第6話 クリスマス
エアコンの暖房のスイッチを入れると同時に、コートを脱いで木製のポールハンガーに掛ける。
今年は残暑が長引いた割には、十月の半ば過ぎには一気に冷え込み、秋がとても短かったように思う。今日も外は雪がうっすらと舞っていた。
いや……雪が降るのも当然か。もう、十二月……それも二十五日なんだから。
少しずつ暖まっていく部屋の風に寒さで固まった頬を溶かしてから振り返り、感慨深く俺は呟いた。
「ついに、ここまで来られてしまったか……」
他人の家が珍しいというよりは、俺の私物に興味があるのか、しげしげと本棚や机を見ていた彩華は、俺の声に弾かれたように身を正し――、だけど、俺が呟いた内容を理解すると同時にくだけた顔になって迫ってきた。
「あ。なんだよ、その言い草は」
鼻がぶつかるような距離で、微かに上目遣いに俺を見上げた彩華。
瞳の色は少し薄めだけどキリッとした目に、微かなそばかす。今日という日のためか、いつもとは少し違っている髪型。
そういえば、再会した時から彩華は髪を切っていない。アメリカンショートヘアだった髪も、肩より少し上のウルフカットになっていた。その伸びた髪が、一緒に過ごした
見惚れているのを誤魔化すように、わざと意地悪い顔をした俺。
「前に男は狼だとか言ってなかったっけ?」
だけど、俺以上に底意地の悪い悪女の顔で迎え撃たれてしまう。
「そうだよ。でも、アタシの狼は躾が行き届き過ぎてるみたいだから、少しだけ隙を見せてあげてるの。ほ~ら、おいでおいで、赤ずきんちゃんはこっちだぞ~」
まったく、口の減らない……。
「でも、良かったのか? 今日、こんなとこで過ごしちゃって」
「うん?」
あんまり分かっていない顔で彩華が頷いたので、俺はポールハンガーから彩華の方へと向き直り、未だに少し引き摺っていることを隠さない顔ではっきりと言った。
「それなりのレストランを予約できる程度の甲斐性はあるつもりだぞ?」
そう、本当なら、十一月の内にホテルのレストランを予約するつもりでいた。彩華から、そういう格式ばった店には行きたくない、と、言われるまで。それで、一緒に走る朝の時間とか休日とかに、評判だけどフランクな感じの店を探して提案してみたりもしたんだけど、彩華はいつも『ちょっと違う』と返事するだけ。時間的に後がなくなってから、彩華が俺の家が良いと言い出して――。最終的には、押し切られる形でそう決まってしまった。
本音を言えば、クリスマスに料理とか皿洗いとか、そうした細々した家事をやりたくはなかったんだけどなぁ……。
一緒に過ごす人はいるものの、ロマンチックの当てが少し外れたクリスマスに、もう一歩の所で完全に祝いきれない気分で彩華を見る。
「ん~……んふふ」
俺の気持ちを知ってか知らずか、少しだけ考えた彩華は、何かを思い出したのか、ふにゃりと笑った。
「?」
「なーんか、難しいんだなって、思ってね」
難しい、と、言いながらも、どこか弾んだ調子で言った彩華。
何が難しいのか分からない俺は、小首を傾げたままで彩華を見る。
分かっていない顔の俺を、少し挑発的な上目遣いで見上げた彩華は――。
「最初にテルが、ちょっと張った意地が、こんなにタイミングを逃させてるんだぞ?」
ちょっと、驚いた。
いや、分かってはいたことだけど、それを真正面から面詰されて。
言い訳を――。
「最初にはっきりさせときたいんだ。食事の前に、ね」
――口にする前に、悪戯っぽく笑った彩華に機先を制される。
出なかった言葉が腹の中でぐるぐる回っていた。
尤も、口にしてもしなくても、特に何かが変わる台詞なんかじゃなかったけどさ。
留まっているのと真逆の言葉を探す俺を急かすように、彩華は言葉を継いだ。
「泊まっていけないのにワイン開けるのも、気が引けるしー」
伸ばした語尾と、意味ありげな視線。
俺は、彩華の言いたいことが分からないほど鈍感でもなかった。
一緒に過ごす時間の雰囲気からも、並んで歩く距離からも、メールの文面からも、彩華の好意は伝わってきていたし、俺も同じように好意を隠さなくなっていた。休日は大体一緒にいるし、平日も……毎日ではないけど、朝、一緒に走っている。触れ合うことは、手を繋ぐくらいなら割と自然に思えるし、時々は冗談交じりではあるけど、ハグも……。
今の俺達は、概ね、付き合っている状況と変わらない。
ただ、告白だけがまだだった。
断る気があるなら、今日を一緒に過ごしはしないだろう。だから、最後に明文化するだけっていうか、事実を確認するだけの事なんだけど……。
「ひとつだけ、確認させてもらってもいい?」
いいよ、とでも言うかのようにコクリと頷いた彩華。
「再会してすぐに……その、好意を分かるように伝えてきただろ?」
再び、さっきと同じように彩華は頷き――。俺は少しだけ、迷ったけど……今日以外にこれを聞く機会は無いと判断して、意を決して問い掛けた。
「無理、してなかったか?」
彩華が、一度、瞬きをした。
そして、物凄くニュートラルな顔でまじまじと俺を見た。
気まずい沈黙と、長すぎる間が空き――。
唐突に彩華が吹き出した。
俺は真剣に訊いているというのに、はははは、と、身を捩って笑いながら、目尻にうっすらと涙を浮べてニヤケ顔のままで話し始める彩華。
「ヒカル、昔からなにもかわってないんだもん」
ん? と、訊いたのとずれてる答えを不思議に思ったけど、口を挟まずに話の行方を見守る。
彩華は細くした目で俺を上目遣いに見上げ、姉御肌って言うかまるっきり弟を見る目で告げた。
「コイツには、アタシがいなきゃダメだな~って」
「そういう面からの好き、か」
仏頂面でそっぽを向く俺。
まさか、人よりも一歩考えが足りてない彩華にそんな事を思われているとは思えなかった。
それに、俺自身は昨今の風潮に反し、ナサケナイ男に自分がなるのを受け入れられるタイプでもない。プライドって言うと、ちょっと鼻につく感じだけど、必要充分の自尊心って言うか、そういうのは持ち続けていたい。
「でも、アタシにもヒカルが必要なんだよ」
ククッと、まだどこか笑みを残した顔で彩華が続ける。
どこが、と、メンタル防御力が低下した視線で迎え撃てば、今度はちょっとぐらいは真面目な顔をした彩華が勝気な笑みで勢い良く言った。
「突っ走る彼女と、上手いブレーキ役の彼氏でもいいじゃん!」
バランスの問題なんだろうか? もう少し、こう、大人なんだから気の聞いた台詞のひとつ出して欲しい、というのは俺の我侭か?
「あと……ヒカルは、アタシの気持ちを分かるのが上手いからね」
え? それは……どうなんだろう? むしろ、分かるのが下手だからこんなに時間が掛かったような気がするんだけど。
さっきから続く心の中の疑問は、口には出さなかったけど顔には出ていたのか、彩華は俺の顔を見て少し悩んでから「やっぱり違うかも」なんて言い出した。
だから、なぁ! まったく……、もう!
憤慨する俺を楽しそうに見てから、再び彩華が口を開く。
「強烈な何かがある人間が須らく魅力的ってわけじゃないよ……もっとも、ヒカルはヒカルで強烈なキャラしてると思うけど?」
強烈なキャラ、と言われても、自覚がなくて、意味深な視線で促されても分からない。
小首を傾げたままでいると、俺の耳に口を寄せ、息を吹きかけるように囁いてきた。
「生真面目過ぎ」
それは、つまらないってことを言い換えてるだけような気がする。追求する棘のある視線を向ければ、分かっていてやっているのか、余裕たっぷりの笑みに迎え撃たれた。
「嫌な意味じゃなくて。……んー、なんていうかな、ヒカルなら絶対にアタシを捨てないって言うか、裏切らないって言うか、いつまでもアタシだけを見てくれる気がしたんだよ。何があっても、いつまでも……」
最後、少ししんみりした彩華に、上手く答えられなかった。あるがとうっていうのも、なんか違う気がするし、いやしかし、今この流れで告白というのも、唐突のような。
俺が迷っているのに気付いたのか、彩華がもういつも通りの押しの強い顔でガーッと捲くし立ててきた。
「あー、もう、ウダウダ考えるな! アタシが何に変えてもヒカルが欲しいんだから、それ以上の理由を探すな! ヒカルほど頭良くないんだよ、アタシは!」
まあ、らしくていいけどさ。
達観した顔になった俺に、今度は据わった目で顔を寄せた彩華。
「で?」
「『で?』」
なにが『で?』なのか分からず、オウム返しに訊き返した俺。
「ヒカルの所有権はアタシのモノなのか?」
睨むように目を細め、腰を少し引き傾けた上体で、下から覗き込むようにして俺を見た彩華。
彩華の手を取って、自分の頬にくっつける。
「差し上げます」
「手抜きすな!」
むに、と、そのまま親指と人差し指で頬を抓られ……照れ笑いで俺はようやく、その一言を口にした。
「愛してる」
うん、と、頷いた彩華は、照れ隠しに怒っているような、そんなかおをして……無茶振りをしてきた。
「ちょっと子供っぽく」
ははっと短く笑ってから、俺はクリスマスなのでご期待に沿って――。
「だーいすき」
「似合わねー」
ペチペチと彩華が俺の頬を叩いて手を離した。
意外と……。
あっさりと告白が済んでしまったな、なんて少しだけ拍子抜けした感覚でクリスマスを祝うための準備に取り掛かろうとして――、でも、ちょっとの未練からか肩越しに綾香を盗み見る。
彩華は、俺に背中を向けたまま……ガッツポーズ? 脇を締め、両手をグッと握ってボクサーみたいなポーズをして、かすかにのぞく横顔は、口を『~』みたいな感じにしてにやけていた。
うわ。
なんか、予想外に可愛かった。
顔が熱くなるのを誤魔化すように、あと、彩華にも現実に戻ってきてもらうためにも俺はわざと足音を立てて廊下へと出る。
「ケーキ以外はどうするの?」
質問には、助け舟の意味合いも合ったのかもしれないけど、待ち合わせの商店街で、それだけしか買わなかったことに対する疑問の比重も大きいように見える。
問い掛ける彩華の顔に、ケーキだけだったら、怒るぞ、と、書いてあるし。
「簡単なものだけど、作ったよ。予想はしていたけど、彩華、飲むんだろ?」
質問に答えてから訊き返せば、手持ちの小さくはない鞄を開き、中にあるワインを見せ付ける彩華。赤、白、ロゼと、三種類きっちり揃えてきている。
個人的には、クリスマスって言うと、シャンパン……は、高いので、スパークリングワインのイメージがあるけど、言ったらそれも買ってくるとか言いだしそうだから黙っていることにした。
「テルも飲むよな?」
ちょっと呆れて鞄から彩華の顔へと視線を戻せば、真正面から俺を見た彩華は、口調ほど問い掛ける色のない表情で訊いて来た。
「ヒカルだ。飲むけど、程々にする」
ぶっきらぼうに答える俺を見て、いつも俺に飲ませ過ぎる彩華は楽しそうに笑った。
本当に前みたいに酔いつぶれるほどは飲まないからな、と、しかめっ面で念を押す俺。
確かに、今日、想いを告げるつもりではいるけど、その後も酔った勢いで、なんて品のないシナリオ、俺のキャラじゃない。
いや、彩華の近くにいて、そういう意味での焦燥感を感じないわけじゃない。
でも、俺も彩華もそれなりに酸いも甘いも噛み分ける歳だ。どうせなら、かっこよくいきたい。
「まあ、でも、酒と一緒に食べるんだし、しかも二人分だけなんだから、食事は量はいらないだろ? 簡単なのを作っておいた」
「チキン?」
即座に訊いてきた彩華。
なんで鳥料理の有無を聞かれたのかわからなかったけど、そういえば、クリスマスって七面鳥を食べる習慣があって、それの日本版でチキンを流行らせていたんだと思い出して、……ちょっと失敗したことに気付いた。
首を横に振ってから、俺は答える。
「シュバイネハクセもどき。ドイツ料理で、豚肉をクローブで香り付けして、香草と煮て、仕上げに表面をカリッとオーブン……トースターで焼いたやつ。あとは、付け合せのザワークラフト。具を少なめにしたシチューに、クルミのパン、チーズ、トマト……他に何かいる?」
チキンは無いが、これ以上望むものもないだろう、と、胸を張って問いかけた俺。
適当に出来合いの物を買って済ますとでも考えていたのか、彩華は驚いた顔をしている。
「家事するんだ?」
一拍後、容姿に合ってないと、暗に表情で告げ、からかうように尋ねて来た彩華。
「実家暮らしの彩華は、してない?」
彩華を真似てからかうように問い返せば、言うと思った、とでも言いたいのか、ちょっと拗ねたような顔をした彩華は、ほんの少しツンツンした口調で答えた。
「出来なくはないぞ、立派な大人の女だからな。でも、作りやすさを重視するタイプだ」
意外と――。いや、意外とか思ってる時点で失礼かもしれないけど、ともかくも、彩華も家事は出来なくないらしい。自己申告によれば、だけど。
少し機嫌を損ねた彩華に、バツが悪いのを誤魔化すように、先にからかったのは彩華だろ? と、小さく舌を出してから俺は台所へと向かった。
「不味かったら、怒るぞ」
ダイニングから聞こえる彩華の声に、適当に返事しながら料理を温め直す。
シチューの鍋を弱火で火に掛け、シュバイネハクセもどきはレンジへ、クルミのパンはオーブンで三分。
「大丈夫、大学時代にドイツ料理に凝ってた頃があったから」
「そういう細々したことをしてたって事は、モテなかったんだろ~?」
ひょっこりとキッチンに顔を出した彩華が、準備中の俺をからかう。
悪戯っ子の顔をした彩華に嘆息してから、冷蔵庫からトマトとチーズを盛った皿を出し、その手に押し付ける。
「そうだ。でも、別に、それでも悪くないだろ? 今の彩華にとっては、特に」
手を腰にあて、むしろ誇るように言った俺。
中途半端な恋なんてするつもりはなかった。多分、終わったようでいて引き摺っていた恋が、秤の片方に乗っていたせいだと思う。大学四年間の新しい出会いに、一度もなびけなかったのは。
傲然と言い放った俺に少し驚いた顔をした彩華は、すぐににやりと笑って答えた。
「もちろん」
彩華が皿を持っていったすぐ後に、俺も温めなおした料理を取り分けてダイニングへと向かった。
テーブルの準備を終えてから、普段は菓子なんかを入れておく戸棚に隠しておいた――掌サイズのツリーを俺と彩華の真ん中に置く。
「なにその可愛いツリー」
プラスチックのモミの木の天辺の星をつつきながら、可笑しそうに彩華が言った。
小物に対する可笑しさなのか、買っている俺を想像してのなのかは分からない。でも……いや、そう言われるかなとは思っていたけど、実際に言われるとやっぱり少し頬が熱くなってしまう。
「無いよりましだろ。一応、クリスマスなんだ。家のは、探したけど無かった。親が向こうに持って帰ったんだろうな」
照れもあって、早口で言った俺。
っていうか、俺の兄弟は男しかいなかったんだし、元々家にツリーがあったのかさえ疑問だ。上の兄弟に合わせる形で、小学校の高学年には、プレゼントはサンタからじゃなくて、親父からの現金支給になっていたんだし。
「百円?」
「税込み百五十円。駅前のアーケードの雑貨屋の方」
安っぽすぎたか? と、視線で尋ねれば、彩華は首を横に振ってからはにかんだ。
「なんか、可愛い」
思いがけず幼い笑みを向けられて……。不覚にもドキドキしてしまい、誤魔化すように俺は次の話題に移ろうとした。
「食べようか? 折角温めたんだし、冷めたらちょっと」
「ん」
ワインを開けてグラスに注ぐ。
「あ、折角だし、ケーキのろうそくに火を点けて、電気消そうよ」
意外と――いや、意外って程でもないか、彩華も理想のクリスマスのイメージがあるんだろうし、こういう些細なお願いが、少し嬉しいというか、可愛く見える。
オレンジの炎が、うっすらと俺と彩華の顔を映す。部屋の輪郭は、真っ暗でテーブルを挟んで向かい合うお互いの顔しか見えなかった。
かんぱーい、と、微かな声で彩華が囁くように言った。
チリンと、グラスがぶつかる。
一口飲んだワインは、ええと、確か――前に彩華に味の薀蓄を聞いただけの知識だけど――チリ産だっけ? 甘みと酸味が抑えられ、独特の後味のワインだった。
「彩華、ろうそく、吹き消す?」
「それは誕生日じゃないの?」
いや、それはそうなんだけど。
「……クリスマスケーキのろうそくってどうするんだろ?」
訊いてみるけど、彩華もよく知らなかったみたいで、一拍後に彩華がろうそくの火を吹き消した。
苦笑いで電灯のスイッチを入れる俺。
部屋の明るさが元に戻って――、どちらからとも無く料理に手を伸ばし始めた。
不味くないはず、うん、多分。でも、色々といっぱいいっぱい過ぎてあんまり味に中尉を払えていないのも事実だった。
なにか喋ろうと思うんだけど、普段からあまり話題を振るタイプじゃないので、咄嗟になにか出てこない。彩華の様子を窺ってみるけど、彩華は料理に集中していたので――目が合うと、おいしいよ、と目で告げられた――、苦笑いで俺も……酔わないように、食べ過ぎないように注意しながら食事を進めた。
「そういえば、さ?」
んー? と、なんの気なしに返事をする。
「いつから好きになった? アタシのこと」
目と目が合って……、微妙な沈黙が流れた。
恋人になったばかりだというのに、難しい質問が来たな。いや、一般的にこういう話をするには、絶好の機会なのかもしれないけど、でも、俺と彩華の場合は、なぁ?
少しだけ考えてから、誤魔化すのもなんだか嫌なので正直に話すことにした。
「彩華、手、出して」
「んぅ?」
彩華は分かっていない顔をしていたけど、掌を素直に差し出してきた。
指と指を絡めて、しっかりと結びつける。簡単には解けてしまわないように。
「話しは最後まで聞くこと、途中で怒らないこと」
念を押すように言うと、彩華は目を丸くして心の底から驚いた声を上げた。
「ええ⁉ 怒るようなこと言うの?」
かもしれない、とは答えずに、
「最初は嫌いだった」
彩華は、動揺しているようだったけど、両思いになった今日で、かつ、最初はと限定していたからか、表面上取り繕った上で返してきた。
「……ま、まあ、そういう恋のはじまりもあるんだし、今のアタシだから許してやろう」
だけど、次いで発した俺の台詞で――。
「それで……。好きになった瞬間は、良く分からない」
――今度こそ露骨に険の入った顔になった彩華は、握りつぶす勢いで俺の手を握っている。
「手が痛い」
「続けて?」
不満を言った俺に、迫力のある笑顔で一文字一文字に強いアクセントをつけて先を促す彩華。
どうしようかな、と、思うものの、この際だから全部言っておいた方が後腐れしなくていいかと思って俺は続きを口にした。
「会うとずっと喋り続けてて煩いとか、絡みがしつこめでちょっとウザいとか……そういうのが、一年近く掛けて自然と消えて言った後――ああ、そうだな。彩華、その頃インフルエンザ掛かったよな?」
コクンと、首だけで頷いた彩華は、泣きが入るって感じではなかったが、表情が相当強張っていた。
やばい、ちょっと本気でへこんでる。
テーブルの上に身を乗り出して、軽く彩華の頬にキスしてみる。
彩華は、誤魔化されていない顔をしていたけど、それでも顔色は明るくなっていたので俺は続きを口にした。
「その時、いなくてちょっと寂しいって思った。いつの間にか、声が聞こえないとなんだか面白くなくなって、ふざけて触れられる――ってか、叩かれたりくすぐられたりだったけど、そういうのに少しドキドキするようになっていった」
思い起こしてみると……それでよく好きになったものだな、俺は。Mってわけじゃないと思うんだけど。
ん――、多分、独りで居るのが苦にならなかったから、彩華ぐらい強引じゃないとスイッチが入らなかったのかも。
「ヒカルは、随分とスロースターターだな」
呆れたように一言でまとめた彩華は、そのすぐ後に少しだけ陰のある顔になって付け加えるように言った。
「で――、そのしばらく後にあの事件かぁ」
頷く俺。
そう、だな。あの時、自分自身の好意を自覚しなかったら、受け流せたのかもしれない。好きなんだって、自分自身の中にある気持ちに名前をつけたから、余裕がなくなっていたのかも。理想の恋愛増に自分達を当てはめて、さ。
「……力関係ってさ、あるよな?」
彩華が急に口を開き――でも、その意味がよく分からなかったので俺は聞く姿勢に入ったものの小首を傾げてしまった。
同意を得られなかったことに、ちょっと拗ねたような目を向けた彩華は続きを口にした。
「ヒカルは、後輩だし、色々自己主張する感じでもなかったし、基本的には優等生っぽかったし」
そうなんだろうか? まあ、人付き合いは狭く浅くだったし、自分から積極的に話しかけるタイプではなかった。相手の出方を窺うタイプだったのかも。
それがどうしたんだろう、と、さっきと反対側に首を傾げて見せると、彩華は少し早口で言った。
「気になる相手だけど、振り向く気配も無かったし、いじめて気を惹きたくなったってこと」
「その頃からずっと?」
「うん」
微塵の迷いも見せずに頷いた彩華。
「じゃあ、彩華もちゃんと言わないと。さっきは……お互いにちょっとなあなあになっちゃってたし」
ニッコリと笑ったままで要求すると、分かってるだろ? 察してくれ、と、彩華が半目で訴えて来た。
俺は、敢えてそれを無視して、期待に満ちた目を向けるという意地悪をする。
彩華だけが直接的な言葉を言わないのはずるいし、それに、単純に彩華の言葉でその台詞を聞きたいという思いもある。
うん、気持ち的には、後者の方が強いな。
最初の方こそ、困ったような顔をしていた彩華だったけど、俺の態度が変わらないことを悟ったのか、逆ギレ気味に小さく叫んだ。
「ヒカルから言ってみろよ! そのさっきみたいな受身じゃなくて」
「好きだ」
そう来るだろうな、とは思っていたので即答する。
一度言ったら、なんだかもうなにも怖くなくなっていた。開き直りって怖い。
一方、はっきり好きだとは口にしていない彩華は。一瞬で顔が沸騰していた。
真っ直ぐに照れる彩華を、可愛いと思いつつ、きっと、俺も同じような顔をしているんだろうな、と、熱い頬をどうにもできずに……つい、目を逸らしてしまった。
「あ、ありがとう」
俺が横を向いている時に――そのタイミングを狙ったのかもしれないけど――、ごく小さい声で、彩華はそう言った。
彩華はどうするのかな? と、疑問に思ったのは一瞬。
キッと凛々しい目で俺を捉えた彩華は、表情を引き締め、はっきりと告げた。
「ヒカル……好きだ」
「……うん」
それしか、返せなかった。
でも、彩華が『ありがとう』と、答えたのに比べて随分味気ない返事だと思い、慌てて付け加える。
「俺も」
でも、その一言で、余計にお互いに……嬉しいのに何故だか困ってしまって――。
全然嫌な雰囲気じゃないのに、どうしたらいいのか分からない時間の中、短くない沈黙が流れる。
お互いに視線で出方を窺うけど、一歩踏み出すのは気恥ずかしさが躊躇わせる状態。
「は、恥ずい……。中学生か、アタシ等は」
「出合った時は高校生だったのにな」
照れ隠しから、仕舞いにはお互いにそんな言葉が出てしまうけど、顔はどんどん赤くなっていく。
暖房はもう止めていた。
でも、照れのせいか熱くて仕方がない。
「あ~、もう! もう! こそばゆい! ほら、テル、飲むぞ! 食うぞ!」
「はいはい」
しかし、飲むぞ! と、宣言した彩華だったけど、さっきまでの流れの中で、色々と耐え切れなかったからか、かなりのペースでワインを空けていたので、グラスいっぱいを飲み干した――いや、既にそれ以前に一瓶空けているし、二本目も半分以下しか残っていないが――ところで彩華がくたっとテーブルに突っ伏した。
「だ、大丈夫か?」
訊いてみるけど、あんまり大丈夫じゃなさそうだった。
「彩華、いっつもほろ酔いで止まらないんだから、意識してセーブするって言うか、そういうのできるようにならないと……」
「こんな時までお説教⁉ 違うでしょ!」
酔いつぶれてはいても、そういうことには頭が回るのか、すぐさま膨れっ面で言い返され――、苦笑いで抱きかかえると、途端に彩華が暴れだした。
「な⁉ ま、待て、そうじゃなくてだな」
「お姫様抱っこ、良いと思うけど」
彩華の顔に自分の顔を近付けて訊いてみる。俺も少し酔って大胆になってる? まあ、それもありかな……とか……。
「ああ、うん、確かにされたいことのひとつではある……。って、違う!」
「違うのか?」
からかうつもりで訊き返してみると、彩華は憤然として言い返してきた。
「違わないけど、違う!」
なにが気に食わないのかと、首を傾げて見せると、彩華はちょっと拗ねたような顔をしてから、小声でボソボソと……。
「体重、なんとなく、わかるだろ?」
思わず、噴出してしまった。この状況で気にすることがソレか。
「気にし過ぎ」
笑いながら指摘すると、余計に膨れた彩華が――ふと何事か考える顔になって、ポスン、とベッドに乗せた瞬間に訊いてきた。
「ヒカル、ちゃんと買ってあるのか?」
何が、と、聞き返しそうになったのは一瞬。
……いや、その、なんていうか、準備しておくのもなんとなく期待してるって言うか、あからさまに狙ってるようで若干気が引けて、あと、部屋にそういうのをきちんと準備しているという事実を邪推されたくないような――そういう経験が豊富なように思われそうだし――、そんなのとか、色々と気恥ずかしさもあって悩みに悩んだけど結局……。
心の中で続ける言い訳を見透かした……わけではなく、沈黙で悟ったのか、彩華が姉さん彼女らしくはっきりきっぱりと命令してきた。
「アタシがお色直しの間に、ダッシュで行って来い!」
ふらふらしつつも風呂場へと向かう彩華と、居間に置いたままだった携帯と財布をポケットに突っ込み、コンビに場では近いのでサンダルを突っ掛けて家を出る俺。
やれやれ、俺達らしいといえばそうかもしれないけど……。
現実はフィクションじゃない。
だから、ドラマチックな展開というのも中々難しいらしい。普通、恋人になることも、クリスマスなんてイベントも、もっとムードがある場面で、感動的に行われるイメージがあるけど……。
いや、でも、俺達にはこのぐらいが丁度いいのかもしれない。
これから先も、きっと、俺と彩華は同じように不器用なまま、いつまでも一緒に過ごしていける予感がしていた。
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