第7話 裕也再び

 こちらに向かってくる、背の高い男の人……あれは裕也だ。絶対にそうだ。てっきり実家に帰ったと思ったのに、どうしてこんなところを歩いているのだろう。

 

 ――もしかして、私のことを思い出して、戻ってきてくれたのかも……


 それが都合の良い解釈に過ぎないことは分かっている。でも、そうした希望にすがらざるをえないぐらい、私の精神は摩耗し困窮していたのだ。

 ……でも、そうだとして、お腹の子はどう説明すればいいのか。まさか「あなたの子よ」なんて言えるはずもない。やはり、人知れず堕ろすしかないのか……

 裕也は私の呼びかけに答えず、無言のままどんどん近づいてくる。何だか、様子がおかしい。


「裕也、どうしたの?」

「……お前、の子を孕んだろう」


 その声は、裕也のものではなかった。低くくぐもった、女の声だ。誰かが裕也の口を借りて話しているのだとしか思えない。

 恐怖を覚えた私が後ずさったその時、裕也は突然、両手で首をわし掴んできた。

 裕也の太い指が、私の首に食い込んでいる。ぎりぎりと物凄い力で首が絞められて、全く息ができない。何とか手を引き剝がそうとしたけれど、力の差がありすぎて全然手を離してくれない。

 このままじゃ死んじゃう……苦しみ喘ぐ私を、裕也は突然解放した。裕也は手を離して、素早く後方に飛びのいたのだ。

 そして次の瞬間、私の目の前で、一本の矢が空を切った。矢はそのままアスファルトの地面に落下した。神社の破魔矢のような矢だ。


「蛇め、どうしても僕の邪魔をしないと気が済まないか」


 聞き覚えるある声だ。声のする方を振り向くと、はたしてそこには、和弓を構えたカナメくんの姿があった。


「僕を狙わず明里を狙うとは、卑怯なやつだ」

「……なまずの分際で奸計を弄すか」

「奸計とは人聞きの悪い。きみこそ欲張りもいいところじゃないか」

「……どの道その女も、お前の道具なのだろう」

「どうとでも言うがいいさ。ただ……」


 カナメくんの顔は、いつになく憤怒の表情を浮かべていた。静かに怒りをたたえながら、和弓に矢をつがえている。


「彼女を……明里を傷つけるのなら許さない」


 カナメくんの手から、矢が放たれる。裕也は――裕也の姿をした何かは、目にもとまらぬ速さで矢を避け、そのままカナメくんに肉薄した。

 裕也の長い腕が、カナメくんの細い体に振り下ろされる。殴打されたカナメくんは、そのまま後方へのけ反り後ずさってしまった。


「ぐっ……!」


 その後も、裕也はカナメくんに弓を構える隙を与えず、腕力に任せて二発、三発と拳を食らわせた。殆ど一方的といっていいような甚振いたぶり様だ。


「お願いやめて!」


 聞く耳など持たれないことは分かっていても、私は叫ばずにいられなかった。二人はあまりにも体格が違いすぎる。真正面から殴り合っては、体の大きい方が有利だろう。人ならざる者同士の戦いに当てはまるかは分からないが、少なくとも目の前で繰り広げられる戦いはそうであった。これでは弱い者いじめにしか見えない。

 どうにか……どうにかしないと……こうなったら……


「えいやっ!」


 意を決した私は、裕也の背中に思い切り体当たりを仕掛けた。裕也はカナメくんの方に夢中で、私のことは完全に視界から外していた。その不意をついた形になった。

 裕也の体が一瞬、よろめいた。その隙を活かすかどうかは、全てカナメくんに委ねられている。

 カナメくんは矢をそのまま右手に握り、思い切り振り下ろして裕也の胸にぐさりと突き刺した。


「が……ああ……」


 うめき声をあげる裕也。やじりの刺さったその胸から、血は流れなかった。代わりに紫色の煙のようなものが傷口から噴出している。

 鏃が引き抜かれると、裕也はぐったりと地面に伏せった。紫色の煙は風に吹かれて霧散してしまった。


「ありがとう明里。さぁ、おいで。池で待ってるよ」


 その声だけを残して、いつの間にかカナメくんの姿は消えていた。


***


 私の地元は晴れていて、むんむんと蒸し暑かった。耕作放棄地に挟まれた道を歩いていると、夏草の青臭いにおいがしてくる。


「待っていたよ」


 なまず池のほとりに立つ、一人の少年の姿が見えた。白っぽい笠に黒いほうと袴、艶のある長い黒髪に、少女めいたところのある整った顔立ち……


「私、妊娠したの」


 私の口をついて出た最初の言葉がそれであった。


「知っているよ。僕ときみの子だろう」


 カナメくんは、静かに優しく微笑んだ。どうやら彼は私の妊娠を歓迎しているみたいだ。


「改めて、おめでとう。これできみは僕の花嫁だ」


 花嫁……どういうことだろう。それはあまりにも性急な言葉で、何より私の意志を全く考慮に入れていない。


「勝手に決めないでよ」

「きみはまだ自分のことを人だと思っているのかな?」


 瞬時に、カナメくんは切り返してきた。


「きみはもう人じゃない。人の世では生きられないんだ。それはきみ自身よく分かっているはずだよ」


 それを聞いて、私はかっとなった。その言い草はあんまりだ。けれども今の私には、突沸した怒りを発散する気力さえなかった。あまりにも、色々なことがありすぎて、怒りを表に出す気力さえ削がれてしまった。


「ねぇ……どうして私こんなことに巻き込まれちゃったの……教えてよ……全部知ってるんでしょ……?」

「そうだね……そろそろ全部話してしまおうか……」


 カナメくんの表情は、いつになく重々しかった。

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