第29話

ルードルフが好きだと気が付いた瞬間、私は彼の前から逃げ出した。


「ディア!」


待ってと呼び止めるような声が聞こえてくる。しかし私の足が止まる事はなかった。


「なんで、どうして…」


好きになりたくなったのに。

好きになる事はないと思っていたのに。

私は好きになってはいけない人を好きになってしまった。

ルードルフを好きだという気持ちが抑えきれない。気が付いた瞬間からどんどん溢れ出してくる。

逃げ出したのは申し訳ないと思う。でも、彼の側にいたら言いたくない言葉まで言ってしまいそうだった。



どれくらい走ったのだろう。

辺りは見知らぬ場所だった。薄暗く人の姿も見当たらないそこは嫌な気配が立ち込めている。


「自ら一人になるとは貴女は馬鹿ですね」


後ろから聞こえてきたのは若い男性の声だった。

振り向きながら「誰!」と叫ぶとそこに立っていたのは見知らぬ男性ではなく。


「レッドモンド…」


乙女ゲームにおける最後の攻略者。

燻んだ灰色の髪に濁ったアメジストの瞳を持つ彼の特徴は物腰柔らかな口調。

そして暗殺者という危険な職業だ。


「僕の事を知っているのですか?」


レッドモンドは不思議そうに首を傾げるがすぐにどうでも良さそうな表情を見せた。


「僕を知っている事に関しては別に良いです。とりあえずついて来てもらえますか?」

「大人しくついて行くと思う?」


溢れ出ていた涙は驚きのあまり止まっていた。

赤く腫らした目で睨み付けると前に差し出されたのは小型のナイフ。にこりと微笑むレッドモンドは「ついて来てもらえますね?」と威圧感を放った。

逃げようとすれば殺すって事ね。


「分かったわ」

「良かったです」


レッドモンドに連れて来られたのは人気の少ない寂れた倉庫だった。

いかにも人を殺すに相応しそうなところだ。


「私を殺すつもり?」

「依頼ですからね、仕方ありません」


大きく目を見開き、そして顔を顰める。

こんな事になったのは自分の落ち度だ。

ルードルフから逃げ出さなければ、せめて護衛であるキーランドを連れて来れば良かったのに。

自分の気持ちを自覚して、動揺した結果こんな事態を招いて最悪だ。


「そんな顔をしないでください。僕だって本当はやりたくないんですよ」

「それなら今すぐ私を解放して」

「無理ですね。貴女を殺す事が僕への依頼ですから」


レッドモンドは一流の暗殺者だ。

誰が依頼したというのだろうか。


「しかし依頼者もそうですが貴女も不思議な方ですね」

「どういう意味よ」

「僕の本名を知っている事ですよ」


言われてから思い出した。ゲーム内でレッドモンドは最初偽名を名乗っていたのだ。ヒロインと距離を縮めてようやく本名を教えてくれるというものだった。

だからさっき驚いたのね。

レッドモンドの本名を初めから知っていて、私を殺す動機がある人間は一人しか思い当たらない。

おそらく彼女が犯人だ。


「依頼者はバルバラね」

「どうでしょうか」


一瞬驚いた表情を見せたレッドモンドは意味あり気な笑みを浮かべた。

その姿は肯定しているようにしか見えない。

消してやると言ってたけど本気で消すつもりなのね。


「学園で私を狙ったのも貴方?」

「あの時は貴女がどんな人物なのか調査する為に伺ったんです」


やっぱりレッドモンドだったのね。

道理で探しても捕まらないはずだ。


「しかし可笑しいですね」

「何が?」

「依頼者からは貴女は我儘で傲慢、人を苛め貶める事に喜びを見出し、男を誑かす事に愉悦を感じ、婚約者であるルードルフ殿下を権力で縛り付けていると聞いていたのですが……学園と先程の様子を見るに全然違いますね」


誰の話をしているのよ。

そう考えたところで結論は一つしかない。バルバラがよく知るゲームのクラウディアの話だ。


「見たところ貴女は真反対の人間。しかも婚約者には一途なご様子ですね。どういう事なのでしょうか」

「依頼者が私を嵌めようとしているのよ」

「そうですか。酷い依頼者ですね、殺しますか?」

「良いわよ。貴方、本当は人殺しが苦手じゃない」


ゲームのレッドモンドは人殺しを嫌がっていた。

それでも続けていたのはそうする事でしか生きていけなかったから。

それがヒロインと出会って変わっていくのだ。

最後は罪を償った後に結ばれるというもの。

彼が死罪にならなかったのは殺した相手が悪行を重ねた碌でなしばかりだったからだっけ。


「クラウディアさん、もう少し眠りましょうか」


逃げる暇もなく薬品を染み込ませたハンカチで口と鼻を覆われ意識が遠くなっていく。

死を覚悟しながら思い浮かべたのは大好きな婚約者の姿だった。


死ぬ前に気持ちを伝えれば良かった…。

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