第4話 助走期間 後編

 夏は暑過ぎて、冬は寒過ぎる。

 当たり前の事だけど、基本的にはそういうことなんだと思う。

 夏場にこんなふうに走れば汗だくで――場合によっては走り慣れていない俺は熱中症になってしまうかもしれないし、冬場はジャージ一枚じゃ寒過ぎ、でも、厚着して着膨れしては走り難い。

 脇を締め、規則正しく腕を振り、足全体でアスファルトを押すようにして走り続ける。

 土曜の午前七時の町は、快晴の空の下、意外と多くの人が――犬の散歩や、ゴミ出しや、店の開店準備など――行き来していた。

 朝という時間に、多くの人がもう活動していることに軽い驚きを覚えたが、俺も中学・高校時代には、七時半には家を出ていたんだし、当たり前の光景だということを思い出し、少し苦笑いを浮かべる。

 大学時代のライフサイクルが変わる事無く塾講師になっていたので、どちらかといえば夜型の生活がすっかり板に着いてしまっていた。


 浅い息を二回吐き、深い息を一度吸う。

 リズムを崩さないように、無理のない速さで走り続ける。パートナーの背中は、視界にはない。久々に走る俺を置いて、彼女は彼女自身のペースで、目覚めつつある町を疾走して行ってしまった。

 まあ、確かにこの前の話通り、いちゃついて走ってイラつかれる二人には、ならずにすんだわけだけど――。

 これはこれでちょっと寂しいと感じる男心もあったりする。

 複雑に揺れる気持ちを、悪くないと思いつつ、足の裏でしっかりと地面を捕まえ、押すようにして踏み出す。

 当時と同じようにはいかない身体に無理をさせないよう、足の関節を意識して反動を上手く逃がす。

 落ちた体力とは裏腹に、学生時代よりも頭を使って効率良く動けるようになったのは、失ったものと得たものが差し引きゼロで――、いや、むしろ、今も前に進めていると感じられて少し嬉しかった。


 走っている時は、無心になるというよりは、取りとめもないことが思い出されることの方が多い。これは、俺に限らず、割と大多数のランナーがそうなんじゃないかな? 暇って言うと語弊があるけど、ペースを維持して規則正しく手足を動かしているので、脳は割りと思考の余裕がある状態にある。

 例えば、昔の彩華は、こういう時、その時流行っていた歌が頭でリフレインしていたらしい。

 雨の日の室内でのウェイトトレーニングなんかの時には、鼻歌でそれを歌っていて――、ちょっとした休憩の折には、俺の横に来て、最近走っている時にはこの歌が頭に流れているんだよね、とかなんとか、良くそんな話をされた記憶がある。

 もう、歌詞もタイトルも覚えていない曲だけど、なんとなく、そのリズムは、今も頭の中に残っている。

 微かに頭の中に響きだした、昔のメロディ。

 それと同時に、当時の色々な気持ちまでが蘇ってきて――。

 ふん、と、鼻を鳴らし、俺は見えてきたゴールに向かって少しペースを上げた。


 ゴールはスタートと同じ。

 最初に決めた通り、お互いの家からの中間地点の公園。

 入り口に姿が見えないから公園の中まで歩を進めると、先に走り終えた彩華は、ちゃっかりとスポーツドリンクを右手にベンチで空を見上げていた。

 走るために――というよりは、走って乱れる前提だからなのか今日は少しの寝癖をそのまま無造作にしている短い髪。気の強そうな目、目の下の微かなそばかす、少し色の薄い唇。紺色のジャージ姿だけど、ボーイッシュな容姿と相まって、野暮ったさはあまり感じない。大学生には、流石にもう見えないけど、すれ違った後に思わず振り返りたくなるレベルでの快活な魅力がある。

 ……と、思う。少なくとも、俺にとっては。

 急に止まると足に負荷が掛かるので、公園の入り口を抜けてからもピッチを落としながら彩華の方へ走り続ける。

 すると、靴音で気付いたのか、彩華が俺の方を見て――。

「おっそーい!」

 惰性でゆっくりと走る俺に向かって、彩華は不満たっぷりに叫んだ。

「ブランクがあるんだ。錆びはゆっくり落とさないと」

 ムキになって反論するのもキャラじゃないので、顔色を全く変えずに言ってから、更に速度を落とし、彩華の目の前で足を止めた。

 止まった瞬間、吹き抜けていく風の速度も遅くなり、急に肌に熱を感じる。

 秋も深まったとはいえ、やっぱり走り終えると少し熱いな。

 息を整えるために、長い呼吸と短い呼吸を組み合わせる。

 膝に手をつき視線を足元に向ければ、そこには、ベンチの側に一本だけ立っている桜の紅い葉が、うっすらと降り積もっていた。

 落ち葉に誘われるようにして桜の梢を見上げ、額に吹き出た汗を手の甲で拭うと、近くでまじまじと俺の顔を見ていた彩華が、唐突に笑ってから、話し始めた。

「あ! ……ふふふ。ずっと前の時みたいだね、テルのその態度」

 ずっと前、と言われても、すぐにはどのことを言っているのか分からなかった。そもそも、俺は昔っから冷めてる方だし、走り終えてバテているのも、不本意ながら、割といつもの事なので、どれを指しているのか、判断し難い。

 すると彩華は、そんな俺の心情までお見通しだったのか、試すような視線で俺の顔を覗き込み、からかうように言った。

「陸上部の新入部員の最初の測定で、アップに校庭を一周した時は最後尾だったくせに、いざ本番でこの公園まで走らされた時は、二十人中二位で走り切った」

 よくそんな事を覚えているもんだ。

 感心するよりは、むしろ呆れるような気持ちで、短く嘆息した後、俺はいつも通りの声で返事した。

「一応、中距離選手だったからな。でも、あんまり才能が無かったから、三年間でたいして記録が伸びなくて、二年になる頃にはマラソンでも中ぐらいの順位になっただろ?」

 自分で言った癖に、ちょっとだけやさぐれたような気持ちになりながらも、俺は冗談っぽく肩を竦めて気にしていない振りをする。

 男だから、やっぱり幾つになっても負けるって事には抵抗がある。嘘はつきたくないけど、詭弁でも、どこか一部分は勝ったことにしておきたいような気がしてしまう。

「これから、また意表をつく結果を出してくれるんでしょ? 前評判を裏切るのがテルだもんね?」

 男心を上手くくすぐる台詞を、挑発的な視線で言った彩華。

 だけど、ここで調子に乗れるような軽さは俺に無くて……。

「いや……今の俺は陸上以外の場所で勝負しているからな。そういう彩華は?」

 面白くもない生真面目な台詞で強がって、俺自身に関することはこれでお仕舞い、と、彩華に問い返してみた。

 彩華は、最初こそ肩を竦めて見せたものの……。

「時々、マラソン大会にエントリーして走るくらい。でも、今でも実業団選手と勝負してる順位なんだよ? すごいでしょ?」

 話し終わる頃には、胸を張って、自信過剰気味に鼻を高くしていた。

「すごいな」

 全く俺を慮らない彩華に対し、棒読みで答える俺。

 すると、案の定、間髪入れずに彩華が右手で突っ込みながら、ビシッと切れの良い声で短く叫んだ。

「感動が薄い!」

 ははは、と、ちょっと卑屈に軽く笑ってから、真面目な顔に戻して、俺は素直な感想を告げる。

「陸上で進路を決めなかったのが、意外だった」

 再会して職業を訊くまでは、高校時代の彩華は全国区の選手だったんだし、推薦で入った大学でも陸上を続け、そのまま実業団とかに入っているものだと思っていた。

 うん、普通に考えれば当然の結論だったので、俺の方は気兼ね無しにそう言ったんだけど――……。

 彩華は、横目で俺をちょっとだけ非難するように見てから、俯いて話し始めた。

「選手生命に致命的なのじゃないけど、怪我はやっぱり多かったしね! それで、大学出た後に実業団に入れなければ、後は趣味だけにしようって……。体育教師は考えなかったわけじゃないけど、学力が微妙に……」

 微妙に言い難そうに語尾を濁した彩華だったけど、充分に理由が分かってしまい、つい、苦笑い交じりの生暖かい視線を向けてしまう。

 確かに、大人しく机で勉強している彩華って、全然想像出来ない。多分、大学でも適当にレポート出せば単位くれるような講義ばっかり受けて、割と好き勝手に過ごしていたんだろうな。


 微妙に空いた会話の間から俺の視線に気付いた彩華は、急にハッとした顔になって慌ててて取り繕いだした。

「就職できなくて家事手伝いなんじゃないからな! かなり、がっつり働いているんだからな! 家は、バイトを雇ってないんだし」

 掴み掛かってきそうな勢いで捲くし立てた彩華。

 大人になっても変わらない隙の多さが、ちょっと微笑ましくも思えてしまう。

「わかってる」

 日頃のお礼とばかりに俺は、含みを持たせた笑みで必死の彩華をからかう。

 すると彩華は予想した以上のショックを受けたのか、最初こそ俺を睨みながら唸っていたものの、いじけて独り言を呟くようにように語り始めた。

「……走って、天辺に行けるのなんて、ほんの一握りなんだぞ? アタシは、学校じゃちやほやされてたけど、そこまで、なんかじゃ……なかったんだ。だから――」

 途切れ途切れに話す彩華。

 その姿は、走ることを、終わったこととして後悔している、というよりは、今も迷っているように見えた。もしかしたら、就職も、どこかの会社からは内定を貰っていたのかもしれない。でも、そうしたら、後は普通のOLになってしまいそうで、敢えて実家で働きつつトレーニングを続けていたのかも。

 ポツリポツリと流れていた言葉が途切れた後、短い溜めを入れてから、少し逆ギレするような口調で彩華が俺に詰め寄ってきた。

「変か? アタシが女々しいことを言うのは?」

 真剣で切実な顔が目の前にある。

「女の子が女々しくても変じゃないだろ?」

 彩華が顔を近付けてきたから、コツンと、その額に自分の額をぶつけ、彩華の目を覗きこむ。

 上手く言い難い――くさい台詞になりそう、という意味でも、語弊無く今の気持ちを伝えるのが難しい、という意味でも――気持ちが、視線から全部伝わったのかは分からない。

 でも、彩華は、最初こそ大きく目を瞬かせていただけだったけど、凡そは俺の意図を理解したのか、少し照れたように視線を逸らし「それもそうだ」と、彩華は、いつも通りの勝気な笑みを口の端に乗せ、少しは弾んだ声を出した。

 だけど、上向く気持ちは長続きしなかったのか、次の瞬間、途方にくれたように肩を落とし、縋るような目で力の無い声をだした彩華。

「テル……アタシ、どうしよう?」

 瞳越しに見える気持ちは、学生時代の進路に対して漠然とした希望と不安の混じった目ではなく、大人として、自分自身と社会の折り合いの中、夢を引き摺ることへの葛藤を表しているように感じた。

 背中を、押して欲しいのかもしれない。

 お互いに……、もう絶対に無理かもって思ってた件が――。絶望的に広がっていたと感じていた溝が、些細な切っ掛けでこんな風に埋まったのだから、他の事もきっと上手くいくって思えるのかも。

 ただ、踏み出すための最後の切っ掛けを俺に求めたのが少し意外だった。

 彩華は……いや、昔の彩華は、もっと迷わなかったと思う。良い意味でも、悪い意味でも。ちょっと独善的に即断即決で突っ走っていた。失敗したって気にしない振りしてアハハと笑って、また挑戦していくような。楽天的っていうと少し語弊があるかもしれないけど、ダメだったらどうしようとかネガティブに悩んでいる姿を見たことがない。

 自信と努力と負けん気が上手く組み合わさった性格をしていた。


 俺がもう少し調子の良い性格をしていたら――学生の頃だったなら――、諦めるなよ、とか言えるんだろう。

 俺がもっと現実的だったら――もう少しお互いに歳を取っていたなら――、やめといたら、と言えるんだろう。

 ……難しいなぁ。


 答えられずにいると、ペチンと両手で挟みこむように頬を叩かれた。

「なにか言えよぅ」

「ん――」

 言えと言われても、簡単じゃない。

 すると、煮え切らない俺に苛立ったのか、彩華が俺の顔を押さえたままで口を寄せてきた。

「『大丈夫だ。ダメでも一生俺が彩華の面倒をみてやるぜ。やるだけやってみな……』とか言えないの? この口は?」

「……そういう問題か?」

 金銭的にという部分だけなら、……ま、金の掛かる生活してないし、食い扶持のひとつ増えたところで――いや、そうじゃなくてな。

 乗せられそうになるのをジト目で流れを戻し、彩華を窺う。

 彩華は、少し複雑そうな顔をした後に誤魔化すように笑った。


 なんだろう。少し、もやっとする。

 いや、この彩華の冗談? が、ではなく、俺の覚えの無い彩華の態度や、俺の知らない記憶をなぞっているような表情が。

 俺は……、いや、俺自身のせいであるとはっきり分かっているけど、高校を出た後の彩華について何も知らない。

 それが、なんだか、ちょっと悔しい。

 ……どうしようかな。


「もしかして怒った?」

 不意に訊かれて、ずっと黙りっぱなしだったことに気付いて慌てて返事する。

「いや、そうじゃなくて」

 どことなく心配そうな彩華の目に気付いて、また少し気分が変わる。本当に、難しいものだ。

「ん?」

 不思議そうな目をして語尾を上げて尋ねる彩華に、悩んだ末にもやもやした気持ちの輪郭をなぞるように答える。

「彩華が昔の話をするから、あの頃だったらなんて答えてたのかな――って」

 はっきりとは、伝えられない。あんまりくっきりした形では伝えたくない。

「お互いにもう子供じゃないからね」

「そうだな」

 意外とあっさりとそう言えてしまう彩華に、若干センチになりながら相槌を打つ。すると、急に勝気に笑った彩華が真下から俺の顔を覗き込んできた。

 見透かしたような目、色の薄い唇が艶っぽく。動いた。

「気になる? アタシの大学時代」

「少し」

 誤魔化すのを諦めて俺は、やや渋い顔で言った。あんまり察され過ぎるのも、なんだか、ちょっと面白くない。そんなに分かりやすいのか? 俺って。

「でも、アタシも同じ気持ちなんだよ? 実家の場所を知ったのも、ごく最近だしね」

 姿勢を正した彩華は、一歩分距離を置いて少し恨みがましい目で俺を見た。

「誕生日とか言えばいいのか?」

 子供っぽいな、という自覚はあるものの、彩華の切り返しに――自然と少しだけ口が尖ってしまう。

 昔も今も訊かれなかったから言わなかっただけで、訊かれれば……いや、訊く切っ掛けがなかったって話に繋がるか、それだと。

「十月十五日でしょ? ちなみに――」

 事も無げに言った彩華に、俺は声を被せる。

「彩華の誕生日は六月二十日。B型、実家は布団屋で一人娘……なんだろ?」

 覚えてるに決まってるだろ? と、訊き返される前にしたり顔で俺は言った。

 むしろ、彩華が今も俺の誕生日を覚えていたことが、意外だった。バレンタインとか、ホワイトデーとか、普通に忘れてたもんな。高校時代の彩華は。

 ……その時の部活でのバカ騒ぎを思い出してしまい、少しだけ、笑ってしまう。

 一瞬驚いた顔をした彩華だったけど、すぐにいつも通りの顔で、右手をピストルの形にして俺の胸を人差し指で軽く突いた。

「テルは確か、兄弟いたよな?」

「上に男ばっかり二人」

 名前を訂正するの忘れた。いや、ま、それ以上に歳の離れた兄貴達の事を彩華が知っていることに少し驚いたから、しかたない。

 誰から聞いたんだろう? こっちに兄貴達がいたのって、進学とか就職の関係で一年もないはずなのに。

「ふぅん」

「ふうん?」

 俺の返事を聞いた後に彩華が思わせぶりに鼻を鳴らすから、反射的に訊きなおしてしまう。

 小首を傾げた俺を、邪気をたっぷりと含んだ笑顔が迎え撃つ。

「アタシの野望に一歩近付いた」

 言葉の意味は、すぐに理解出来た。一人娘って言ってたもんな。そういう条件も……やっぱり、あるんだろう。多分。末っ子だから親に家について言われたことが無い俺には、ちょっと実感がない感覚だけど。

 ただ、ちょっと飛躍し過ぎのアプローチという感が否めない。今から逃げ道を塞いでどうするんだよ……。

 これは、気付いていいのか? 鈍感なふりをするべきか?

「困ってるな?」

 全部分かっているとでも言うようにニヤッと笑った彩華が、俺の胸を突いたままだった人差し指を上に上げ、今度は頬をつついてきた。

 もっとも、そういう催促をされても、すぐに決断なんて出来ないし、上手い返しが出来るほど恋の上級者じゃないんだけど。

 ――と、不意に彩華が表情を変え、冗談の色が引いた顔で呟くように言った。

「でも、アタシも困ってる」

 うん? と、彩華の言葉と変わった雰囲気に、不審を表す。

 俺の態度に場が整ったと判断したのか、彩華は続けた。

「イロイロ、周りの話し聞いてるとさ。こういう距離が一番危ないんだ」

 今度はさっきと違って核心に触れないように話続けているから、本題がまだ見えてこない。

 関係の修復で満足してしまって、恋心が自然消滅しやすいってこと、か?

 ……ううむ、どうなんだろう? 諦める以外の手段で想いと決着をつけたことがないから、少し分からない。

 間を空けた彩華を、じっと見続ける。

 だから、その、と、少し言いにくそうにした彩華が、ひと塗りだけ頬を紅くしながら無理した涼しい顔で言い切った。

「はっきりさせないまま……関係持って、それでずるずる~ってね」

 そっち、か。

 そりゃあ俺も男だから、手を出したい気持ちがないわけじゃないけど……。過保護なくらいには、大切に気持ちを育てているつもりなんだけどな。いや、むしろ、歩みの遅い展開に焦らされてるような気がして、発破を掛けてきてるのか?

「俺、そういうタイプに見える?」

 嘆息してちょっと呆れている顔をしてみせたけど、彩華は冗談めかした疑いの眼差しを向けるという意地悪をしてきた。

 腕を組んで不満を顔に出しても「なんだかんだ言っても、男は狼だからねー」と、随分と古臭い表現での挑発が返ってくる。

 ふん、と、鼻を鳴らして一拍だけ間を空け――。

 彩華の手を取って引き寄せ、軽くハグしてみた。

 変な感想かもしれないけど、なんだか、丁度いいと思ってしまった。彩華って腕の中に絶妙に納まる。鍛えてるのは知ってたからもっと固いイメージだったけど、手が触れている肩とか背中のふんわりした柔らかさに……その、ちょっと動揺した。

 成程、これなら狼になるかもしれないな。

「ふぁっ?」

 大分遅れて、意外と女の子らしい悲鳴が胸から聞こえてきて、にやけてしまう。

 名残惜しかったけど、あんまりこうしていても嫌がられるかと思い、彩華の声と同時に手を緩め、ゆっくりと離す。

 耳まで赤くなった彩華が、よろけるように一歩だけ下がった。

「底意地の悪い顔をされたから、期待に応えて前借してみた」

 無理に纏った鉄面皮。

「ま、前借り?」

 混乱しきった顔のままの彩華。

「どんどん気持ちは傾いてる。今年中には……、その」

 男らしくいうつもりだった台詞は、どうにも最後まではっきりと告げられなかった。照れ臭さもあるし、今、言い過ぎてしまうと、その時の感動が薄れるかな、とも思って。

 つまらない男だとは――、まあ、多分に堅物とは思われているだろうけど、だからこそサプライズを意識したいし。

 微妙なところで泊まった台詞を誤魔化すように、分かるだろ? と視線を送る。

「は、う……。わ、分かった。うん、それなら」

 視線を合わせずにぼそぼそと呟いた彩華は、結局最後には完全に俯いて黙ってしまった。


 なんだか色々中途半端っていうか、思いっきりの良さが足りなくて、ストレートに告げるよりも恥ずかしい状態になっている気がする。

 気まずい沈黙は、少し強い風が吹き抜けても、どこかから子供の声が響いてきても、中々去ってはくれなかった。

 あんまり……あんまり長いことなにも言ってくれないものだから、ハグはまだ早かったのか? と、少し自己嫌悪しそうになった時、彩華が――猫みたいな素早さで俺の右手に取り付いた。

 逆襲に動揺する俺の肩に、ちょこんと顔を乗せた彩華。

「テルは、ブレーキとアクセルの使い方がなってないよな」

 照れ隠しに怒ったような顔で舌を出した彩華は、振り解けない絶妙な力加減で俺の腕を大きく揺さぶるりはじめた。

 まるで誰かに見せ付けているみたいで、その子供っぽい仕草につい笑みがこぼれてしまう。

「それに、それは、彩華も同じだ」

 お互いに真っ赤な顔のまま、目を合わせて――。

 きっかり三秒後に、照れも手伝って大笑いした俺達。

 本当に。

 まったく、もう。

 いい年をした大人なのに、なにやってるんだろうな? 俺達は。

 そんな風に考えてもしまうものの、今は、こんな風に、同じペースで同じものを見て、同じ時間を進めていることを、とても大切に感じていた。

 学生じゃない今だから、そうした距離が持つ当時よりも重要な意味をお互いに理解出来ているんだから。


 そう、今はまだ。

 恋へと向かう助走期間の中にある。

 もどかしくも楽しい今の時間の続きには、俺達二人が求める形の未来が、きっと。

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