第3話 助走期間 前編

「注文、決められない?」

 難しい顔をしてメニューを睨んでいる彩華に、急かす、というよりは、分からないなら任せてくれれば良い、という意味を込めて尋ねてみた。

 メニューから視線を俺に向け直した彩華は、一拍だけ迷ってから、素直に頷いた。

「アメリカンのMサイズ」

 注文すると同時に、千円札を渡し、同時に会計も済ませる。

 彩華が時間を掛けすぎていたから、笑顔が引きつり始めていたコーヒーショップの店員は、ようやく表情を自然な形に変え「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ」と、言った。

 店員が奥のサーバーマシンの方へ行くと、彩華が拗ねたような顔で俺を見上げた。いや、見上げた……というほどでもないか、身長差は十センチもないくらいだから。ともかく、彩華は、微かに唇を突き出すようにして俺に視線を向け、拗ねたように呟いた。

「コーヒーって高いんだね。普通、百円くらいだと思ってた」

 一瞬、あんまりな言葉に噴き出しかけた。

 彩華としては、声を潜めたつもりなんだろうけど、間違いなく目の前のバイトっぽい女の子の耳にも届いたと思う。

 ただ、そのバイトの子は、彩華よりも精神的には大人だったみたいで、聞こえない振りをしてくれていたけど……。

「チェーン店のミドルサイズで何を言ってるのさ」

 彩華の言動を少し非難するように言ってから、一呼吸分の間を置き、からかうような笑みを浮かべてから、続けた。

「店によっては千円以上するところもあるよ」

「アタシには縁のない世界だ」

 感心したような、それでいた呆れたような表情で達観している彩華に、そういうことは店の外で言え、と、肘で脇腹を軽く突き、黙らせる。

 痛くしたつもりは無かったけど、彩華は、キャとか、女の子っぽい小さな悲鳴を上げ、右手で脇腹を押さえ、左手で口を押さえていた。

 うっすらと覗いた表情は、不満そうにしながらも頬が緩みきっていた。

 もしかしなくても、彩華ってくすぐったがりなのかも。

 良い事を知ったな、と、にやける俺。

 そんな俺を不満たっぷりの彩華が体勢を立て直して睨むのと同時に、俺の注文のレギュラーコーヒーと、彩華のアメリカンコーヒーが出てきた。

 彩華もここでまた時間を掛けるわけにいかないと分かったのか、一時休戦と表情だけで告げ、コーヒーを素直に受け取っていた。

「お待たせしました。ミルクと砂糖はあちらになります」

 カウンターの右側の、ガムシロップやスティックの砂糖、植物性油脂や、ミルクのポーション、あとはストローなんかが並べられている棚を掌で示し、どうぞごゆっくり、と、頭を下げた店員。

「ありがとう」

 軽くお礼を言ってから、彩華を促して移動すると、棚の前についてすぐに彩華に袖を引っ張られた。

「なに入れれば良い?」

 余りに堂々とした物言いに、俺の方が怯んでしまう。

「あれ? 彩華、コーヒー嫌い?」

 二日前にメールで待ち合わせ場所を決めた時、駅ビルのコーヒーショップで異論も出なかったし、てっきり飲めるのだと思っていたけど。

「缶コーヒーは飲むよ」

 俺に訊かれて、真顔で彩華は答えた。

 拙いな、失敗したかもしれない。そういえばさっきも、百円ぐらいだと思っていたとか言っていたし、きちんと淹れられたのを飲んだことが無ければ、砂糖やクリームの量が分からないのも仕方がない……のか?

「……ガムシロップと、クリームを二つずつ入れれば良いと思うよ」

 缶コーヒーって基本甘いだけのが多いから、おそらく彩華もそういう味に慣れていると思って、味覚にあわせた意見を言ってみる。

 それに彩華の場合、ブラックは、同じ値段なのに入っているものが少ないから損をした気分になる、とか考えていそうだし。

「テルは?」

 言われたとおりの物をコーヒーに入れながら、視線だけで俺の動きを見ながら訊いてきた彩華。

「胃に優しくするために、クリームだけで十分」

 既に入れ終わったクリームの空の容器を見せながら答える。

「ふーん」

 自分から訊いてきたくせに素っ気無く返事した彩華は、何事か考えている、というよりは、悪巧みしている顔をしていた。

 あまりろくでもないことをするなよ、と、目を細めてみれば、ちょっとだけきょとんとした顔を返される。

「ま、いっか」

 なにが『いっか』なのか、全く分からなかったけど、ともかく、彩華はそう呟いて手を止めた。

「彩華って、お茶の方が好きだったりした?」

 彩華の方もガムシロとクリームを入れ終わっていたみたいだったから、店の奥の方の席に向かって歩きながら尋ねてみる。

 道路に面した席は、見世物みたいで好きじゃない。

「紅茶? 緑茶?」

「どっちかは拘ってるの?」

 二択で質問を返して来たことから、片方は好きなんだろうなと思って聞き返してみると――。

「そんな風に見えるか?」

 ニカッと笑った彩華が、悪戯っ子の顔を俺に向けた。

 この顔は、どっちにも詳しくないって顔だ。

 ったく、じゃあ何でさっきはあんな返し方したんだよ。

「見えない」

「この正直者め」

 適当にじゃれる台詞を掛け合いながら、適当な席を探す。

 朝と昼の間ぐらいの時間で店が比較的空いていたから、目当ての――ガラス張りの通路からそれなりに離れた、良い席が取れた。

 お互いに席に着いて、彩華が小さな手持ち鞄を隣の席に置くのを見届けてから、一口だけコーヒーを飲む。

 特別な豆でもないし、普通の店の普通のコーヒーの味がした。豆はブラジル辺りのかな。

 でも、そういう慣れ親しんだ味っていうのも、俺は嫌いじゃない。

 カップを置くと、彩華と目が合ったので、さっき途中になっていた話題を振ってみた。

「ちなみに、好きな飲み物は?」

「……エナジードリンク、かな」

 微かに顎に手を当てて考えた彩華は、むしろ、俺に尋ねるような調子でそんな事を言った。

 態度にも、答えの内容にもコメントし難いな。

 ああいうのってどうなんだろう? 俺は、もっとオジサンになってから飲み出す物のようなイメージがあるんだけど。

 てか効くのか?

 まあ、本人が好きなら否定する気はないけどさ。

「そのカフェオレはどうだろう?」

 俺に訊かれて、一口だけカフェオレを飲んだ彩華は、美味いとも不味いともどっちつかずの表情で答えた。

「不味くはないよ」

「そっか」

「そっちは?」

「いつもの味だよ。飲んでみる? 口付けちゃったけど」

 言いながらカップを手に取り彩華の前に差し出す。

「飲んでみるー」

 いきなりかなり子供っぽくなった彩華が、両手でカップを受け取り、カップの縁を噛むように口をつけてから傾け、すするようにコーヒーを飲んだ。

 ツッコミ待ちかな? とは思ったものの、容姿はしっかりした大人な彩華だから、こういうギャップも……それはそれで目の保養としては良いかも、とか考えてしまい、頬杖ついて見守る。

 一口分ぐらいを飲んだ彩華は、その姿勢のままで口もカップに付けたまま上目遣い気味に俺を見て、腹黒そうな笑窪を頬に浮かべた。

「あ……。いやん、間接キッス」

 すっごいわざとらしくしなを作った彩華が、カップを俺に返しながら、ちょっと無理のある声で言った。

 恥じらいよりも、明らかにあざとさが前に出ている感じの声。

 まあ、作っているって感じははっきりし過ぎているけど、それも含めての愛嬌なのかも。本人的には。

 からかいの意味だけでちょっと白けた目を向けても、彩華の期待に満ちた視線が変わらなかったから、顔を横に向け、彩華を見ないようにして俺は茶化した。

「……再会したての同窓会の時にも、意図的にしてたくせに」

「何のことかな~?」

 分かっている顔をしつつも、しらばっくれるようなことを言った彩華は、この前の夜に通じるようなちょっとねちこい絡む目を俺に向けている。

「さあ? 彩華の身に覚えがないなら良いんじゃない?」

 向き直り、挑発的な笑みを返した俺がそう嘯くと、責められるのには弱いのか、拗ねたような目をした彩華が口を噤んだ。

 もっとも、その応酬が不完全燃焼だったのか、小声でブチブチ文句は言っているみたいだったけど。

 甘さが足りなかったかな?

 ちょっと考えてみるけど、妙齢の女性の心の機微を量れるほど俺は恋愛に習熟してはいない。

 だから、変わりに浮かんだ別の疑問を口に出した。

「そういえば、彩華って、今、なにやってんだっけ?」

 そんなに変なことを訊いたわけでもないだろうに、彩華は返事をしなかった。

 この前は俺の職業を訊いたくせに、自分のは言いたくないらしい。

 だけど、隠されれば知りたくなるのが人心という物。

「OLじゃなさそうだよな」

 ジーンズに厚手のジャケットを合わせてデートに着てくる姿からの勝手な想像だけど、あながち間違った解釈じゃないと思う。手も荒れていないので、コックとかでもないだろうし、やっぱり、スポーツインストラクターか、学校の体育教師とかかな?

「テル……アタシの実家、知らなかったっけ?」

 あれこれと考えをめぐらす俺に、彩華からの恨みがましい視線が投げ掛けられた。

 職業の話をしていて、実家と言う言葉が出てくることから察するに、意外にも自営業――見習い? もしくは、手伝い? だったらしい。流石に自宅警備員じゃないよな、とは思ったけど、一応、確認するように訊き返してみる。

「何かの店?」

 問われた彩華は、かなり不満そうな顔をして、長めの間を置いてから頷いた。

「……布団屋」

 意外と普通の答えに、なんで言い難そうにしたのか分からなかったので、首を傾げていると――。

「……悪かったな。配達とかまでしてるから、未だに筋肉質で」

 予想以上に可愛く拗ねた彩華が、腕を組んで二の腕を掌で隠している。ちょっと縮こまっている姿は、いじけた子供みたいで微笑ましい。もっとも、腕をきつく組んでいるせいで、全然子供っぽくない胸が強調されているんだけど、ね。

 まあ、確かに彩華は一般的な同年代の女性と比べると――胸を差し引いた場合、輪郭がちょっと硬質な感じかもしれない。でも、キュッと引き締まっていて、筋肉質って程の感じでもないと思うけどな。

 それに俺は、こういうスレンダーなの……好きだし。

「腕、触って良い?」

 彩華の返事を聞く前に、彩華の二の腕に向けて手を伸ばすと、ペシンと、その甲を叩かれた。

「良いわけあるか! バカ!」

 猛獣みたいな目で俺を睨んでいる彩華。

 ちょっと調子に乗りすぎたらしい。

「健康的でいいと思うよ」

 好感を態度で示すと怒るみたいなので、素直な言葉で告げてみる。

「お世辞か?」

 照れつつも拗ねたような目で追及する彩華に、余裕たっぷりの笑みを返す。

「どう思う?」

 違う、と、言われなかったことを不満そうにしていた彩華だったけど、分かってるくせに、と、ニヤニヤ笑いを向け続けているうちに、照れてるだけの顔になった。

「今度から、朝、一緒に走るぞ」

 頬を紅くしたまま、ぶっきらぼうに彩華が告げた。有無を言わさない命令調で。

 微妙に藪蛇な結果に、ちょっと素直に情けない顔を向けてみる。

 薄く目を閉じている彩華は、俺の様子を見ていないのか、照れのあるツンとした顔のままだったから、試しに媚びる声を出してみた。

「疲れる」

 昔は、本当に良く走ってたよな、俺。

 千とか三千とか、今、走ったとしたら、タイムの心配よりきちんとペース配分して完走出来るかが不安になる。

 彩華が、チラッと左目で俺を見た。

 俺は、畳み掛けるように言った。

「それに、邪道じゃないか? 天下の公道をトレーニング風にいちゃつくとか」

「ピュアに! 淡ーく、仲良さげに走れば良い。そう! あれだ。……過去にヒカルを引退に追い込んだハートの傷のリハビリも兼ねて」

 彩華の態度は頑なだった。

 少し前の、酒の助けを借りた俺の冗談まで引用する周到さまでも見せつけつつ、結局は強引に押し切る顔をした彩華。

「彩華にそれが出来る?」

 と、試しに訊いてみても、自信たっぷりの台詞を返される。

「もちろん。それに運動は、健康で文化的な生活のためでもあるんだよ!」

 引用源をはっきりと理解しているのか怪しいところもあったけど、確かに運動不足の自覚がないわけでもなかったから、この辺が潮時か、と、わざとらしいオーバーリアクションで万歳して告げた。

「なるほど。いち日本国民としては、憲法に従いますかぁ」

 それでよし、とでも言いたいのか彩華は満足そうに頷いて、再びカフェオレを――今度は優雅な仕草で飲んだ。


 歳相応の仕草も作った愛嬌も、どっちも可愛いと思えてしまうのは……。そうだな、ほんの一週間で惚れた弱みと認めることには抵抗があるかも。

 高校卒業後に、青信号を見送り続けてきたツケなんだろう。

 多分、好きだと言い切るには、まだ早い。

 だけど、俺と違って少し俯いて考え始めた彩華は、何かが引っかかっているのか、難しい顔をしていて、どうしたの? と訊こうとした瞬間に、急に顔を上げた彩華に質問をぶつけられた。

「やっぱ、テルってさ。もっと可愛い感じの女の方が良いわけ?」

 いきなり訊かれて、返事に詰まった。

 そもそも、どういう経緯でそういう話になったのかが全く分からない。だから、どういう答えが欲しいのか、ちょっと量りかねる。

 まあ、彩華はB型だしな。さっき触れた体型の話から、走る話を経由して、話題がそこにジャンプしたんだと思う。

 いや、経緯を推理するよりも、今は返事をしないといけないんだけど……。

 そもそも可愛いってかなり抽象的だよな。ってか、彩華も可愛い部分は沢山あるんだし、そこを述べた上で肯定した方が良いのか?

 いきなり変わった話題についていけていない俺に向かって、彩華は焦れたような顔でちょっと怒ったように言った。

「好きなタイプの話」

「なんで? っていうか、いきなりどうしたの?」

「アタシ的に、どうしても決着を付けたい過去の最後の一部分」

 彩華はさっきと同じように少し怒っているような口振りだったけど、不安を誤魔化すための態度だってことに、その台詞と漫ろな指先で気付いた。

 となれば、彩華が比較対象の可愛い女としてイメージしているのは……あの子、なんだろうな。

 俺にとっての高校時代の一番の事件はあの勝負だったんだけど、どうやら彩華にとっては、勝負よりもその後に俺が恋人を作った方がショックだったらしい。

 って、彩華の言いたいことは分かったけど、余計に答え難い話になったな。

「どうしたいの?」

「別に……」

 彩華の気持ちを推し量るべく、正直に尋ねてみても、要領を得ない返事しか返ってこない。

 全然『別に』って顔じゃないのに、その返事はずるい。焦って余計なことまで口にしてしまいそうになる。

 もしそうなったら、また、失敗を引き摺って、落ち込んで、余計に離れて――もう一回、十年以上の冷却期間を置いてしまうのかも。

 それは、流石に嫌だな。

 沈黙と反論、その二つを両の天秤にかけてみるけど――。

「別れてからの事は知らないよ。元カノに執着するとか、ストーカーみたいな真似、俺は嫌だ」

 引っ張りたくない話題ではあるんだけど、彩華の態度がそれを許してくれない。だから、出来るだけ無味乾燥に伝えたつもりだった。

 なのに、彩華は身を乗り出して捲くし立ててくる。

「でも、実は、ちょっとは、今、どうしてるか知りたいでしょ? たまには、惜しかったな、とか、思う日もあったでしょ?」

 彩華の剣幕に少しだけ顔を引いた。

 でも――、どうなんだろう?

 そりゃあ、独り身になって少しは後悔した時もあるし、大学時代とかにはもっと別の対応があの子に出来たんじゃないかって考えた時もあったけど、でもそれは、別れた相手に思う普通の範疇のことで執着と言うには程遠いと思う。

「どこで何してるのか、訊こうよ?」

 考えをまとめる時間を与える気がないのか、黙ったままの俺に向かって彩華は矢継ぎ早に質問を投げ掛けてくる。ひとつひとつを個別に答えている余裕は無さそうなので、もっともらしい一言で俺は全ての案件を片付けようとした。

「今更だろう?」

 他に言うべき言葉は俺には無かった。

 過去は、過去でしかない。良い意味でも、悪い意味でも。

 だけど彩華は、その一言で納得してはくれなかった。

「知っといた方が良いよ。あの子の今について。ここで半端にして、後でうだうだ悩みたくないもん」

 口を尖らせた彩華。

「俺はもう拘ってない。悪いな、とは思うけど、それだけ」

 彩華に不審を抱かれないようにとゆっくりと話した俺だったけど、それは、自分に言い聞かせているようにも聞こえ、さっきよりも気持ちは沈んだ。

「……そういうのを拘ってるって言うのに」

 小声で呟くように言った彩華。

 小声だったから、周囲の雑音に紛れて聞こえなかったふりをしたけど、ふりだったことは、彩華も分かっていたと思う。

 面白くなさそうな彩華の態度に、小さく嘆息してから俺は言った。

「そもそも、もう連絡先も知らないよ」

「陸部の同窓会の時、ヒカルの同級生も来てただろ。あの子と同じクラスの――……そうだ、広瀬が確か同じだったろ?」

 嘆息して見せて、楽しい話題じゃないことを示しているのに、彩華は諦めてくれなかった。

「この前、俺がアドレス交換したのって彩華だけだよ」

 逃げるような台詞を吐いても、むしろ逆効果だったようで「じゃあ、アタシが掛ける」と、短く叫んだ彩華が、いつの間にか手にしていた携帯を操作し、耳に当てた。

 もう掛けているらしい。

「あ……。おい」

 止める間もなかった。

 とはいえ休日のこの時間帯は、向こうも寝ているとか、外出しているとか、そう、夜よりも出難いタイミングの気がした。

 だから大丈夫じゃないかな、と、胸の内の不安をなだめようとしてみるけど……。

「もしもし、広瀬か? 先輩様から電話だぞ?」

 残念ながら、電話は繋がってしまったらしい。

 どんな顔をすれば良いのか分からない俺が少し途方にくれていると、電話が繋がったことを伝えようとしたのか、彩華がちらっと俺の目を見て、それからすぐに携帯の方に視線を戻した。

「ああ、うん。……そう、一個だけ訊きたくてな」

 顔、強張ってないよな。

 彩華がすぐに視線を外したから、少し不安になって頬と口元をなぞるように右手で触ってみる。

 多分、まだ、平常心の範疇、だと思った。

「テルが……ああ、いや、ヒカルのことだよ。うん、そう。それで、高校の付き合ってた子って、どうしてるか分かる?」

 尋ねている彩華の声は、電話が繋がった時から変わらなかった。

 それも含めて、あんまり良い気分はしなかった。

 これは、済んだ事である以上、彩華はこの件に関しては第三者であるべきだったと思う。あの時、半端なことをしてしまった俺の非も認めるけど、それ以上に、終わった恋愛について穿り返されるのは腹が立つ。

「そう、その子。……うん、うん。……そっか。ん? いや、別に……。気にすんなよ。立て込んでるから切るぞ? ああ。じゃあな」

 電話を切った彩華は、すぐには結果を伝えてこなかった。携帯を鞄に仕舞い、一呼吸置いた後、改めて俺に向き直り――。

「あの子は、もう、結婚してるってさ」

 少し同情する、というか、悲しそう……って程ではないな、ともかく、そんなセンチな顔で、でも、ちょっとすっきりしたような色も見せつつ、彩華は、はっきりと言った。

 ショックは、全く無かったと思う。ああ、そっか――以外の言葉が、心に浮かばない。

 結婚したっていう事実だけじゃ幸せか否かは判断出来ないけど、あの子は、恋愛そのものを拒むような傷は負っていなかったんだろう。

 そういう面では、確かに少し安心した。

 けど、それなら、後は今の彼女の相方の仕事だと思う。悪いけど、俺が気を回す必要も理由も、もうない。

「彩華……そういうとこ、強引だよね」

 落ち着いて言えたと思う。予想以上に。

 でも、それもそうだ。自分の中で決着はついていて、忘れていなかっただけの過去に、相手のピリオドも重ねられただけなんだから。

 いや、それも違うな。俺にとってもあの子にとっても、過去は過去だ。例え今どうであっても、終わっていることなんだから、あの子の今を知る前と後で何も変わりようがないんだ。

 彩華の場合と違って。

「悪かったな……メンドクサイ女で」

 少しは悪いと思っているみたいだったけど、たいして反省はしていなさそうな不貞腐れた顔で言った彩華。

 謝罪を求めていたわけじゃなかったけど、彩華の反省の色が薄かったから、上手いフォローも思い浮かばない。少し様子をみようと黙っていると、焦れた彩華が荒っぽく声を上げた。

「悪いかよ。……年上なのに余裕が無くて」

 彩華が――。意外と可愛く拗ねたので、ちょっと驚いて、でも、その驚いた顔を非難するみたいに彩華に睨まれたから、やんわりと笑って俺は言った。

「年上だから余裕がないんじゃない?」

「言ったな、コイツゥ」

 冗談めかした彩華の台詞は鼻に掛かったような声だった。

 彩華の癖が昔の通りなら、しょげてるんだと思う。昔っから素直じゃないから、意地張った後の彩華は時々こうなる。

 正直、要らないことをされてムカついていないと言えば嘘になるけど、それだけで嫌いになるというほどの事でもない。

 ちょっとは済まないと思っているのなら、慰めるのはやぶさかでもない。

「頭、撫でようか?」

「うん」

 ショートカットの癖ッ毛を上手くまとめた彩華の髪は、基本的にはさらさらなのに、時々、流れに沿わない跳ねた髪のひと房が掌をくすぐる。

「あんまり、無茶なこと、するなよ」

「うん」

 素直な返事を返されていると、怒る気分はなくなってしまうし、苛立っていた気持ちも、落ち着いていく。

 学生時代にも自由奔放だった彩華が、人の恨みを買うことがほとんど無かったのは、この態度のおかげだったんだろうな。

「お互いに気持ちのベクトルは分かっているんだし、後は、ゆっくり近付けていければ良いんじゃないかな?」

 俺と彩華って、凄く中途半端な距離だと思う。

 昔、叶わなかったとはいえ、一応は両思いだったわけで――、今は、ちょっと良いなと思い合っているのは確認している。

 だけど、今すぐ付き合えるか、と訊かれれば、やっぱり少し尻込みしてしまう。

 嫌いな部分があるとかいうわけじゃなくて、もっと根本的な部分で、判断材料も少ないし、恋愛関係に至ることへの迷いもまだある。

 もっとも、同じくらいには、そわそわした気持ちもあるんだけど。

「……まだ、好きとは言ってくれないんだね」

 ポロっとこぼれた彩華の台詞に、心臓が急に冷たくなった気がした。

 彩華が一番気にしていたのは、終わった過去じゃなくて、どういう理由で俺が好きだと、はっきり言わないのか、という部分だったのか……。

 それを知りたくて、彩華が知っている俺の過去の恋愛も引き合いに出して探ってみたんだろう。

 でも――。

 好きと言えないわけじゃない。ただ、今、告げるのがふさわしいかと訊かれれば、違うと思う。

 それをどう伝えれば良いのかを迷いながらも、口を開こうとした俺。

 だけど、慌てて首を横に振った彩華が、一気に捲くし立てた。

「テルのタイミングで良いからな! だから、絶対、……嘘では言うなよ」

 出来るだけ早く言え、と、匂わすような強気な目を向けつつも、最後はちょっと弱気に語尾を弱めた彩華。

 自分を落ち着けるために一呼吸分の間を置いてから、俺はゆっくりと答えた。

「分かってる」


 それだけの俺の答えに、拗ねた目を向けた彩華。

 作った微笑で、微かに迷いのある本心を隠す俺。

 そう、今はまだ。

 恋へと向かう助走期間の中にある。


 言い切ってしまうことを躊躇わせる迷いが晴れたその時が、きっと――。

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