愛をもって愛を知る

 先日、妻が死んだ。


 仕事一筋35年。典型的な仕事人間だった私は、朝から晩まで仕事に明け暮れ、休日も営業先との接待ゴルフに勤しんだ。そんな生活で家を開ける機会も多く、1人娘の子育ても妻に任せっきりだった。家事も育児も専業主婦の暇潰し程度に考えていたからだ。妻はきっとそんな私を恨んでいたに違いない。今は謝罪の念でいっぱいだ。


 そんなツケが回って来たのだろう。独り身になった今、家事が何一つこなせない男になってしまっていた。会社の業績は伸ばせても、ワイシャツのシワもろくに伸ばせない。簡単な料理も出来ず、昼飯はコンビニで済ませる様になった。栄養の偏りから最近では体の具合がほとほと悪い。


 そんな生活が3か月程続いた今日、遠方へ嫁いで行った娘の聡美が久々に実家へと帰省してきた。家の中で聡美と2人きりになった事など片手で数える程しか無く、億単位の商談にも動じない私が少し緊張してしまっている。


「最近元気にしてるの?」とゴミ屋敷と化した実家に文句一つも言わずに片付けをこなす聡美。「ぼちぼちだな」と新聞を広げて平静を装うが、やはり聡美と2人きりの空間は少しこそばゆい。


「私ね……昔お父さんの事嫌いだったんだ」


 突然の告白に動揺しながらも聞こえていないフリをして読んでもいない新聞の紙面をめくる。


「……」


「それをね、中学生位の時だったかな? お母さんに言ったの。そしたらお母さんに初めて本気で怒られてさ。『私の前でお父さんの悪口を言うのだけは許さない!』 って」


「……」


「お母さんね、毎日私にお父さんの事を楽しそうに話してたんだよ。『お父さんがお弁当残さず食べてくれたー』やら『お父さんの汗染みは努力の結晶だねー』なんてどうでもいい事まで」


「……」


「お父さんが飲み会帰りに持って帰ってきた冷め切ったタコ焼きを『お父さんからのプレゼントなんて勿体なくて食べれない』って神棚に1週間も飾ってた時は流石に引いたけどね」


「……」


「もう敵わないよね。私が尊敬するお母さんを虜にしたお父さんは何者なんだって。気付けば家にいないお父さんの事、お母さんから聞く惚気話のおかげでいっぱい知ってたの」


「……」


「そしたらさ、いつの間にか私もお父さんの事嫌いになれなくなったんだよね」


 私が妻にすべき事は謝罪では無く、どうやら感謝だった様だ。もし叶うなら「ありがとう」と言って、柄にも無いほどに抱き締めてやりたい。私は新聞で顔を覆うと涙腺をグッと抑えた。


 その後、2時間程忙しなく家事をこなした聡美は「とりあえずこんなもんかな」と早々に身支度をした。


「たまにはこうやって家事手伝いに来るから。お父さんはお母さんがいなくなったら何も出来ないでしょ?」


「ああ、その通りだな」


 私は玄関先で聡美を見送るとシワだらけのワイシャツの袖をまくり上げ、キッチンへと向かった。


 食材を手元に用意すると、リビングに置いてある妻の遺影に向かって大きな声で話しかけた。


「今夜はタコ焼きにするぞー。線香より高く湯気が立ち上がる位に熱熱のなー。味は保証しないぞー。後なー、いつまでも聡美に迷惑かける訳にはいかないから家事を出来る様になってからそっちに行く事にしたー。だからー、もう少しだけ天国で待っていてくれー。お弁当でも作ってさー。残さず食べるからさー」


目を閉じて想像した妻の顔は、少女の様に無邪気な笑顔で私は少し年甲斐もなく照れてしまった。

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