


まあ、それなりにハードな仕事だけど。


広報担当者のスローペースな歩みに合わせながら彼女は、取材相手に聞くことや読者が知りたいことの想定など、事前に準備してきたことを実際の環境に合わせて変えるべきかと考えながら歩いた。


「こちらです。」


広報担当者はおっとりした笑顔をかおるに向けると、すぐに研究室の一室に立ち入った。


「取材の方がみえました。」


かおるが遠慮がちに入り口付近に立っていると、にこやかな笑顔を浮かべながら大げさに腕を広げて、初老の男性が近づいてきた。


「やあ、お待ちしていましたよ!今日はわざわざお越しいただいて!うちの研究室のホープである園田は、10年後の日本を変える存在になるかもしれませんから、たくさんの人にご紹介…」


「教授、代わります」


青ざめていると言っても過言ではない真っ白な顔をした小柄な女性が、長くなるであろう男性の話しを冷たく遮った。


この初老の男性が、数学を駆使して日本の防災技術の向上に大きく貢献している大木教授ね。


そしてこちらが、本日の取材相手でしょうね。


理知的な印象。言い方は冷たいけれど、もしかして、教授の話が長くなってこちらに迷惑をかけないための気遣いなのかしら。


「あ、ああ、ごめんごめん。こちらが本日取材を受けます当研究室の助手、園田圭です。よろしくお願いします。」


親子のような関係。この二人はいいコンビね。


「フリーの編集者をしております、相馬かおると申します。本日は取材をお受けいただき、ありがとうございます。」


かおるは名刺を教授と圭それぞれに手渡しながら、話を続ける。


「本日取材した内容は、学生向けのStudent Futureというウェブメディアに掲載させていただきます。様々な職業についている先輩の事例紹介をして、読者の進路決定のサポートをする目的があります。よろしくお願いいたします。」


「では早速、始めてください。圭が話しやすいように、私は席を外しますね。」


大木教授は圭に目配せをしながら、引き留める隙も与えずに研究室を出ていった。


教授の話しも聞きたかったんだけど、仕方ないわね…。


研究室には広報担当者とかおる、圭の三人が残された。


「こちら、どうぞ」


圭は小さな冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶をデスクに置き、かおるに椅子をすすめた。


椅子に座るかおるを眺めながら、圭は目の前の編集者を観察した。


胸のあたりまである、キレイに手入れされたボリュームのある漆黒の髪。


意志の強そうなきりっとした眉、好奇心を隠そうともしない明るく輝く大きなアーモンド形の瞳。


厚めの唇。今までこういう唇の人と会ったことはないな。官能的な唇、というのだろうか…。失礼かもしれないけれど、どこか、性的な感じがする。


先ほどまでは明るい笑顔を振りまいていたのに、取材の準備をしている今は真剣な眼差しと少し冷徹な表情。


表情がずいぶん変化する人なんだなぁ。人の表情を分析して数値化したら、いろんなことに使えるだろうか。あ、もう誰かがそういう研究をしているか。


圭は、かおるの服装に視線を移す。


少し透ける生地の白い大きめのシャツの前を胸元まで開き、首元には金の華奢なネックレス。


シャツの裾を無造作に薄いグレーのパンツにしまい、柔らかい素材の紺のジャケットを肩に引っ掛けるように羽織っている。


ファッションに疎い圭でも、相馬という目の前の女性が流行とコンサバティブの両方を取り入れたハイセンスな女性だと分かる。


彼女が来るだけでこの質素な研究室が色づき、華やかになった。


男性が食事や飲み会の席に女性を呼びたがるのが少し分かる気がする。確かに、場が明るくなる。


この研究室が、ものごとの土壌、土だとすると、彼女はそこに咲いた一輪の花。


大木教授が出ていったのは、綺麗な女性の登場で照れてしまったのもあるのだろうな。


でも、フリーで編集者をやるって、相当大変だろう。自営業っていうことだもんな。


自分で仕事を取っていかないと生き残れないだろう。

年収はどれくらいなんだろう。


見たところ持ち物は全て高そうだし、まず今日のファッションは総額いくらくらいか、計算してみるか…。


「園田さん?体調、悪いですか?取材、始められますでしょうか?」


かおるの呼びかけに、圭は我に返った。


「あ、すみません。大丈夫です。始めましょう」


いつもの分析癖が出てしまった。不躾にじろじろと相馬さんのことを眺めていなかっただろうか。


気を悪くしなかったかな…。


圭は、普段あまり感じない居心地の悪い感情が湧き上がるのを感じた。

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