第2話 追憶

 ――それは、夏真っ盛りの水曜の夜の事だった。

「手紙?」

 電子メール全盛のこのご時勢に郵便受けに入っているものと言えば、電気・ガス・水道の検針票やマンション販売のダイレクトメール、ピザ屋のチラシぐらいなものなので、ごくごくありふれた手紙に最初に感じたのは違和感だった。

 真っ白な便箋には、上手くも下手でもない字で、俺の名前と住所が書かれている。印刷じゃなかったので、大学時代の恩師の顔がふと浮かんだけど、あの人の字はもっと上手いし、きっと毛筆で書くはずだ。おそらく、携帯のアドレスを交換していなかった――中学の頃の古い知人の誰かだろう。

 ともかくも、アパートの玄関先で冷房もつけずに突っ立っているのは建設的じゃない。

 ネクタイを緩めながら居間へと入り、鞄をいつもの場所へ放り投げ、汗で背中に張り付いたTシャツをワイシャツと一緒に脱ぐ。いつも通りなら、バスタオルを手に取り、このままシャワーへ直行するんだけど……。

 手紙の方が気になって、少し足取りが重くなる。

 夏の盛りに差し掛かっている今日は、早めにさっぱりしたいはずなのに、それ以上に意識してしまうっていうのはどうなんだろう?

 退屈な仕事の毎日に嫌気が差している? ……ま、多少はそれもあるかもな。でも、得てしてこういう期待は裏切られるのも常でもある。中身を見れば、なあんだ、の一言で終わり。

 見たいような見たくないような、どうしてか不思議とそんな迷う気分になって、結局、誘惑に負けた俺はシャワーの前に手紙を裏返し――。

「ふん」

 つい、裏に書かれていた差出人の名義に、無意識に鼻を鳴らしてしまった。

 やっぱり、現実はつまらないものだ。

 多分、ここに書かれている人達は、きっと俺と会いたくはないだろう。それでも、手紙を出したということは、ある種の免罪符としての意味合いが強いんだと思う。誘ったけど断られた、もしくは、返事が無かった、だから仕方がない、と。

 向こうが俺の不参加を望んでいることは、分かっている。

 いや、俺自身がそうなるように仕向けた部分もあるんだし、それを恨むつもりはない。

 かつての――高校時代の陸上部の名義で届いたその手紙の封を切らず、適当に本棚の上に放って、俺は風呂場へと向かった。


 その日は、それだけで記憶の外に追い出せた。

 だけど、翌日以降、暑さや仕事に疲れて帰宅するたび、少しイラつく存在感を持ってそれは俺を出迎えていた。


 便箋を開いたのは、少しは尖った気分も落ち着いた、手紙が着いて十日後の土曜日。

 定型分で高校の陸上部の同窓会の開催を告げる手紙には、最後に、手書きで一文だけ想定外の文字が添えられていた。

【来てくれると、うれしい。】

 この、上手くも下手でもない字は、あの人の字のような気がする。

 名前は書かれていないし、そもそもあの人の字は、学生時代はもっと下手だったような気がするけど、直感的にそう感じた。

 すると、その瞬間から、頭の中にあの快活な笑顔が蘇る。

「来てくれると、うれしい、か」

 自分で出した声なのに、目の前に浮かぶあの良く日に焼けた笑顔が煩い。

 心にもないことを、と、卑屈になる自分がいる。

 もっとも、あの人がどういう気持ちで付け足したのか、なんて俺は知る由もないんだから、言葉通りにだけ受け取って、そっと横において置けばよかっただけの話なんだけど。

 こんな陳腐な言葉でこんなにも色々と考えてしまうなんて、俺も存外、肝の小さな男だな。

 あの人のことだから、あの日の青春のほとぼりが自分の中で冷めたついでに付け加えたとか……。そうだな、他にも、案外軽い気持ちとか、悪戯心とか、からかいの類の言葉だったという疑いも有るのに。

 自分で考えたくだらないことに少し落ち込むも、それはそれで気の利いた皮肉だな、と鼻で笑う。

 ただ、俺自身の素直な気持ちとしては――。

 未だに、会いたいのかもしれない、あの人に。

 今となっては、もう、ずっと昔の事。始まりさえしなかった恋が、高校時代にあった。それは、きっと、今更もうどうしようも無いことなのに、その後悔が前に進む妨げになっている気がする。責任転嫁かもしれないけど、もう一度走り出すためには、決定的な何かが必要なのかもしれない。

 ショックは、来る予想が出来て、かつ、その覚悟さえしておけば、取るに足りないものだ。決定的な否定で過去を過去として締めくくるというのも、俺らしい決着のひとつだろう。

 そして俺は、返信希望日前日に参加の返事を出した。



 何かがおかしいと思ったのは一瞬で、何故か俺の違和感はあっという間に霧散して、俺は再びその光景を――少し外側から見ていた。

 でも、この後に何が起こるのか分かる。

 覚えている?

 夢を見ている?

 そう気付けたのは一瞬で、おぼろげな意識の中で彩華を意識すれば、より鮮明な過去が浮かび上がって、気付きかけた俺の意識は再び、少し昔の映像に思考を奪われてしまった。



「なんで、飲み会なのに一人で居るかな……」

 上から落ちてきた言葉に顔を上げれば、少し気まずそうな、というか、不満そう? いや、表現が少し難しいけど、ともかくも、反省しつつ拗ねているような、そう、悲しさと怒りが混じったような表情の彩華先輩がいた。

 見下ろす視線は、真っ直ぐに僕を見てはいない。

 視線が合えば逸らされてしまい、それでも見続けていると、もう一度俺と目を合わせてくれるのに、視線が合って十秒もしない内にすぐにそっぽを向かれてしまう。

 彩華先輩も迷っているのかも。

 いや、確実にどう接すれば良いのかで迷っているのか。

 ……まったく、自分からあんな一文をつけたくせに、俺が来るのを予想していなかったような態度だな。

「隣、座るよ?」

 尋ねるというよりは、決定事項を伝える口調で言った彩華先輩。

 仏頂面で応じると、俺と同じような仏頂面をした彩華先輩が隣の席に座った。

 喋ろうとしているのにくっつかないのが、やっぱり俺とこの人の今の距離だよな、と、半ば自嘲するように笑い、そして、向けられた彩華先輩の不思議そうな視線にゆっくりと首を横に振る。

 そんな俺の態度に、ムッとした顔になった彩華先輩。

「食ってはいるんだね、アンタ」

 でも、その一拍後、殆んど空になっている俺の膳を見た彩華先輩は、ちょっと呆れたように呟き、グラスに半分残っていたビールを、無理やり俺の手に押し付けてきた。

「強くない」

 もう温くなっているビールを受け取りつつも、新たに注ぎ足そうとする彩華先輩を遮って、やんわりと首を横に振って答える俺。

「そう?」

 俺の声は、はっきりと聞こえたはずなのに、小首を傾げ楽しそうに笑った彩華先輩は、俺の手からグラスを引っ手繰り、自分のグラスを並べて置き、両方になみなみとビールを注いだ。

「俺の話、聞いてる?」

「聞いてるよ」

 しれっとした顔で返事した彩華先輩は、ようやく見付けた些細な話題――というか、からかいのネタを手放す気はないのか、悪戯っ子の表情で応じている。

 やれやれ、と、小さく嘆息する俺に、彩華先輩はさっきまで自分で使っていたグラスを手に取り、俺に押し付けてきた。

「グラス、逆じゃないか?」

 受け取る前に、一応指摘してみると、彩華先輩は素っ気無い風を装って答えた。

「そうだっけ? まあ、気にすんなよ」

 意識していないように言っている彩華先輩の指先が、微かに震えているのに気付いた。

 グラスは、わざと間違えたんだろう。

 おそらく、俺がそれに気付くことも織り込み済みで。

 ……まったく、どういうつもりなんだか。こっちは、もう、変な期待は抱きたくないのに。

 俺が一口だけビールを飲む間に、彩華先輩は――間が持たなかったせいもあるのか、グラスの半分を空にした。

「では、お注ぎしますよ。先輩」

 俺は、試すように少し尖らせた声で言った。

 彩華先輩に、漠然とした第三者、としての今の俺達の境界線を示す意味も込めて、敢えて名前も苗字さえも入れずに、ただ、先輩とだけ呼びかける。

 どの程度、俺の意図したことが伝わったのかは解らなかったが、一瞬だけ彩華先輩のハッとした顔が見え、俯き――、だけど次の瞬間、傲岸に……不遜に笑った彩華先輩がグラスを俺の目の前に突き出して来た。

 ふっ、と、薄く笑って突き出されたグラスにビールを注ぐ。

「アタシも注ぐから、とっとと飲んじゃえよ」

 注ぎ終えた俺に向けられたのは、少し無理した彩華先輩の明るい声だった。

 だから、もう、それで充分だと思った。

 試しちゃって悪かったかな? とは思うものの、ここにいるのは昔の一件で用心深くなってしまった俺なんだから、同じような苦い気持ちを今でも引き摺っている証拠はどうしても欲しかったんだし、仕方が無かったとも思う。

 まあ、思春期には色々なことが起こるものだ。あれも、そうした一過性の自尊心と自意識、そういったものがこんがらがった結果のひとつだったんだろう。

 うん。いずれにしても、俺にも彩華先輩にも良い事ではなかったけど、もう終わったことだ。

 黒歴史のひとつにでも数えて、とっとと封印してしまおう。


 かさぶたを無理に剥がさなくても、そのままにして置けばいいか、と、その時の俺は結論付けていた。


 ――と、いつまでも酒を飲まない俺を急かすように、彩華先輩が、まだかなり残っているグラスに無理にビールを継ぎ足そうとしたから、慌てて俺は返事した。

「いや、いらない」

 八割方残っているグラスを、彩華先輩とは逆側に置き、さっきまでよりは砕けた笑顔を向ける。

 ビール瓶を持ったままの彩華先輩と、一口分のアルコールが昇ってくる感覚にボーっとしている俺。

「素直になれ!」

 静かだったのは十秒にも見たない時間で、再び間が持たないと感じたのか、不貞た顔の彩華先輩に耳元で小さく叫ばれてしまう。

 俺としては、非常に素直に答えたんだけど……。

 視線での抗議は当然のごとく無視されてしまい、少し無理してグラスの六割を空けた。

 そんな俺の顔を見たに彩華先輩は、にやけた顔で俺のグラスいっぱいに再びビールを注いだ。

 その手の中のグラスを見て――、それから、まじまじと彩華先輩を見詰める。

「なに?」

 不躾な視線を向けられた彩華先輩は、最初、不満そうに口を尖らせたけど、すぐに何か失敗があったのかな? というような不安そうな表情に変わった。

「乾杯」

 せっかくだから、と、グラスを出した俺に、戸惑った顔になった彩華先輩がグラスを重ねる。

 同じタイミングで一口を飲み――。

「変な男だよな、お前も」

 呆れた、というよりは、感心したような口ぶりで言った彩華先輩。

「そういうの、嫌いじゃありませんでしたよね?」

 自嘲を込めた冷えた微笑を差し向ける。

「まぁ……ね」

 ほんの少し気圧されたような顔をした彩華先輩は、曖昧な返事を返し、グラスに口をつけ、飲んでいるふりをして縮こまってしまった。


 以降の会話は、余り弾まなかった。それはそうだろう、俺と彩華先輩の間には、もう、十年以上の時間の溝が横たわっている。だけど、俺たちは最後まで二人で並んで飲んでいた。

 そして、二次会を辞退した俺は、彩華先輩と――……。



「ちょっと! 大丈夫?」

 喧しい声に揺り起こされ、目を開ければやっぱりここは真夜中で、澄んだ星空に銀色の三日月が浮かんでいる。

 昔の夢を見ていたんだろう。いや、夢って言うよりかは記憶の混濁と言ったほうが正しいか。さっきまでの出来事は、過去を思い出してしまうには充分すぎる材料だったのだし。

 しかし……。

 体調に関して言うならば、全然大丈夫じゃない。

 起きた直後は気付かなかったけど、意識がはっきりしてくると、胃の不快感がかなり酷い。腹の中で内臓がかき回されている感じがする。

 虚勢を張る元気も無いまま、取り合えず上体だけを起こす。

 走って倒れた? んだと思う。酒のせいか、記憶もあやふやだけど。てか、走って良くなった血行で、酔いが一気に回ってダウンしたのか……。

 だから飲めないって散々言ってたのに。

「頭が、イタイ」

 ぶつけたのか悪酔いなのかの区別さえつかない頭痛に、取り合えず額に手を当ててみるけど、痛みは全く和らがなかった。頭を振って頭痛を追い出すことは――、不可能だな、そんな事をすればきっと吐く。

 とはいえ、道で寝転がっていては通行の邪魔だし外聞も悪い。

 そう中途半端な理性が判断し、近くの――バス停のベンチに、よろけながら座る。

 立っているのよりはましだけど、横になったほうが楽になりそうな気がする。っていうか、寝転がりたい。でも、横になったら、そのまま寝入ってしまいそうだ。

 そういうみっともない姿は見せたくない。

 特に、今の彩華には。

「飲んで、はしゃぐから酔いが回るんだよ?」

 諭すように言った彩華に、けしかけたお前が言うか? と、問い詰めたい気分になったが、それ以上に、何か喋ったらそのまま吐きそうだったから、俺は口を押さえて鼻で深く息をする。

 秋の風が冴えていて助かった。

 夏のあの雑多な匂いが風にあったら、きっと、既に落ちていたと思う。


「吐くのと、水飲むのと、どっちが良い?」

 必死で堪えている俺に向かって、どこか少し楽しそうな声が頭の上から降ってきた。

 視線を上げれば、さっきと逆の立場になったのを楽しむ顔をした彩華がいた。

「とっとと帰る」

 ちょっと腹が落ち着いたので、ぶっきらぼうに俺は答え、なぜだか俺とは逆に元気になった彩華に背を向け、最後の砦の虚栄心を武器に俺は歩き出す。

「ちょっと待てい。まだ、判定中だ」

 一歩も踏み出さないうちに、彩華に羽交い絞めにされ、再びベンチに座らせられた俺。

 まったく……。

 今、お互いにとって、とても重要で大切な場面にいるのに、ドラマのワンシーンなんて決して呼べない、中途半端なかっこ悪さがある。舞台にいるのが酔っ払いの二人なんていうロマンチックなんて程遠い今の状況に、多少やけっぱちになった表情で「あー、もー」とか言いながら、俺は彩華と向き合った。

 彩華は彩華で半端に酔った顔を突き出し、からかうように尋ねて来た。

「っていうか、なんで女のアタシと引き分けるかなぁ?」

 ちょっとねちこい視線で尋ねられても、俺としては負けなかっただけましだったとしか言えない。ついノリで受けてしまった勝負だったけど、社会人になってから運動なんて全然していなかったんだし。

「もう長いこと走ってないからな」

 ぶっきらぼうに答える俺に、素で不思議そうな顔を向けた彩華先輩。

「テル、今、何してるんだっけ?」

「ヒカル、だ。塾の講師をしてる」

 わざとらしく間違えられた名前をきちんと訂正してから、俺は仕事についても答えた。

 そういえば、お互いの仕事の話もさっきの飲み会ではしなかったんだっけ……。まあ、好景気ならまだしも、今のご時勢に愉快な話題でもないからお互いに積極的に話さなかったってのもあるんだろうけど。

「ああ、なーんか、分かるなー」

 彩華がニヤニヤした顔でそんな風に答えている。

 分かる……のか? 目付きも悪いし、意外と言われる事の方が多いんだけどな。きっと彩華も、まだ酔っているんだろう。

 そういえば今更だけど、彩華は今何をしているんだろう? OLでは無さそうだけど、一応、物腰から就職していそうな雰囲気ではあるな。あと、少なくとも、俺よりは運動しているんだろう。ただ、女性で身体を動かす職業って言うと――、警官って雰囲気でもないし、スポーツインストラクターとかか?

「少しは運動した方が良いんじゃない?」

 考える俺に、ほんの少しの優越感を感じている表情で、ありきたりな健康指導をし始めた彩華。

 その目を俺はまじまじと見ていたんだけど、ふと、冗談というか軽口が浮かんだ。

 ただ、浮かんだ瞬間は上手い気がしたものの、いざ言うとなると、受け取られ方によっては拗れてしまいそうな気もした。

 けど、彩華は間を楽しむ性質ではないので、目で返事を催促された俺は――。

「……過去にハートに負った傷が原因で引退したんだ」

 演技過剰気味に肩を竦め、ちょっと寂しそうなな笑みを口の端に乗せてみる。

 その瞬間、言いあがったなコイツ、とでも言いうように、彩華は思いっ切りしかめっ面をした。

 半ば予想通りのその反応に、軽く舌を出してから、顔を背ける。

 顔を背けても、彩華の湿度の高い視線が暫く俺に注がれているのには気付いていた。だけど、ツンとした態度を崩さないでいると、彩華が俺の顔の正面へと移って来た。

「癒してあげようか?」

 上から目線で、少し偉ぶった口調で更に顔の距離を近付けた彩華。

 勝気な笑顔に、つい、癒されたいと言いそうになってしまったけど、流石にさっきの今では、節操が無い。

 酒臭く熱っぽい息をかける彩華に、俺は確認するように尋ねた。

「……引き分けだっただろう?」

「そうだよ。二人とも負け。だから、全部するの」

 名案でしょ? と、ニッコリと笑った彩華は、表情の裏にさっきの俺のつまらない軽口を質に取っているんだぞ、という凄みも込め、腰に手をあて、更に上体を近付けてくる。

「早まるなよ」

 相変わらず性急な彩華に、俺は呆れたような声でたしなめた。

「むしろ、遅すぎるくらいじゃない?」

 俺の諫言を全く意に介さず、逆に問い掛けてきた彩華。

 彩華が何を遅すぎると言っているのか分からず、その真意を量るように見詰め返す俺。

 そんな俺の視線に、やっぱりね、と、少し笑った彩華が、ちょっと演技過剰に「大人になってくると、あの頃みたいな恋は出来ないものだよ、キミィ」と、言い、彩華を見詰めていた俺の眉間を人差し指で軽く突いた。

 眉間に当てられた彩華の指を寄り目になって見つめ、それから焦点を彩華の顔に合わせた俺は、素直に本心を口にした。

「別に、法律で禁止されているわけじゃないんだし、大人のする焦れるぐらいでピュアな恋愛もいいと思うけど?」

 視線が真っ直ぐにぶつかる。

 重なった瞳越しに、一拍だけ空白の間があり――。

「ふふん」

 人差し指を離し、威圧的な笑みを浮かべた彩華は、少し戸惑う俺を他所に、急に話題を変えて再び尋ねて来た。

「テルも実家暮らしだったよね?」

「いや……テルが誰かは知らないけど、両親は俺が大学に入った時に山梨に帰ったよ」

「山梨?」

 俺の口から出た地名が全く予想外の場所だったのか、彩華は訝しげに小首を傾げた。

「ああ、実家はそっちだから。元々、ここには親父の転勤で来てただけだったし――、って、言ったこと無かったっけ?」

「うん、無い。テル、そういうの秘密主義だったじゃない」

 彩華に即答され、少し考えてみる。

 そうだったっけ? んー、言われれば、そうなのかも……。

 でも、家族の事とか、そんなに人に話すものなのだろうか? そういうのはあんまり重要な話でもないし、場合によっては藪蛇な話題だから、積極的には家庭の事情を話したり訊いたりしていなかったかも。

「一戸建て?」

 考える俺に、また彩華は質問を重ねてきた。

 俺は、さっきと同じように首を横に振ってから答える。

「普通のアパート」

「そっか……。でも、ひとりじゃ広くない?」

 ちょっと甘ったれた問い口に、ようやく次の展開が予想出来た俺は、抑揚のない声で即答した。

「広くない」

 予定していたシナリオから外れたのを感じたのか、彩華は口を尖らせて「素直になれ、素直に」と、言いながら俺の頬を軽く抓った。

 いや、抓る、というよりは、揉むに近いような力加減で彩華の手が顔に触れている。

 少しくすぐったい。

 物理的な意味、以外にも。

「良いの? ここで俺が素直になっても?」

 少しだけ彩華の態度に疑問を感じ、確認するように俺は聞いてみた。やっぱり俺も男ではあるので、あんまり積極的になられると自制が利かなくなりそうで。

 問い掛けた瞬間、彩華がちょっと迷ったのが表情や、強張った肩から読み取れたから、嘆息して、俺の頬に添えられていた手を剥がした。

「分かった、捻くれていることにする」

「違わないけど、違うからね!」

 ガラにもなくちょっと慌てた彩華が、払った俺の手を掴んで短く叫んだ。

 否定の言葉だけを並べた台詞。理由にまでは気が回らなかったんだろう。良い趣味じゃないかもしれないけど、その焦る姿にはさっきまでのギャップがあって、ちょっと微笑ましい。

 もっとも、俺の方も本気で気を悪くしたわけじゃないので、推察した彩華の気持ちをすぐに口にして、答え合わせをしてみるんだけど。

「分かってる。俺が上手く止めるの込みでの態度なんだろ?」

「……うん」

 殊勝に頷いた彩華は、ちょっとだけ可愛かった。

 可愛かったから、つい、余計なことまで口にしてしまった。

「ひとつ助言をするなら、理性の抑えが利く人と付き合う場合、十回に一回ぐらいは、日頃のからかいを受け止めることに対する労わりを態度で表す必要があるんだぞ? そうじゃないと、些細な喧嘩が最後になるからな」

 言い終えると、つられたとしてもガラにないことを口にしてしまった恥ずかしさから、俺はそっぽ向いて、努めて不機嫌を装った。

 でも、長い長い間が空いて、流石に誤解されたかなと不安になった頃、ようやく彩華からの返事があった。

「努力する」

 ニュートラルな声を不思議に思い、横目で彩華の表情を窺えば、少し気落ちしたような――。ああ、そうか、ようやくあの時の行動の理由の一端が伝わって、それでショックを受けたのかも。

「ともかくも、まずは友達からはじめよう」

 雰囲気が重くなり過ぎないように、上手くまとまったような雰囲気だけをだしつつ俺が冗談めかして言うと、流されて頷きかけた彩華は、急にハッとした顔になり、少しだけにやけてから、清々しいくらいに不満いっぱいに叫んだ。

「それ、体の良い断り文句!」

 あはは、と、笑ってから、大きく息を吸う。

 笑われたことに関してか、さっきの俺の台詞に寄るのか、彩華は膨れっ面をしていたけど、いきなり真面目な顔になって拗ねたような口ぶりで話し始めた。

「テルは、アンテナの感度がバカだからわからなかったかもしれないけど……。昔のアタシは、好きだからちょっかい出してたんだからね!」

 甘い雰囲気なんて程遠い、少し責めるような口調で、怒ったように彩華が告げた。

 照れ隠しの意味も込めているのか、必死で口元が緩むのを我慢して不機嫌な顔をしている彩華。

「ああ、俺も、今日、そうだったのかなって思った」

 わざとらしく茶化せば、今度は本当に不機嫌な顔をされた。

「遅すぎ!」

 あの時、もう少し分かりやすい形で彩華にとっての特別な位置に俺がいることを教えてくれれば、あるいは違った結末だったのかもしれない。

 でもその場合、ただの青春の恋が、はたして今も続いていたかは分からない。

 人生は難しいものだ。

 いつまでもぶちぶちと小声で文句を言っている彩華に、俺も当時の気持ちを素直に告げた。

「好きだったよ」

 過去形で――、終わってから気付き、だからこそ何所へも行けなかった気持ちに区切りをつけた俺。

 だけど彩華は、言葉の意味を……過去形にした理由を完全には理解していない顔だった。

 別にそれでも良いと思った。

 同じ時に同じように好きになったわけじゃなくても、今は違うんだから。

「そして、今は、また好きになりはじめているのかも」

 軽い気持ちではないけど、告白というほどの重みも出さずに俺は続ける。、

 そして、彩華の戸惑い続けている顔に、悪戯っぽく笑いかけ「まだ初期症状で、彩華が近くにいると、少しそわそわした――良い意味で落ち着かない気分になる程度だけどね」と、耳打ちするように囁きかければ、ようやく納得のいった顔をした彩華が鷹揚に頷く。

「なら、いい。きっと、上手くいく」

 彩華に断言されると、俺もそんな気がしてしまう。

 流されてばっかり、なんていうのも、振り回される一方で望まない結末になった昔を顧みれば良い傾向じゃないのかもしれないけど、今度は違う。

 そんな予感が俺にもある。

 丁度途切れた会話に、酔いも落ち着いた俺が立ち上がると、彩華がすぐに横に並んで――。肩に手を乗せられたと感じた次の瞬間、その手に一気に体重が掛けられ、矢継ぎ早の出来事に対処する前に、頬になにかが触れた。

 いや、なにかじゃないな。どういう状況になったのか分かってる。彩華の唇が頬に一瞬だけ触れた。

 でも、いきなりすぎて――。

「参加賞だから、ここまでね」

 俺が何か返すより早く、そうするのがさも当然といった照れを隠した横顔で、一歩前に出た彩華が右手を後ろ手に差し出してきている。

 顔が熱い。

 けど、慌て気味に軽くだからちょっともったいなかったな、なんて調子に載った感想を抱けるほどには頭が働きだした。

 我ながら現金なことだ。

 ふ、と、軽く笑ってから、ほっそりとした指を包み込むように彩華の手を握る。


 今、再び並んで歩き出した俺達の背中を、秋の追い風が優しく推していた。

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