第1章 アルゴー

Angel 0 —ハジマリ—

「magica実験レポート 検体番号198」


[magica]肉体の再生。


・四肢を切断後、即座に左腕の再生が開始。

 左腕の完全回復に要した時間は15分27秒。

 全身の完全回復に要した時間は58分08秒。


・左腕再生後、magica促進剤βを投与

 両足と右腕がわずか2秒ジャストで回復した。促進剤により能力が強化されたと思われる。促進剤投与約10分後死亡。促進剤αに比べ副作用が減少しているが、未だ実用化は現実的ではない。


magica抽出後は「        」にて運用予定である。


    ***


 福引の後、マンションに戻るとすでに灯りがついていた。


 このマンションも先生が用意した物件だ。直人は一般の物件は借りられない。仕方ないのだが、生活インフラも含めて全てを握られていると、命まで握られている気分になる。


 先生に逆らった瞬間に最低限度の生活は保証されず、生きていくことはより厳しいものになるだろう。

 ——福引、断らなくてよかった。


 リビングに続くドアを開けると、ひとりの少女がいた。暗めの茶髪は長く伸び、念入りに手入れされているからか光って見える。


 直人の同居人、古閑こが 美月みつきは椅子に体操座りをしながら、携帯を弄っていた。

 口には木の棒が咥えられている。先ほどまでアイスを食べていたようだ。


 美月は直人の帰宅に気づくと顔を上げ、はにかみながら、声をかけてきた。


「おかえり」

「おう、ただいま」


 にへらと笑う彼女の表情が、直人には心の支えになっていた。


 同棲どうせいといえば聞こえは良いが、実際のところ美月は直人のでしかない。護るために生活を共にしている面がほとんどである。


 直人はテーブルの上に先程の封筒を置く。美月は中に入っている乗船チケットをおもむろに取り出した。彼女も驚く様子は無く、淡々とチケットを眺めている。


 そして美月はしかめっ面を見せると、チケットをパタパタしだした。

 

「……え、何これ? 私へのプレゼント? めっちゃくちゃ嬉しいけど……」

「福引で当たったんだよ。いや、違うな。当たった訳じゃない」


 直人はスーツを脱ぎ、ハンガーにかける。肩が軽くなるのを確かめるように、首を回す。美月はチケットの入手経路を理解したのか、乾いた笑いをこぼした。


「あ~……なんだ。またいつものやつね。まぁですよね、直人さんはプレゼントとかくれないもんね〜」


 ――露骨な嫌味が耳に刺さる。気まずくなって無理やりにでも話を戻す。


「……あの人もいったい何が楽しくて変な演出するんだか。わざわざ付き合うこっちの身にもなってくれ」

「まぁコーマン先生だしね。いつもあんな感じゃない? 間違いなく凄い人だとは思うんだけど」


 美月は苦笑いを見せた。先生……そうは言っても教育者や医者では無い。れっきとした研究者である。


「天才にしろ変人にしろ、俺たち凡人には理解できないさ」

「それもそうだね。所詮私たちは庶民の出ですから」


 直人は会話をしながら流れるように、エプロンを着けキッチンに立つ。美月はチケットを仰ぎながらカウンター越しに直人の手元を覗いてきた。


「今日は何にするかな」


 昼間の殺伐とした光景から打って変わり、平和とも言える一コマだ。そう思っていたのもつかの間――


「ふ〜ん、豪華客船の割にチケットは普通なのね。これを手に入れたのも——私の“天使”としての影響かしら」


 突然のことだった。いつの間にか美月はに成り代わっていた。

 茶色かった髪は薄く鮮やかな赤に変色し、背中からは白く美しい羽を一対出している。体全体が心なしか神々しく赤く光って見える。


 アイツの表情は直人をあざけっているようだが、そうじゃない。不気味な笑い方が彼女の素なのだろう。いつもそうだ。


 ヒトの上位に属する知的生命体、“天使”。聖暦0年、突如空から飛来し世界の在り方を変えた存在。


 今から28年前、突如として6体の天使が降り立った。一体が一国の軍事力に匹敵するほどの天使により、昔から緊張状態にあった各国の関係性は音を立てて切れてしまった。世界大戦の勃発である。天使を獲得した国は生き残り、そうでない国は抵抗する間もなく壊滅した。


 そんな戦乱の中勝利した国はただ1つ。その名はアドナイという。


 そんな国一つ簡単に滅ぼす天使ばけものが、直人から目を離さずに、真っすぐ見つめている。未だに対峙するだけで心拍が上がっていく。


「……お前に幸運だ? そんな加護ないだろ。こんなもの幸運でも何でもない。いつも通り、先生からの遠回しな依頼だ。それともお前——わざと言っているのか?」


 意識せずともすごんでしまう。目の前で美月の姿をしている“何か”に向けて。


「ふふっ、どうかしらね」


 直人の槍のような言葉をかわしながら、鼻と鼻が触れそうなほどに顔を近づけてきた。


「——私は貴方をからかいたいだけの、幼気いたいけな少女よ。今はね」


 直人の露骨な悪意に対しても、こうしてアイツは笑って返してくる。返答することはせずアイツから目を背けるように、ずっと付いていたテレビに目をやった。


「もう、つれないわね。いい加減私にも構ってくれても良いんじゃない? 美月にはあんなに優しいのに」


 慎ましやかではあるが、確かに柔らかい感触が右腕に伝わってくる。アイツが腕にしがみついているのだ。


 更にあいつは少し可愛らしく頬を膨らませてみるが、それも直人の目には悪意にしか映らない。——美月の身体でそんな顔をするな、と。


 直人が無反応でいると、アイツはふんっとそっぽを向き、腕から身体を放した。


『いよいよ豪華客船、アルゴーが出航するまで1カ月となりました! 招待された方や、抽選にあたった方のみが乗船できるこの船にはプールや一流レストランは勿論の事……』


 テレビでは毎日のようにアルゴーを特集している。豪華客船でしか無いこの話題をここまで盛り上げるには理由があった。


 アルゴーはアドナイの持てる技術の結晶体。この船は世界統一を果たした証明のようなものだろう。


 ありとあらゆる土地は世界統一を果たしたアドナイにによって無機質なナンバリングをされた。例えば直人の生まれた場所は、今ではただの27区である。


 そう言っても終戦時の直人は3歳。ほとんど記憶に残っていない。ただ、27と聞くと、両親が酷く嫌な顔をしていたのが思い出される。その程度だ。


「へぇ! これがアルゴーか。結構大きいじゃん。これ本当に乗れるの? と言うか私が乗っても大丈夫かな」


 アイツ……美月は先ほどの天使とはうって変わり、とても親しみやすく柔らかい笑みを浮かべた。言葉通りの別人だ。


 羽の無い美月は、どこにでもいるごく平凡な少女だ。直人がよく知っている昔の頃のような女の子だ。


「アルゴーに乗る気なのか……残念だが留守番だろう」

「え……私乗れないの!? 2枚あるのに!?」「ペアチケットと言っても、もう片方はマスターとかだろ。それに、そもそも美月だとは役不足だ。アドナイがまともな国だったら、要人として招待されても良い側の人間なんだぞ」

「“人間”……ね。今でもそう呼んでくれるのは直人だけになっちゃった」


 美月は悲しそうに笑った。会話の流れとはいえ、彼女にこの表情をさせてしまったのが悔やまれる。


「——美月はこれからも人間だ。美月が人間で居れるように俺はお前を護る」

「それが直人の仕事だから?」

「いや、それもあるが、まぁ——その……なんだ。ほら食器出してくれ」

「あっ、はぐらかした」

「——」

「はぐらかしたよね? ね?」

「うるさい。晩飯抜きにするぞ」


 直人はこっぱずかしい気持ちをかき消すように、髪を乱した。


「ごめん冗談だって! それだけは〜」


 美月は拝むように両手を合わせ、頭を下げた。

 まぁ明日は先生の所に行く必要がある。このチケットについていろいろと聞かなければならない。それならさっさと飯を食べて風呂に入って寝る、これが先決だ。


「はぁ……で、晩飯何食べたい?」

「ロールキャベツ!」

(また手間のかかるものを。トマトあったかな……)

「今の直人の顔と同じで赤いし!」


 護衛対象といえども、こいつは1回しめた方が良いかもしれない。


「美月は朝も抜きだ」



   ***


 同時刻、アドナイ61地区。


 薄暗く全面がコンクリートで囲われた無機質な部屋の中は、ただならぬ緊張感で包まれていた。この空間に居るだけで息が止まりそうになる。


 静寂の中、古びた通気口の異音だけが空気を振動させていた。


 中央の机には地図が置かれ、所々にピンが差してあった。大規模な戦争により幾度となく作り変えられた世界地図は、所々異様なクレーターが描かれている。


 机を囲むように数人が険しい表情を見せている。誰一人として口を開くものはいない。何か音を発しようものなら、鋭い眼光が飛んできそうだ。


 永遠のように思えた沈黙は、重厚なドアが開く音で終わった。1人の青年がファイルと共に入室する。青年の顔は酷く険しい物だった。


「エーミール、ギッシュは!?」


 机を囲っていたうちの1人、その中心人物・リーダーと思わしき男が叫ぶ。


「だめっすね、全く 応答がないです。サツキちゃんも切り込みさんも多分……」

「——っ!!!!!!!」


 リーダーはいきなり机を力任せに叩きつけた。握りしめられた手からは血が滲み、地図を赤に染めていく。

 周りはあっけに取られることも無く、下を向いたまま何も話さない。


「何人だよ! どれだけ殺して、バラして、玩具おもちゃにすれば気が済むんだよ……」


 声には怒りが籠り、次第に嘔吐えずきを見せていた。

 リーダーの頭の中には、今まで殺されてきた仲間の様子が鮮明に映し出される。ある仲間はアサルトライフルで穴をあけられながら原型を留めることもないほどに、身体をいじられた。また、ある仲間は頭に不気味な装置を付けられ、発狂しながら己を失っていった。


 magicaの研究による代償。世界の裏ではこのような犠牲が生まれ、表ではアルゴーのような繫栄が進む。


 人は気付ていても見て見ぬふりをする。本当は真実が、現実が分かっているのに、知っているのに。目には見えない、逆らえない。アドナイとはそういう国だ。

 ――逆らったものに未来はない。恐怖政治そのものだ。


「もう……偽りは要らねぇ。俺がぶっ壊す」

「そのために、ギッシュさんたちが色々情報を探り当ててくれました」


 エーミールと呼ばれた男がファイルのうち1つををリーダーに渡す。その中身は仲間が命懸けで取ってきた情報の一端。


 文字列は自分たちの居場所アジトが既にバレている事を告げていた。ここが襲撃されるのも時間の問題だろう。


「あぁ。天使だろうがアドナイだろがmagicaだろうが知ったこっちゃねぇ! さぁ、幕開けだクソ野郎!」


 リーダーたちは踵を返し、部屋を後にする。

 ——数分後、人里離れた山が突如として爆発し消し飛んだ。どうやらまた地図を書き換えなければならないらしい。ニュースでは戦争時の不発弾処理として報じられたそうだ。


 彼らはアドナイに対抗する小規模集団の1つ。——目指すはアドナイの崩壊だ。

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