第5話 記憶消去

「ひっ……」


 尻餅をついて後ずさる裕也の目の前には、心霊映像に出てくる幽霊そのままの女が、じっと立ち尽くしていた。恐怖のあまり、裕也の股間はじんわり湿って熱くなった。恐怖のあまり失禁してしまったのである。他人には絶対に見られたくない醜態であった。

 少し目を離した隙に、明里は自分を置いてどこかに行ってしまった……本当に、まるで魔法にでもかかったかのように、明里の姿は消えてしまったのだ。そうして今、裕也はただ一人取り残されて、得体の知れない女と向かい合っている。


「……坂田裕也」


 目の前の女が、低くくぐもった声で名を呼んだ。おどろおどろしいその声に呼ばれて、裕也の大きな体はびくっと震えた。


「……お前に力を貸そう。だから、体を貸せ」


 全て聞く前に、裕也の意識はふっと途切れた。身長一メートル八十センチを超える長身男は、全身の力が抜けたように仰向けに倒れた。

 それから少し経った後、ゆらり、と起き上がった裕也は、そのままふらっと歩き出して家を抜け出し、夜の闇に繰り出したのであった。


***


 カナメくんは私の前に立ち塞がりながら、少し怒ったような顔をしている。


「言ったよね? 戻ったら命はないと……」

「でも裕也が!」

「あー……彼かぁ」


 不満顔をしていたカナメくんは一転、気まずそうに少し目をそらした。彼の細長く切れ込んだ目尻はため息が出るほどに美しくて、私は再びどきんとした。


 その時、突然襖が乱暴にばたんと開け放たれた。


「明里……」


 そこにいたのは裕也であった。どうやってここにたどり着いたのかは分からないが、向こうから来てくれたのだ。取り敢えず裕也の無事が確認できて、私はほっとした。

 けれども、私の安堵も、束の間のことにすぎなかった。


「そっちから来ちゃったかぁ……説明は後だ。下がってて」


 いつの間にか、カナメくんの手には武士が使うような和弓が携えられていた。そして、神社にある破魔矢のようなものを右手に持ち、それをつがえて引き絞った。


 ――まさか、それを裕也に向けて……


 私の悪い予感は的中した。弦がうなり、ひゅん、という音とともに矢が放たれた。矢が命中した裕也の体は、大きく後方に吹き飛んだ。裕也の体が地面に倒れるか倒れないかというところで、襖がひとりでに締まり、裕也を閉め出してしまった。


「大丈夫、あの男の命は取ってない」


 私が問い詰めようとしたのを予見して先回りするかのように、カナメくんはこちらを振り向いて言った。


「でも記憶は奪わせてもらった。きみに関する一切のことを、あの男は覚えていないはずさ」

「え……?」

「信じていないようだね。本当だよ。これで後顧の憂いは……」

「ふざけないでよ!」


 我慢がならなかった。私は怒りにまかせてカナメくんの胸倉を掴んでいた。


「せっかく裕也が心配してきてくれたっていうのに!」


 私はそのまま、少年の細い体を揺すった。裕也に――将来を誓い合った相手に危害を加えることだけは、どうしても許せない。しかもカナメくんの言うことが本当ならば、裕也と私はもう将来を誓い合った間柄ですらない。二人の関係が、一瞬のうちに破壊されてしまったのだ。

 カナメくんはきっと、ことにかこつけて裕也という恋敵を排除したのだろう。冗談じゃない。裕也は人間で、カナメくんは人ではない何かなのだ。たとえ一夜の過ちがあったにせよ、それは変えようがない。


「ねぇ、帰してよ! 私を帰して!」


 もうこんなところでカナメくんに閉じ込められているのは、我慢ならなかった。一刻も早くここから出たかったし、もうカナメくんの顔を見たくもなかった。

 体を揺すられながら、カナメくんはばつが悪そうな表情をした。その様子はいたずらがバレて叱られている時の皐くんそっくりだ。こんな状況でなかったなら、少し懐かしい気分に浸れたかも知れない。

 カナメくんは胸倉を掴む私の右手首に、そっと手を置いた。


「分かった。帰してあげる。でも忘れないでほしい。きみは……」


 最後の方を聞くことができないまま、私はふっと意識を失った。 


***


「あ、明里ちゃん起きた?」


 それから私は、どうやって帰ったのか分からない。気づけば、私は実家の居間のソファで寝ていたらしい。起きると、近くにいた母が微笑んでいた。


「そういえばさっきあんたの連れてきた裕也さん?っていう男の人が警察と一緒に来てねぇ、どうしてこんなところに来たか分からなくて、帰らなくちゃいけないけど財布がないから帰れないっていうのよ。それで結局うちにあった財布と荷物を引き渡したら、それをまとめてさっさと帰っちゃったのよね」

「え……裕也帰っちゃったの?」

「すごく変な様子だったわよ~。まるであんたのことなんかまるで忘れちゃったみたい。何かあった?」


 母の言葉を聞いて、私はとした。


「でも記憶は奪わせてもらった。きみに関する一切のことを、あの男は覚えていないはずさ」


 カナメくんの、あの甲高い少年声が脳裏に響く。本当に、彼は私たち二人の関係を破壊してしまったのだ。それも卑劣極まる手段で……


 翌日、私はとんぼ返りするかのように実家を後にし、裕也と同棲していたアパートの一室へと戻った。

 アパートに置いてあった彼の私物は、全て引き払われていた。きっと彼は、と一緒の部屋で過ごしていたらしいことを、さぞ不気味に思ったことだろう。田舎から出てきた私と違って彼の実家は都内にあるから、きっと裕也は実家に帰ったのだと思われる。


「本当にいなくなっちゃったんだ……」


 裕也のいなくなった部屋で、私は力なくへたり込んだ。

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