第7話 ドラマチック
懐かしい、場面だった。
仏頂面で目付きの悪い少年と、勝気で快活な少女のいる色褪せた風景。
高校生になった少年は、自分の実力を充分に理解していて、その上で無難な道を選んでいた。
擦れてる、というよりは、枯れているようなそんな雰囲気。
でも、中途半端な自意識から、誰の側にも寄らずに斜に構えていた少年。
それは、江戸時代の長屋みたいな、ぼろい木造の部室棟の、墨で書かれた陸上部の看板の横で。締め切りの最終日に入部届けを持っていった少年と、部活の見学会では全く見かけなかった少年に興味を持った少女が話していた。
いや、話していた、と言うのは正しい表現じゃないな。
少年の方は、かなり引き気味で、マシンガンみたいに喋る少女に辟易した顔をしていた。
だけど、少女の方は、少年の都合なんてお構い無しに質問を続けつつ、返事が出る前に勝手な解釈をして話し続けていた。
少女にとっては、面白く無さそうな顔をしつつも会話を打ち切らずに、でも、相槌のひとつさえ打たずに聞いている少年が珍しかったのかもしれない。
でも、そんな二人だからこそ、友人になり、最終的に惹かれあったのだと思う。
事実、その日以外の写真でも……県の記録会、地方予選、マラソン大会、殆んどの場面で、昔の不機嫌な顔をしていた俺と今と同じように勝気な笑顔を浮かべていた彩華は、同じ写真に納まっていた。
チープな装飾のアルバムを閉じ、俯いていた顔を上げ、コキ、と、首を鳴らす。
なんとなく、昨日は昔の事を喋り続けたから、懐かしくなってアルバムを引っ張り出して眺めていたんだけど……。
朝は過ぎてしまいそうなのに、彩華が起きて来ないからとても困っている。
有給を使っているので時間の余裕はたっぷりあるけど、何も出来ない状況というのは、中々に苦痛だ。彩華が寝ているのは俺の部屋だから、着替えも取りに行けやしない。
しかも、普段の利便性の向上のため、寝室にPCも本も何もかもを置いていたからな。
ダイニングにあるものといえば、ずっと置きっぱなしだったアルバムの類とか、食料品ぐらいだ。
アルバムはもう観終えてしまった。食欲は……無い訳じゃないけど、それほど腹が減ったとも思えないし、彩華が起きる前にひとりで食っても味気ないだろうし。
流石に、そろそろ起こしても良いかな? と、考え始めた頃、ようやく聞こえてきた足音。
ついつい苦笑いを浮かべてしまっていると、ドアがゆっくりと開いた。
ドアの隙間から、顔だけを覗かせた彩華。その彩華の顔には、これだけ寝ても寝不足なのか、薄く隈が見えた。
「朝ごはん、すぐに食べられる?」
無言のまま首を横に振った彩華。
それもそうか。結局、昨日のワインも三分の二は彩華が飲んだんだし。そもそも、夜に会って酒を飲んだ翌日の彩華は、大体の場合において二日酔いでグロッキーなんだし、今日が例外のはずもないか……。
今後は、程々で強制終了させるか、飲むタイミングを週末だけにするとか、そういった対策が必要かもしれない。
「紅茶とコーヒーなら?」
眠気覚ましの意味も込みで、水分だけでも取らせようと思って訊いてみる。
二日酔いの原因は糖分の不足と軽度の脱水症状の複合作用……だったと思うし。
「紅茶」
彩華は迷わずに答えた。
「ウバでいい? 尤も、ティーパックだけど」
「なんでも」
前にコーヒーショップで話した内容を思い起こさせる会話に、ふふっと笑い、立ち上がってキッチンへと向かう。
彩華も身支度をする必要があると思ったのか、洗面所の方へと歩いていった。
電気ケトルのコンセントをいれ、カップを二つ準備する。
彩華が来ると分かってから、新調したカップだ。
買うときは特に意識もせずに、見栄えを重視して二つセットのカップを買ったんだけど、いざ、こうして使うとなると――。狙ってる、という表現は、なんだか語弊があるか……。でも、そういったニュアンスの、こう……なんか、上手く言えないこそばゆさを感じてしまう。
そして、そんな風に悶えてしまっていることに、気付いて欲しくないような、欲しいような、微妙な気持ちになる。
中々に、自分自身の心の中は、理解しているようで出来ないものらしい。
頭ではらしくないと思いつつも、こんな風に悩んでいるのも、どこか楽しかった。
紅茶を――非常に簡単にだけど――、淹れて、ダイニングで待つこと十分。渋くなりすぎないように五分で上げたティーパックを棄てて来た所で、ようやく彩華がダイニングに現れた。
「着替え、持ってきてたんだ?」
昨日とは違うグレーのセーターを着ている彩華。下はデニムのままだけど、あの鞄に着替えが入っているとは思っていなかったので、疑問に思った瞬間に訊いてしまった。
「……悪いかよ」
照れのある表情で、そっぽ向いて拗ねたように言った彩華。
その意味を一拍考え――。
「悪いわけないだろ? ここは、彩華の彼氏の家なんだし」
さっきの彩華と同じような顔で俺は補足した。
ふふん、と、満足そうな顔をした彩華。
でも、お互いにそれ以上を言えなくて――。
間を持たせようとしたのか、彩華が椅子に座って、紅茶を一口飲んだ。
彩華の動作をなぞる様にして、俺も一口紅茶を飲む。
時計を見れば、十一時。外は、今日は晴れているのか、窓からは冬の穏やかな陽が入っている。
昼が近付きつつあった。
紅茶を間に挟んだ会話は、ぽつぽつとしか続かない。
なんだか、照れ臭くて。
改めて、恋人になれたんだな、と思うと、感慨深いような……我ながら、昔の恋をよくここまで引き摺ったものだと呆れてしまうような、そんな、不思議な感覚がする。
まだ、やっぱり、ちょっと実感がないからそう思うのかも。
ゆっくりと、慣らしていくしかないんだろう。
もっとも、慣れたら慣れたで、初々しい今を懐かしく思うのかもしれないけど……。
「……もったいなかったなぁ」
紅茶を飲み干し、軽い音を立ててカップを降ろした彩華が、呟くように言った。
彩華がもったいなく思っている対象は――、いくつか思い浮かんだけど、表情や声だけじゃ特定出来なくて、一番使いやすい話題で探りを入れてみる。
「プレゼント、昨日のうちに交換するタイミング逃したことが?」
「そうじゃなくて! いや、まあ、それも勿体無いとは思ってるけど……アタシが言いたいのは、だなぁ」
昨日の事を思い出したのか、一瞬で顔を赤くして怒鳴った彩華だったけど、……言われて思い出したのか――そして、それを勿体無いと思っているのも事実なのか――、微妙に俺の意見を肯定しつつ、真面目な話なんだから、とでも言うように、澄ました顔で誤魔化した。
「……もっと早くに、ヒカルに連絡を取ればよかった。学生時代に、もうちょっと……その、上手く、和解、とか、出来てたら、もっと早くに――」
口を尖らせ、分かるだろ? と、小首を傾げて俺を見た彩華。
確かに、分からなくもない感覚だけど……。
「俺は、今だから、こうして付き合えたんだと思うな」
きっかけを待っていた。そういう部分はあったのかもしれないけど、時間が必要だったという部分もあると思う。
もう少し早かったら、都合の言い事を言ってるよ、とか、自分の事を棚に上げて思っていたかもしれない。
それに――。
「昔の俺達だったら、今のこの時間みたいなゆったりした空気の中には居れなかったような気がする」
学生だった頃は、自分の事だけで精一杯だった気がする。
今ならはっきり見えていることが、当時は見えなくて……。手探りで失敗ばかりして、でも、俺も彩華も、そういうのを上手く保留にしておくことが下手で、気持ちは、すれ違い続きで。
もし、あの頃、何かの偶然で――例えば、高校時代の秋の勝負の勝敗が奇跡的に逆転していたとか――上手く付き合えることになっていたとしても、今日まで続かずに、別れてしまっていたような気がする。
付き合って別れた後だったら、きっと、お互いの傷がもっと浅くて、意外とあっさりと次の恋に進めた気がする。
そうだな、その場合は、ちょっとセンチな思い出止まり、かな?
きっと、この前の同窓会の時にでも、昔はそうだったよね、とか話して、それでお仕舞い。
今みたいに、こんなに強く、心は結びつかなかったように思う。
「それは、否定しない」
ちょっと拗ねた顔のままで、彩華は同意した。
けれど、理解は出来ても納得は出来ないのか、口を尖らせたままで付け加える彩華。
「でも、そういう変化も楽しみたかったなぁ……って」
可愛らしい甘えた声に、自然と笑みがこぼれる。
「中々に我侭なお姫様だな」
「そうだよ。知らなかったの?」
調子に乗って、期待した目を向ける彩華。
「もちろん、知ってたさ」
空になった彩華のカップをテーブル越しに身を乗り出して回収し――、そのついでに、こつん、と、額と額をぶつける。
少し……くすぐったい気持ちがした。
紅茶のおかわりは? と、視線で尋ねれば、彩華は微かに頬を染めつつ小さく首を横に振った。
二日酔いの寝起きなんだから、流石に腹も落ち着かないか……。
まあ、でも、もう少ししたら、昨日のシチューを温めなおしてブランチ――というよりは、もう昼食と言った方が良いか――に、しようと思う。
食わないままで放っておいても、二日酔いは良くならないんだし。
新品のカップに紅茶の染みが付かないように、水に漬けておこうと思い、ダイニングを出ようとすると。
「ヒカル」
不意に背後から呼び止められた。
「ん?」
カップを持ったまま肩越しに振り返れば、彩華が、照れているけどそれを誤魔化さずにはにかんだ顔で、真っ直ぐに告げた。
「これからもよろしくね」
意表をつくタイミングに、一瞬、目を丸くしてしまうけど――。
同じようにはにかんだ後、俺は深々とお辞儀して答えた。
「こちらこそ」
現実はフィクションじゃない。
だから、ドラマチックな展開というのも中々難しいらしい。
でも、もう、そんなものは必要ないのかもしれない。
今日も明日も当たり前に一緒にいられるなら、劇的な何かなんて必要ない。
奇跡なんて、再び出会えたということだけで充分だ。
どうかこれからの日々が、穏やかに、ゆっくり、進みますように。
柄にも無く、つい、そんな事を祈ってしまう、クリスマス開けの十二時。
当たり前に幸せな時間は、ここにあった。
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