第8話 池のヌシの企て

 僕は元々、なまず池にいたわけではない。遠い昔、阿蘇の地の人々によって崇められていた土地神だった。

 ところがある時、外からやってきたタケイワタツなる人物が、田畑を作るために山を崩し、湖から水を引こうとした。

 よそ者に大地の姿を変えられてしまうのは、あまりにも面白くなかった。大きな鯰に変身した僕は水の流れをせき止めるように横たわり、無言の抵抗を行なった。でも結局、僕はタケイワタツによって討伐され、小さな鯰にその魂を封印されてしまった。


 それから、長い年月を経た。有為転変は世の習いというように、人の世は目まぐるしく移り変わるけれど、僕はずっと小さく非力な鯰の姿のまま、死ぬこともできずただいたずらに永らえた。栄枯盛衰、くるくると移りゆく人の世の有り様は、眺めていて心底面白い。

 そうしたある時のこと。僕は突然、人の手によって池からすくい上げられ、そのまま遠くに連れ去られた。東へ、東へと運ばれた僕は、とある広い池に投げ込まれた。その池こそ、後になまず池と呼ばれる場所だった。

 阿蘇を離れたことで、封印の力が弱まったのだろう……なまず池に放り込まれた僕は、どんどんその体を大きくしていった。あまりの大きさから、僕は「池のヌシ」などと呼ばれ、畏敬の念を向けられるに至った。この土地に元からいた土地神の蛇神は力が弱まっていたから、僕は禅譲を迫り、土地神の座を引き継いだ。


 そうして池で暮らすうちに、僕はこの池の……いや、池を取り巻くこの土地の行く末を予知した。

 「ナマズは地震を予知する」というけれど、それは正確じゃない。地震だけじゃなく、その土地に起こる災いの類を予知できるのだ。


 僕は遠からずこの地を大地震が襲うことを知った。その災害で、大勢の人々が犠牲になることも……それはあまりにも寝覚めが悪く、面白くなかった。この土地の人々を見捨てられないぐらいには、僕は彼らを面白い存在だと観じていた。

 だから、僕は自分の力を使って、地震の発生を五百年先に引き伸ばそうと考えた。元々自分に備わっていた力は徐々に取り戻しつつあったから、決して不可能なことじゃない。五百年も経てば、もうこの土地は寂れに寂れて、人の姿など消え去ってしまっているだろうから。

 でも……五百年引き伸ばすための力を使ってしまえば、暫くの間僕は休眠を余儀なくされ、土地神の座を空席にしてしまう。だから、僕の後継となるべき存在が必要だった。

 その折、とある少年――水橋皐が、不遜にも僕を釣り上げた。そのことをきっかけに、僕と彼にえにしが結ばれた。

 そして……その縁が引き寄せるように、彼は池に落ちて亡くなった。


 僕はこの機会を逃さなかった。僕は自らの目的のために、人の体を得る必要があった。だから、彼とを試みた。


「きみの願いを聞かせてほしい。僕が叶えてあげよう。その代わり……きみの体を僕に使わせてほしい」


 暗い水底で、僕は死んだ彼の魂に向けて語りかけた。これは取引だ。


「白石明里さん、彼女について頼みがある」


 それから少し間をおいて、彼は続けた。


「明里さんのことを守ってほしい」


 それが、この少年――皐の切なる願いであった。白石明里……どうやらこの少年は、その女の子に想いを寄せているようだ。

 僕は白石明里という少女の未来を占ってみた。彼女は将来、一人の男と出会って懇ろになり、夫婦めおととなる定めであった。しかしその男は結婚後、妻子を凄惨な暴力と監視によって支配し、耐えかねた明里は自分の子を守るために意を決して夫を刺し殺し、その手を血で染める……そのような未来が予知された。

 なるほど……どうやら彼女は陰惨な人生を歩むらしい。


「如何にも、その願い聞き届けた」


 取引は成立した。僕は水橋皐の姿を得て、池の外に出られるようになった。それと同時に、この時僕はもう一つ、別のことを考えた。


 ――彼の願いを、僕の企てに利用しよう。


 白石明里……彼女に僕の子を産ませて、その子に土地神の座を譲ればいい。

 

 そうして、僕はじっと待った。けれども彼の体が僕に馴染むまでには時間がかかり、池を出て歩けるようにはなかなかならなかった。それゆえ明里という少女の方から池に近づいてくれないと、えにしを結ぶことができない。けれどもその少女は一度も池に近寄ることなく、やがて他の土地へと移ってしまったようであった。


 数年後、とうとう白石明里が故郷へ戻ってきた。成熟して大人の肉体を備えた今の方が、ずっと神の嫁としては都合が良い。連れてきた裕也という男は……きっとこれから彼女に暴力を振るうことになる未来の夫だろう。どの道明里は神の嫁になるのだから、この男にはお引き取り願うしかない。

 そして彼女は僕と出会って一義をなした。全て、僕の思った通りに上手く行った。この行いによって、明里は腹に僕の子を宿した。後は産まれた子に土地神の座を引き継がせればよいだけだ。

 けれども、僕の目論見を快く思わない存在もあった。それは……僕に土地神の座を譲った、先代の土地神であった。

 先代の土地神は、災害によって死んだ人間の魂をにえとして力を取り戻し、再び土地神の座に返り咲こうという野心を持っているようだった。そのためには、地震を遅らせようという僕の企てをどうしても妨害しないといけない。

 そのために、先代の土地神は明里の命を狙った。僕は何とかそれを退けたけれど、すんでのところで明里も、彼女が孕んだ僕の子も失われるところだった。


 僕は明里と腹の子を、何としてでも守らなければならない。僕の企てのためにも、皐との約定やくじょうのためにも……

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