Angel 01 キューヴ
ここ10年でアドナイ27区は様変わりした。少し前までは戦争で受けた傷跡が生々しく刻まれていたのだ。
大きくへこんだアスファルトに、崩落したビル群。住宅街には円形のクレーターに、路頭に迷う人間で溢れていた。
電柱や信号機、アンテナは存在せず、地下に埋め立てられているものや、そもそも要らなくなった物もある。街路樹は等間隔で植えられ管理されており、それらは自然であるのに自然ではなかった。
そんな街並みに目を向けることは無く、直人はただ真っすぐに目的地に向かって足を動かしていた。
歩くこと約10分、直人は細い裏路地に入り、小さな木製の建物の前に立った。木の外装は無機質なコンクリートで包まれたこの街において異彩を放っている。ドアの前には「OPEN」と書かれたプレートが下がっていた。
ここは知る人ぞ知る喫茶店だ。周りの高層ビルによって、ほとんど日光を遮られ、見る人によっては“穴場”とも“不気味”とも言えるだろう。少なくとも店を知らない人間が気楽に入店できる雰囲気ではない。
入店を知らせるベルの音と共に中に入ると、コーヒーの香りに、所々にあしらわれた植木が心を落ち着かせてくれる。店内は顔なじみの初老のマスターが1人だけ。ほかの客はいなかった。
カウンター内でカップを磨いているマスターに声をかける。
「マスター、今日は暑いな」
「えぇ、お疲れ様です。ドクターメアリーはいつものように」
「ああ、ありがとう」
マスターは手を止め、おもむろに後ろの棚にあるコーヒーカップを持ち上げる。すると、カウンターの床が横に動き、下に向かう階段が現れた。
「――たまには喫茶店としてお待ちしておりますよ」
「そうさせてもらうよ」
「ええ、いい豆が入っていますので是非」
直人はマスターに手を振り、ゆっくりと階段を下りていく。コツコツと自分の靴の音だけが反響していく。壁に付けられている青白い照明が足元を照らしてはいるが、少々薄暗い。
階段を降り切ると、喫茶店の下とは思えないような、機械的な作りになっていた。
柱の少ない内装は部屋を広く見せ、モノトーンを基調としたソファーやキッチンからは生活感があふれている。
ここは喫茶店のマスターの住居という訳ではない。直人の所属する組織——キューヴの
ここの主は……と見渡すと、昼前だというのにソファーで寝ていた。だらけた顔をしているデザインのアイマスクを付け、白衣も着たままだ。手入れされていないであろう暗い紫色の長髪は、ソファーから落ちそうになっている。
また面倒になってベットに行くことも無く意識を落としたのだろう。
「先生、起きてください。来ましたよ」
「ん……あぁ、君か。いやぁ〜すまない。ちょっと待っていてくれ」
コーマンは目を擦りながらキッチンに向かい、ポットで湯を沸かし始めた。
アイマスクで隠れていた目元には濃いクマが出来ていた。夜遅くまで起きていたのだろう。
「直人君も飲むかい? インスタントだが」
コーマンはインスタントコーヒーの入ったガラス瓶をこちらに向けてきた。
「大丈夫です。って言うか喫茶店の下でインスタントって何なんですか」
「何って、手軽だろう?」
「否定はしませんけど」
コーマンは猫柄のマグカップにコーヒーを注ぐと口を付け、一息つく。
「あー、そうだ。忘れないうちに……ほら、君の相棒の調整が終わったよ」
コーマンが指さす先には、机に乗った黒い物体があった。
「一昔前の遺物を修理するのも骨が折れるよ。私は研究者であって、武器屋でも修理屋でも無いんだがな」
「いつもすみません。申し訳ないとは思ってますよ」
「今度教えよう。そこまで難しいことはない。出先でメンテナンスする必要も出てくるだろう?」
「難しいからお願いしているんですよ。まぁ、今度お願いします」
直人は黒い物体、拳銃を取ると慣れた手つきでスーツ内側のホルダーにしまう。肩にしっかりとした重みを感じ、安心感を覚えた。
「まぁ、少尉さまのお願いとあっては断れないのも事実だ。銃弾も用意してあるから好きなだけ持っていくと良い」
「——少尉とは昔の話を。今はただの護衛です。それに、少尉は特段高い階級ではありません」
「ふふっ、そうだな。……それで、美月くんの様子はどうだい? まぁ、君の様子からして、何も問題は無さそうだがね」
直人はコーマンにファイルを渡す。コーマンは中から書類を出すと流し読みをする。これは一種のカルテである。言えば美月の赤裸々なデータが入っている。
「美月はいつも通りですよ――あと一応“セラ”も」
「そのようだね。美月くんはほぼ全てのmagicaの器になり得る母的存在。正真正銘の適性体だ。そうそう壊れることも無いとは思うが、天使を宿している人間のデータが少ないからね」
「そもそも美月に適性が無ければそもそもこんな事には……」
「私が言うのも何だが……過去を悔いても嘆いても仕方がない。今後、何か異変があればすぐに報告を頼むよ」
コーマンはファイルを机に置き、マグカップの中身を飲みほす。
「さて、定期連絡もここまでにして本題に入らせてもらうよ」
コーマンはデスクに向かい、パソコンを開く。そして、直人に3Dモデルを見せてきた。ゆっくりと回転しながら全貌を見せている。
「——これは船内図ですか?」
「ご名答。これは先日君に渡した乗船チケット、そのアルゴーの船内図だ。依頼主からの要望はシンプル。これに乗船するある人間を殺してほしいそうだ。まぁいつもの汚れ仕事だな」
「分かりました。外部からの受注は久しぶりですね」
突如として背後からコツコツと階段をおりる音がする。
「――それ、私も参加するわ」
振り返るとそこには、家に居るはずの美月の姿があった。
美月の立場上、直人が護衛していない時は、外出しないように言ってある。
自由の剥奪で心苦しくはあるが、護るためには仕方なかった。
「美月くん——いや、その話し方だとセラくんかな? こうして会うのは久しぶりだね」
「ええ、そうね。お久しぶり、コーマン先生」
セラは、我が物顔で近くのソファーに座る。そして勝手に、机の上に置いてあるチョコレート菓子を食べ始めた。
直人はその様子を見ると、不満げに口を開いた。
「セラ、お前いつの間に外に出たんだ」
「私が悪いんじゃないのよ? 喫茶店までは
直人がたしなめるように言うと、セラは悪びれる様子もなく笑っている。
「それで、キューヴの仕事なら私も付いていくけれど?」
「——ダメ、と言っても今みたいにどうせ付いてくるんだろ? ったく護衛対象が戦場に向かってどうすんだ?」
「まぁまぁ。事実セラくんは戦力として申し分ない。と、言うよりもうちのエースだ。加えてマスターも同行予定。そこまでの問題は無いだろう」
「それじゃあ、久しぶりにキューヴ全員の仕事って訳ね。楽しみだわ」
セラは足を投げ出し、プラプラさせている。無邪気な子どもの様だった。
「あんまり騒がしくするなよ。子どもの遠足じゃないんだ」
「えぇそうね。でも、うっかり火がついて船がぜーんぶ燃えちゃうかも。ふふっ」
「——お前、燃やすなよ?」
嫌な予感がしたため、念を押しておく。
「分かってるわよ。うっかり燃えちゃうだけよ。うっかり、ね」
セラは持っていたお菓子の包み紙を燃やして見せた。発火源はどこにも見当たらず、急に包み紙自体が燃えたようだ。
セラは灰を飛ばしながら微笑んでいる。
「だからな……」
「——はぁ……全くつれないんだから。いったいあの子はこんな男のどこが良いのかしらね。こんな真面目で気の狂った変人。もういいわ。あの子に変わってあげる。直人もそっちの方が嬉しいでしょ?」
セラは不機嫌そうに1度目を閉じ、すぐに開ける。すると申し訳なさそうな顔をした。
「——あの、その……」
「美月、あんま外うろつくなよ。危ないから」
「う、うん。ごめん……気を付ける」
セラだった先ほどとは打って変わり、とても素直だった。むしろ、威圧的な言葉を発してしまった自分が大人気ない。罪悪感が湧いて出てきた。
常に自由がない状況。長いこと耐えられるわけがない。
「まぁ最近外に出られていなかったのも事実だし、そのうちどっか出かけるか」
「うん、ありがとう」
美月は優しく微笑んだ。その笑みすら、どこかしら遠慮がちに見える。
「美月くん、いまから直人くんと仕事の話をするからもう少し待っていてくれ。それまで何か飲むかい?」
「あっ、じゃあいつも通りココアを」
「ああ、わかった」
美月が遠くでテレビを見ている間、直人とコーマンは引き続きパソコンの画面を見ていた。
「ターゲットはこの男だ。
歳は40代後半ほどだろうか……ウォータースの顔写真はどこか不満気だった。端的に言うならば、感じ悪いおっさんである。
「ウォータースにmagicaは?」
「情報によると持っていないようだが、既に自分の身体に打ち込んでいる可能性はある。充分に注意してくれ。それに聖席クラスの重役にはアドナイから護衛が1人付いている――その護衛が一番の脅威だろう。と言っても、その情報が一切ないのがね……」
コーマンは頭を書きながらため息をつく。
nagica研究の最上位たる聖席ともなると重要人物だ。国から護衛が付くのは当たり前。だが、それに加えて護衛には、聖席に対する国からの監視役という側面もある。
有能な研究者は放っておけないが野放しにもできない。
護衛に着いているものは、アドナイでも指折りの実力者だ。
「わかりました」
「——ウォータースはプライドが高く、私と違ってアドナイに完璧と言っていいほどの忠誠を誓っていたな……懐かしく感じるよ」
「……」
「私も元は聖席だ。かつての同僚を殺すのは気が引けるがね。裏切った身で言うのもあれだがな……」
コーマンは寂しげに笑った。そして
「彼から見たら私はいけ好かない。いや、憎むべき反逆者だろう。クソがつくほどの真面目な人間だったからね。その点、君とは気があったかも知れないな」
「先生はご存知ですか? 俺みたいなタイプの真面目と言うのは言葉通りの意味ではなく、極めて狭い世界の中の物です。なので、違う世界にいるウォータースとは水と油。同じ液体でも、混ざり合うことは無いですよ」
「随分と適当なことを言うじゃないか」
「バレました? まぁ俺にとって彼に情なんてものはない。それでこの仕事は十分でしょう」
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