第4話 不義理

「きみはしばらくには戻れない。戻ったら、それこそ命はないだろうね」


 恐ろしいことを口走っているのにも関わらず、少年はにこにこ笑っている。あの髪の長い女のような怖さはないものの、この少年だって得体の知れない何かであることに変わりはない。


「……あの女は何なの?」

「僕の敵……かな」

「敵……?」

「神同士にも色々あるんだよ」


 そう言って、少年は伏せがちにした目を流した。長い睫毛が伏せった目に陰りを作っている様は、ため息が出るほどに美しい。本当に、皐くんは綺麗な顔立ちをした少年だったんだなぁ……なんていうことを、今更のように思わされた。


「じゃあ何で私が狙われなきゃいけないの……?」

「それはね……」


 少年は私の喉から顎にかけて、ほっそりした人差し指をつうっと這わせた。そのこそばゆさに、私は変な声を出してしまった。少年は相変わらず、にやにやと薄笑いを浮かべている。


「やつらにとってはきみも邪魔ものだからさ。でも大丈夫」


 そうして少年は床に白い笠を置くと、正面から抱きついてきた。落ち着きかけた私の心臓は、再びどきんと跳ねてしまった。少年の吐息が、私の耳にふうっとかかる。


「きみのことは、僕が守ろう」


 耳元でささやかれた。あの皐くんと、同じ声で……私はかあっと体が熱くなるのを感じた。目の前の少年は、皐くんのようで皐くんではない。そもそも人間ですらなさそうだ。なのにどうして、こんなにも、どきどきしてしまうのだろう……

 

「ふふっ……きみは実に分かりやすいね」


 両手で私の肩を掴みながら、少年は柔らかに微笑んでいる。けれどもその笑みの中には、どこか人を食ったような不遜なところがあって……なのにその振る舞いの一つ一つが、私の心をだんだんと高ぶらせていく。どちらかといえばいけ好かないタイプの相手であるはずなのに。

 私はこれまでずっと、亡くなった皐くんの幻影を追いかけてしまっていたのだろう……そのせいで、新たな恋を始めることができなかった。そんな私がようやく一歩を踏み出し、心に決めた相手が、他ならぬ裕也であった。気さくで人当たりがよく、頼りになる理想の男性だ。ちょっと心配性なところがあって、束縛がきつかったりはするけれど、それも私のことを思ってくれているからこそだと思う。

 なのに……私は他の男になびいてしまっている。不義理もいいところだ。


「それから、僕のことはカナメって呼んでくれる?」

「カナメ……くん……?」


 少年――カナメくんは、私の両肩に、その小さな両手を置いた。正面から見つめられて、私は気恥ずかしさから咄嗟に目をそらしてしまった。

 何だか……変な雰囲気だ。


「この体の持ち主がキミのことを欲しているんだ……」


 ああ、やめて。皐くんの目で、私をそんな風に見つめないでほしい……


 私の体が、ゆっくりと押される。床に仰向けになった私の上に、カナメくんが覆いかぶさってくる。皐くんにはなかった妖しい美しさを、カナメくんはまとっていた。

 皐くんは確かに美少年だったが、小学生男児らしい健康的なはつらつさを持っていた。そこがカナメくんと決定的に違うところだ。この少年の、どこかなまめかしい様を見ていると、やはり皐くんに似ているだけの別人であることがわかる。


 結局私は、彼に抗わなかった。たとえ中身が違っていたとしても、皐くんの姿をしたものを拒むことはできなかった。ここで彼を拒めば、それは皐くんを拒んでしまうような気がして……そんなことは、絶対にできなかった。

 私が不義理をしたことを知ったら、裕也はきっと怒るだろう。結婚を間近に控えた二人の関係は、完全に破壊されてしまう。それに、こんな年下の、小学生の姿をしたものが相手と知れば、きっと私は変態の烙印を押されるに違いない。

 それでも……私はカナメくんとのにのめり込んでいた。覆いかぶさる彼の体に腕を回し、手を這わせていると、道徳や打算といったありとあらゆる思考がまとまって溶けていき、やがて熱を持つ蒸気のように霧散していく。

 カナメくんの体は、全体的に細かった。腰も、四肢も、首も、細くすらりと伸びている。女の私でも、力を込めれば折ってしまいそうだ。記憶の中にいる皐くんは、はたしてこんなに細かっただろうか……けれども抱き合う内に、やはり皐くんの体もこうだったかも知れない、と思うようになった。

 

 どれほどの時間が経ったか分からない……事を終えた私の意識は、泥のように沈んでいった。


***


 目が覚めると、相変わらず私は例の和室にいた。布団はぐっしょり濡れており、が決して夢物語などではないことを語り顔である。私は脱ぎ散らかした服をいそいそと着直した。

 裕也……ごめんなさい。私は昔の男の子を忘れられなかった……


 ……そうだ、裕也――あの化け物がいる部屋に置いてきてしまった。


「ゆ、裕也が危ない!」


 私は立ち上がって駆け出そうとした。居ても立っても居られない。彼が危害を加えられることだけは、何としても避けなければならない。

 けれど……私の目の前に、カナメくんが立ち塞がった。

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