第6話 不可逆的変化
あの後、私はスマホで裕也に電話をかけてみた。けれども裕也はというと、私の名前を聞いても、「どなたですか」の一点張りだった。本当に、彼の頭の中から私の記憶は消えてしまったのだ。
恋人を失ったのは、きっと不義理をなした天罰に違いない。きっと私は皐くんの面影を追いながら、一人で死んでゆくのだろう……アパートの窓から見えるビル群の光は、まるで私を嘲り笑うかのようにきらきら輝いていた。
そうして裕也を失った私の生活が、再び始まった。非現実的な出来事があまりにも続きすぎて、いざ日常へと引き戻されると、何だか足元がふわっとしていて覚束ないような、奇妙な感覚に襲われる。でも、それもきっと最初の数日だけだ。普段のように仕事をして、普通に生活をしていけばいいだけだ。
少なくともこの時は、そう思っていた。
けれども、異変はすぐに私の体に現れた。それは私がアパートに戻った次の日のことであった。
「それだけしか食べないの?」
お昼ご飯に持ってきたひときれの野菜サンドイッチをのぞき込みながら、隣のデスクの矢田さんが問いかけてきた。
「うん……ちょっと食欲なくてね」
「せっかくスタイルいいのに、そんなんじゃやせ細っちゃうよ」
実は昨晩も今朝も食欲が湧かず、朝食を抜いてきてしまった。昼になったら何か食べたくなるだろうと思ってサンドイッチを一つ持ってきたのだけれど、やはり食欲は湧いてこない。
結局その日は、何も口にしなかった。いや、この日だけではない。一日経っても、二日経っても、全く空腹感を覚えない。飲まず食わずであるから、当然排泄の必要もなかった。そして何より、こんな生活を続けているにも関わらず体型が少しも変わらないのだから、おかしいというより他はない。
一度、スーパーで買った唐揚げを無理矢理かじってみた。これ以上食べなければ、本当に死んでしまいそうだと思ったから……でも駄目だった。食べ物の味が、全くしなかった。
私は私の体が知らずのうちに作り替えられていたことが恐ろしかった。毎日、私は家に戻ると布団にくるまって震えるようになった。
こんなことになってしまったのは何でなんだろう……元凶たりえる犯人は一人しかいない。
私はカナメくんに――あの得体の知れない妖怪じみたやつに怒鳴り散らしてやりたかった。でも、私がアパートに戻ってから、彼は一度も姿を現していないのだから、それは叶いそうにない。以前に池のヌシを自称していたから、恐らく彼こそが地元の老人の語る「なまず池のヌシ」なのだろう。きっと土地神か何かで、あの場所から離れることはできないんだろうと思う。
そうして何も手を打てないまま、時間ばかりが過ぎていった。私は人の目を気にして無理矢理食べ物を口に押し込んだが、当然ながら苦痛でしかない。食事も排泄も必要ない生活に気楽な部分はあるのだが、そんな呑気な気分にはなれなかった。
それから、ひと月、そしてふた月が経った。私はさらにとんでもない出来事に気づいた。
「うそ……妊娠……?」
トイレの中で、私は検査薬を取り落としてしまった。月のものがずっと来なかったので、もしやと思って調べてみたのだが……私の懸念は見事に的中していた。
お腹の子の父親は誰なのか……裕也とはしっかり避妊をしていたからありえない。思い当たる出来事は、カナメくんとの一度限りの不義理だけであった。
***
妊娠が発覚した次の日、私は職場に電話をかけ、体調が悪い旨を伝えて会社を休んだ。全身の震えが止まらず、胃に何も入っていないにもかかわらず吐きそうになっているのだから、これは仮病ではない。
ここまで来ると、カナメくんへの怒りは湧かなかった。寧ろ自分の思考は、己の
カナメくんは人間ではない。とすれば、カナメくんによって孕まされた私は、人でないものの子を身籠っていることになる。まるで神話の世界みたいだ。ギリシャ神話にはヘラクレスを始め、神と人間の血を引く者が何人も登場するけれど、産まれてくる子もそのようになるのだろうか……
「ねぇ……どこかで見てるんでしょ……? 出てきてよ……あんたの子だよ……」
妊娠にせよ、それ以外のことにせよ、私の体の変化の原因は全てカナメくんによるものだ。とにもかくにも、彼に説明を求めなければならない。
――行こう、なまず池に……
思い立った私は、すぐに荷物をまとめた。特急を使えば、私のアパートから実家へは三時間と少しで着くだろう。
そうして翌朝、私はアパートを出て、分厚い雲に覆われた空の下を歩き出した。湿気た蒸し暑い空気が微風に乗って顔にまとわりついてくるが、私は少しも汗をかかなかった。
アパートの階段を降り、道路に出て暫くした後だった。人気のない路地に差し掛かった時、前方にひとつの人影を認めた。背の高い男の人のようで、咄嗟に私は身構えた。
けれども、その男の顔が街灯に照らされた時、私は思わず叫んでしまった。
「裕也!」
見間違うはずもない……裕也が、こっちに向かって歩いてきていた。
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