第3話 怪異

「明里!」


 実家に帰るや否や血相を変えて玄関に出てきたのは、裕也であった。彼の表情には、誰が見ても分かるような焦りが浮かんでいる。


「電話に出ないと思ったらスマホ置いて行ってるし……ほんとに心配したよ……」


 裕也の心配性はどうやら生来のものであるらしく、「明里が連れ去られでもしないように」という理由で私のスマホをGPS追跡アプリで見張っている。けれども先の私は、裕也に後を追われたくない一心で、スマホを置いて池に向かってしまった。そのことが裕也を如何に心配させたかは想像に難くない。

 それから、裕也の口数がめっきり減ってしまった。怒らせてしまったのかも知れない。軽挙妄動は慎もう……

 

 その晩は、私にとって数年ぶりの母の手料理であった。私は箸を進めながら、こっそり隣に座った裕也の横顔を見やった。裕也は先の慌てぶりが嘘のように落ち着いていて、にこやかに食事をしていた。

 その後、これまた数年ぶりに実家の布団で眠ることになった。私の部屋で、裕也と私が二つ布団を並べて眠っている。裕也の機嫌を悪くさせてしまったことで、二人の間はどこか気まずく、一言も言葉を交わさず床に就いてしまった。裕也は時折こうして機嫌を悪くすることがあるけれど、悪いのは迂闊な行動をとった私なのだから仕方ない。

 疲れてすやすや眠ってしまった裕也とは対照的に、私は全く寝つけず、天井をじいっと見上げながら、今日自分の身に起こったことを振り返っていた。改めて思い返すと、現実のこととは思えない。狐に化かされる、という状況は、まさにあのようなことを言うのだろう。

 今日あった出来事は、全て夢の中の出来事なのではないだろうか……そう思って私は自分の頬をつねってみたけれど、しっかりと痛みがあった。

 それにしても……あの皐くんにそっくりなお電波少年は何だったのだろうか。


 「誰、か……ヌシとか神様とか、そう呼ばれているよ」


 彼の透き通った声が、ついさっき聞いたかのように思い出される。ヌシ……そういえばなまず池には、ヌシと呼ばれる神だか妖怪だか分からないようなナマズが住んでいるらしい。それが姿を変えて現れた、ということなのだろうか……狐ではなくナマズに化かされるなんて、全く笑い話のようだ。

 ごろんと横になって、私は裕也に背を向けた。その時のことであった。


 しゃん……しゃん……


 遠くから、妙な音が聞こえる。外で誰かが鈴を鳴らしているのだろう。でも、こんな夜更けになぜ……

 昼間あんな目に遭った後とあって、私は怖くなった。皐の見た目をしたヌシ様だか何だかは無害そうだが、物の怪といえば本来人を怖がらせるものだ。害意を持つものが近づいてきている可能性だってある。私は布団の中に籠城を決め込み、ぶるぶると震えていた。


 ……早く、どっかに行って……


 私は音の主が遠ざかっていくのを必死に願った。けれども、私のそうした祈りとは反対に、鈴の音はどんどん大きくなっていく。音を鳴らす何者かが、こちらへと近づいてきている。あまりの恐ろしさに歯の根が合わず、全身に悪寒が走っている。


 しゃん……しゃん……


 頼りになるのは、裕也しかいない……そう思って裕也の方を振り向くと、その裕也と目が合った。


「明里も聞いたのか……?」

「裕也にも聞こえるの?」


 裕也は口をつぐんだまま、ぶんぶんと首を縦に振った。常夜灯がぼうっと浮かばせる裕也の顔は、焦りと怖さで歪んでいる。

 ふと、足元の方に、ぞわっと冷たい感覚が走った。私は思わず叫び声をあげそうになってしまった。心臓が大きく跳ね、全身の震えが止まらない。

 駄目だ、今すぐ逃げなきゃ……そう思って布団から跳ね起きた時、の姿を見てしまった。

 

 そこには、白い服を着た女がいた。腕はだらりと垂れ下がり、ぼさぼさの長い髪が、顔を覆い隠してしまっている。

 その、髪の間から、ぎょろりと覗く目……それと、私の目が合ってしまった。血走った、恐ろしい目であった。


 ――っ!


 私の恐怖は、この時最高潮に達した。すぐに逃げたかったけれど、恐怖で脚が動いてくれない。ただ歯だけががちがちと鳴っている。

 そんな私の手が、急にぐいっと強く引っ張られた。

 

「こっちだ」


 甲高い少年の声であった。手を引く者の姿を見ると、あの皐くんの姿をした少年であった。少年は私の手首を固く握り、そのまま部屋を飛び出し、玄関の扉を跳ね飛ばすように開けて家から連れ出した。

 私の目の前で、月明かりに照らされた長い黒髪が風になびいていた。青糸のように鈍く光るその髪は、女の私でも羨んでしまうほどに柔らかで美しい。笠から垂れる六本の黒い紐も、髪に合わせて揺れていた。

 あの女には、間違いなく害意がある――心臓をばくばく鳴らしながら、私は必死に駆けた。滝のように流れる汗が夜風に冷やされて、痛烈な寒さが私の身を苛む。私は殆ど引きずられるように、ただひたすら脚を動かしていた。

 

 気づくと、私はあの時と同じ、白い襖に囲まれた和室でへたり込んでいた。どうやってこの場所まで来たのか、自分でも分からない。けれども、取り敢えず助かったのだろう。


「お疲れかな」


 目の前には、あの少年がいた。しゃがみ込んだ少年は、ぱっちり開いた目で私の顔をのぞき込んできた。

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