秋の追い風

一条 灯夜

第1話 秋の追い風

 少しだけ冷えた秋の風を、胸いっぱいに吸い込んだ。飲み過ぎたせいか、熱を持った口の中を冷ますように勢い良く。

 吐き出した息は長い溜息のようにも聞こえ、夜の高みへ消えていった。

 空を仰いだ視界に映るのは、銀色の細い月と瞬く星。午前二時の世界は、人の気配も街灯りも希薄で、全ては静かな夜の中にあった。

 鮮やかだった夏の残滓を数日前の台風が一掃したせいか、風にはじっとりとした重い質感はもう感じられない。軽やかな大気に、微かに鈴虫や蟋蟀の音色が混じっていた。

 秋の始まりに相応しい、涼やかな夜だった。

「役得だろ? ぼでぃには自信があるからな、アタシは」

 風流を全く理解できていない酒精に満ちた声と共に、じっとりと湿った息が耳に掛けられる。右腕にしがみ付くようにして預けられた彩華先輩の体重は、自己申告の通り重すぎず軽すぎず、柔らかさと温かさとしなやかな大人の女性の気配を伝えていた。

 だから軽く目を閉じて、眉間に皺がよってしまわないように感情を抑え込む。視力が弱いのにメガネを嫌がったせいで、俺の目付きは指名手配級なんだそうだ。そんな人相を、自分から余計悪くする理由は無い。

 もっとも――表情を意識する必要な相手が、この辺りにいるかといわれれば、否だけど。

「無視で~す~か~? あれか、テルはツンデレか?」

 俺が無言で耐え忍んでいるのをいいことに、久しぶりに会った高校の部活の先輩は好き勝手なことを言って、しかも、言い終えた後も酒のせいで呂律も怪しいのに、独りで何事か騒いで盛り上がっていた。

 ……まったく、これだから酒は嫌いだ。分解酵素が無いから気持ちよく酔うなんて事は土台無理な相談だし、酔った人間の相手をするのはストレスが溜まる。

「俺の名前は、照と書いてヒカルなんですけどね。確かに字はテルっても読めますけど、他の男と間違ってお持ち帰りしてませんか?」

「やーだー、もう、分かっててやってるんじゃない」

 皮肉を込めて言った一言には、全く悪びれていない表情の挑発が返ってきた。睨みつけて黙らせようかと思って顔を向ければ、いきなり視線が正面からぶつかる。それがなんだか照れくさく感じて少し俯いてしまった。そのまま彩華先輩の顔の下半分を覗き見れば、どっかの童話の猫みたいなニヤニヤ笑いが口元に浮かんでいた。

 心を落ち着けてから顔を上げると、やっぱりすぐに目が合って――。少し色の薄い瞳でまじまじと見つめられるのがくすぐったかったけど、今度はなんでもないふりを装って見つめ返す。


 確か、アメリカンショートヘアとかいう猫みたいな名前の髪形は、それを教えられた十数年前から変わっていない。キリッとした目も、引き締まった張りの良さそうな頬も。直射日光にさらされる陸上部に在籍していた名残なのか、少しそばかすがあったけど、凛々しい顔にあるせいか、逆にちょっと可愛らしくさえ感じる。

 それからふと、そばかすが分かるくらいに薄くしか化粧していないんだなって気付いて、どうしてか分からないけど、……嬉しくなった。それを知られたくなくて、今度は視線を横に逃がそうとしたけれど、追いかける様に顔を近付けられる。

 縮まった距離に、一瞬、胸の大切な部分を打ち抜かれた気がしたけど、じっとりした酒臭い息を掛けられると一気に萎えた。酒を理由にした過ちなんて、俺らしくもない。冷静でもない人間相手に、本気になんてなれはしない。

 まったく、年上の女はこれだから……。ドキッとさせられた瞬間に、ちょっと粗野な面も見せて来るから、始末が悪い。本心を見せられる程に信頼されていると言えば、聞こえは良いのかもしれないけど……いや、飾らな過ぎるのもどうなんだろうな。

 それからの十秒間は、しがみついている俺の腕を引き寄せようとする彩華先輩と、先輩が倒れないように気を回しつつも、必要以上に顔が近付かないようにする俺との引っ張り合いが始まったけど――。酔っているせいか、いつまでもしつこくまとわりついてくる彩華先輩に苛立って、……でも、性分なのか、それとも昔の事で感じる引け目のせいか、あんまりなことは出来なくて、眉間をデコピンで弾いた。

「って~!」

 俺の右腕を離して両手で額を押さえた途端に、支えがなくなったせいか、先輩はよろけて、街灯近くのブロック塀に背中を強かにぶつけて、そのまま寄り掛かった。

 ぶつかった音が随分派手で、だから、大丈夫? と、訊こうとしたけど止めた。楽しそうに笑っている口元が、そのままだったから。

「アハハハハ、ハハ……はぁ~ぁ」

 最後に、溜息のように笑い声を切った彩華先輩。

「イケメンをお持ち帰りしたかったら、せめてほろ酔いで止めるべきでしたね。調子に乗って酔いつぶれるから、可愛くない後輩に護送されるんですよ」

 呆れ顔を直す気はなかったけど、心配している気持ちを婉曲的に込めて、たしなめるように俺は言った。

「アタシは、護衛がお前だから不満じゃないんだぞ」

 真顔で堂々と言い放った彩華先輩に、照れ隠しもあってか「大人なんですから、人の気持ちも考えましょうね?」と、からかうように返したら、彩華先輩は凄く面白くなさそうな顔になっていた。

 やっちまったかなと思った時には、もう遅い。踝の衝撃で、足を蹴られたことに気付く。

「蹴るなよ」

 革靴の横の部分に当たったし、そもそも彩華先輩は前後不覚の状態なのだから、蹴りの威力なんて全然無い。

 むしろ、先輩の方がその反動で少しよろけて、一瞬、手を伸ばしかけた。

「余計な事ばっかり言うなぁ!」

 若干怪しい呂律のままで、精一杯叫ぶ彩華先輩。

 据わっている目で睨まれつつも、適当にはいはい頷いて、酔った人間が苦手なのは、こうした感情の急激な変化が嫌いだからなんだよな、と、心の中で愚痴る。ちょっとの刺激で、怒ったり馬鹿笑いしたり泣きだしたりして、本当に扱い難い。

「そもそも先輩、酒弱いなら――」

 と、そこまで言いかけて、そもそも先輩がどれ程飲んだのかを知らないことを思い出して、出掛かった言葉を止めた。

 飲み会の終わりの三十分ぐらいしか俺は彩華先輩の近くには居なかったし、その場ではそこまで飲んでいなかったのは覚えている。けれど、俺の隣に来るまでの間に出来上がってはいたので、正確な酒量は分からない。

 もっとも、息の酒臭さから飲んだ量は少なくは無さそうだ、とは、判断出来てしまうけど。

 ……まったく、身構えていたのが馬鹿らしくなるぐらいに、彩華先輩は酔っていることを免罪符にしてあの頃のままのノリで絡んで来たんだから、堪らない上に報われない。

「飲みすぎて良い事なんてひとつもないんですから、程々で次から止めてくださいね」

 溜め息混じりに俺は言い直してから、残り十分ぐらいの二人だけの行進を再開するために右手を差し出す。だけど、その掌を一瞥した彩華先輩は、酔っ払い特有のとろんとした目で俺の顔を上目遣いに見上げた。

「あ~や~か~!」

 彩華先輩は何を思ったのか、いきなり大声で自分の名前を名乗り、不満そうな粘っこい視線を俺に向けた。

「はい?」

「もう学生じゃないんだぞ! いつまで先輩なんて呼ぶんだよ?」

「歳の差は、例え死んでも逆転しないと思いますけど?」

 言っている意味が分かってしまったから、俺は澄ました顔で分かっていないふりをしてみる。一拍だけ、お互いに考える間を取るために。


 決断は、アルコールの手伝いもあっただろうけど、彩華先輩の方が早かった。

「二人の時は名前だけで呼べ」

 傲然と不機嫌そうな顔で偉そうに命令してくる彩華先輩に、変わってないな、と、しみじみ思ってしまう。そういう部分を感じると、きまって心の古傷が騒ぐのにな。

「彩華、歩けるか?」

 呼び捨てで名前を呼ぶと、胸の奥の忘れかけていた部分がトクン、と、小さく鳴った気がした。

 でも、当の彩華の方はといえば、折角名前で呼んだと言うのに、特に表情も変えずに――といっても、酔いによるニヤケもあったから、相対的には悪くない表情だったけど、拘った割にはあっさりとしか返してくれなかった。

「ん――、もう少し」

 上を向いて少し荒い息をしている彩華を見て、自嘲的な笑みを浮かべる。

 この人は、もう忘れたんだろうか?

 ……多分、きっと、そうだ。遠い昔の未熟で淡くて純粋すぎる恋心を、二十代も終わりかけの現実を知った今でも引き摺っている俺が女々しいだけ。



 ――あの日もこんな秋の始まりで、思い出すとまだ苦いモノが込上げて来る。

 それは、未だに後悔と結論付けられるほど完結した出来事ではなく、今でさえも未完成で強い焦燥感や憤りやそうしたごちゃまぜになった感情を伴うものだった。


 彩華は昔から自由過ぎる人だったと思う。傍若無人な振る舞いは多かったけど、面倒見は良い方で責任感もあり、不思議と人を引き付ける魅力があって――、周囲からは、しょうがないなぁ、なんて苦笑いされながらも、それでも誰からも好かれるような人だった。

 手が掛からない、の一言で終わる俺の対極にあるような人間だ。


 それは、その年の最後の記録会が終わって一ヶ月後の晴れた秋の日で、月に一度の長距離のタイム測定の日だった。

 そう、本当に特別なことなんてなにもない日だった。

 それなのに……。

 だるいな、なんて思いながら、スタートの準備をしていると、夏は終わったというのに、未だに上は半袖のままの彩華先輩がニヤニヤした顔で近付いてきて――。

「もし、アタシに勝ったらつきあってあげるよ」

 彩華先輩は、俺の耳に口を寄せて囁く様に告げた。

 その表情からは、それが絶対負けないと言う自信から来るのか、そうなることもやぶさかでないからなのか分らなかった。ただ、そんな風に、いつも繰り返される性質の悪いおふざけが、俺が彼女に真摯に向き合う事をさせてくれない。

 気に入られている証拠だよ、なんて周囲に言われたところで、当事者じゃないから言える台詞と聞き流していた。

「なめてると、そのうち痛い目みますよ」

 苛立ちを押さえた冷めた口調で答えると、彩華先輩はからかうように軽く鼻で笑って散歩後ろに下がって構えた。

 ここまでのやり取りに、普段と違うところなんてなかった。彩華先輩にからかわれる、いつも通りの部活だった。

 ……だから、理由を訊かれても、未だに分らないとしか答えられない。どうしてその日だけ、冗談を冗談として受け流せなかったのか、なんて。余裕ぶってる彩華先輩の態度にムカついたのか、惹かれながらも縮まるとは思えない距離自分とは別のタイプの人間だってことに焦れていたのか。

 でも、ともかくも、その時既に自分の中で決めていた。今日勝てなかったら、二度と彩華先輩と関わらないと。

「位置について」

 顧問の号令で、スタートの態勢を取る。前に出した右足に重心を移して、爪先に力を込める。

「ヨーイ」

 ゆっくりと心の中で、三カウントする。スタートには自信があった。

 先行して逃げ切る。それ以外に思いつく作戦は無かった。

「ドン」

 スターターピストルを使わない練習だから、口で言った合図がちょっと子供っぽくも聞こえたけど、それにニコリともせずに一気に飛び出した。さっきの彩華先輩との会話を盗み聞きしていた何人かが、微笑ましい視線を送っていたけど、全部無視して一気にトップに立って引き離す。

 勝った、とは思わなかった。むしろ勝てないだろうなって、考えてた。客観的にそれだけの実力の差があった。男女の差だけでは追い抜けないくらいの。

 全国区の大会へ行けるレベルの長距離選手の彩華先輩と、地区予選敗退の中距離の俺との三千メートルの勝負なんだからそれも当然だ。

 二百メートルの校庭の一週目は余裕で駆け抜け、二週目、三週目もトップだったけど、四週目では完全に息が上がった。

 でも、それはいつものこと。中距離は、それでも全力のままで走れるか否かを試される競技だ。

 けれど、体力は正直で、後ろとの距離が徐々に縮まり、男子の何人かに追い抜かれる。少しずつ少しずつ落ちていく順位。


 ……結果は予想通りだった。いや、むしろ、予想より悪かった。彩華先輩がゴールする背中を見る破目になったのだから。

 走り終えた後で、膝に手をついて浅い呼吸に、長い深呼吸を混ぜていると、やっぱり彩華先輩が近付いてきて、意地悪く笑った。

「ふっふ~ん、やっぱり勝ちは揺るがなかったね。そもそも……」

 軽い調子で話されるのが耳触りで、無視していても意に介さない態度が癪に障った。だから、ひとつ大きく息を吐いてから、俺は彩華先輩に背を向けて歩き出した。

 水分補給か何かだと思った彩華先輩が俺の肩に手を乗せてついて来たけど、その手を払い落して、話しかけられた言葉の全部を無視した。

 彩華先輩のからかいを、へらへらと笑って困った顔で誤魔化さなかったのは、多分それが初めてだった。


 ――それから彩華先輩を避けた。今日という日まで、十年以上ずっと。

 生まれて初めて告白されたのが、その勝負の一ヶ月後だったのも理由の一つだったかもしれない。それは、本当は感動的な場面で、一生抱えていくような思い出なのかもしれないけど、細部はもう覚えていなかった。色々とまいっていた時期だったせいかもしれない。彩華先輩を避けてるからか、部活でもかなり孤立してしまっていたし。

 ただ、その時付き合った女の子の笑い方が特徴的だったのは、今でもすぐに思い出せる。『あはははは』って長く笑うんじゃなくて、すごく短く一気に息を吐き出す感じで『あはっ』って明るく笑う子だった。

 彼女からの告白が、思春期最大の分水嶺を俺に越えさせた。

 今、当時の自分を少し冷静に振り返ってみると、あまり面識のないクラスメイトだった彼女を恋愛の対象として意識したことは無かったのが分かる。それでも、自分自身の整理できない気持ちを持て余して、正直疲れていた。だから、甘えたかったんだと思う。真摯な眼差しで俺を見てくれた彼女に「はい。喜んで」と、答えてしまったのは。


 でも、俺のそういう部分に、彼女は気付いていたんだと思う。関係が、長くは続かなかったのだし。

「ごめんなさい。自分から告白しといたくせにずるいんだけど……」

 付き合って一ヶ月ぐらい経った頃、電話越しに震える声でそう切り出した彼女。

 ショックは無かった。むしろ、やっぱりな、という感想が頭に浮かんだ。

「別れたいんだ」

 はっきりと告げる彼女に、俺は理由を訊かなかった。訊くだけの理由を、持ち合わせていなかったのかもしれない。彼女もそれについて何も言わなかった。

 それでいいと思った。

 むしろ、最後まで俺を気遣うような言い回しで別れを告げてくれたことが――、彼女から俺の中にある彩華先輩への半端な未練を非難されなかったことが、……少し辛かった。

 あの子は、きっと、優しすぎたんだ。

 自分の青春を省みるなら、きっと一番の被害者はあの子だったと思う。

 償いなんて今更だけど、せめて、この瞬間に、彼女が幸せでいてくれたらなって思った。


 十代の頃の俺達には、誰が誰と付き合ったって情報はどんなニュースよりも重要視されていた。だから彩華先輩も、俺が恋人を作ったことも、一ヶ月で分かれたことも知っていたんだと思う。その影響もあってか、校舎や部活でばったり会うことがあっても、お互いに気が付かないフリをするようになったんだから。

 ただ、不意に目が合う時には、怒ったような悲しそうな顔をされた。

 それに関しては、あの人もそういう顔をするんだなぁって、少し驚いて、俺自身は努めて多くを考えないようにしていた。


 それから、年が明けて、春が来て――。

 彩華先輩が卒業した時、もう絶対に手が届かないって思った時、素直に彩華先輩が好きだったんだって言えた。悲しくは無かったと思う。自分ではどうしようもないことだって、思うようにしていた。普通を絵にかいたような俺と、華のある先輩とじゃ、そもそもの考えが違う。

 そういう相手に好意を抱いてしまったのが、最大の失敗だと。



 今、感じた全ての事は、もう、とっくの昔に過ぎ去ったことなのに。

 当時感じていた苦しさも切なさも、季節も日差しも、汗の匂いも、部室の埃っぽさも、なにもかも全てをありありと感じる。まるで、昨日のことのように。

 長い長い過去への思索を終えると、四季で一番心地良い涼やかな大気が、辺りに満ちていた。

 星の輝きが増して、月が高くなっていく。

 秋の始めに相応しい夜だった。

 夏が終わって秋が来たのと同じように、人と人との関係性も時間によって変わっていくことを、今日初めて実感した。きっと十年以上も会わなかったおかげだと思う。部活の同窓会へと参加しようと気まぐれを起こしたのも、それだけ年をとったせいなのかもしれない。

 まさか、彩華の帰宅まで面倒をみる破目になるとは、さすがに予想していなかったけど。


 あの頃の出来事の全てを良い思い出化する事は、まだ出来ていない。

 でも、その苦さを含めても、複雑に揺れる心を昔ほどは嫌だと感じていなかった。


「大人の恋愛って、どうやって始めればいーんだろーねー」

 喉を見せつけるように空を仰いだ彩華が、どこか投げ遣りに呟いた。答えを求めているような感じではなかったけど、せっかく二人でいるのにそれぞれ勝手に喋っているのでは芸がない。

 とはいえ、俺の方はその答えなんて持ち合わせていないけど。

「彩華の方が詳しいだろ? 俺は高校の時に一回付き合ったことがあるだけで、それ以降はずっと恋愛とは無縁の生活だったよ」

 古い記憶が、つい口を滑らせた。しまったと思っても、出た言葉は戻せない。

 少しの苦味を誤魔化すように――それに、いつまでも掴まれない手を差し出しているのも馬鹿らしく思えて――、右手を無造作にポケットに突っ込んだ。

 そこそこに苦い恋に見舞われたせいで、たとえ相手が青信号でも踏み止まる癖がついていた。他人には、味気ない大学生活とか言われたけど、学問そのものに深く打ち込めたことは、今の自分を形作る上でとても貴重で重要だったと思う。

 そういえば……。

 今更だけど、彩華の両手を確認してみる。

 薬指はおろか、どの指にも指輪は嵌められていない。

 不本意ながら、少しだけ、安心してしまった。指輪がないことが、今フリーの証にはならないだろうけど、それでも、さっきよりは確実に、心のガードが緩んでしまったと思う。

 もう、同じ失敗なんて繰り返したくないのに。

「ふふん」

 仰け反っていた彩華が、空に向けた視線をゆっくりと降ろして俺を見た。

 さっきの視線の先に気付かれたのかと思い、でも、それを認めたくなくて、俺は少し首を傾げてみせる。

「アタシのせいだったのかな~?」

 ふざけているふりを装っていながら、口元ほど笑っていない視線で彩華が尋ねてきた。

「なにが?」

 心の中まで見透かされたように感じて、心臓が大きく震える。煩い鼓動に焦りながらも声が裏返らなかったのは、幸運だったとしか言えない。

「……同じこと思い出してたくせに」

 彩華は、今度は悲しそうに笑って言った。

 彩華もあの最悪な賭けを思い出していたのだと知って、なんだか、不思議な気がした。もっと、こう……ドライというか、過去に拘るタイプではないと思っていなかったから。

 彩華にとっても不意に思い出してしまうくらいには刻みついていたあのことは、彩華の場合にはどんな傷跡を残していたんだろう?

「同じことって?」

「あの時の勝負、アタシが負けたら上手くいったのかな?」

「……言っている意味が分からない」

 上手く処理しきれないであろう話題を避けるために、俺は頑なにとぼけてみせた。

 自分を偽れはしないけど、それでも彩華の前で強がりたかったのかもしれない。過去を過去として、きちんと今の自分の糧にしたんだって。

「ウソ」

「だとしても、最初に言い出した彩華に、文句を言う権利は無いんじゃないかな」

「嫌なヤツ」

「それはきっと彩華に対してだけだよ」

 口を尖らせて非難する彩華に向かって微笑みかけながら答えたら、微妙な顔をされた。

 近くも遠くもない、俺と彩華との間の三歩分の隙間を空へと昇る風が吹き抜ける。さらさらした彩華の髪が少し舞って、解れ髪がその頬に掛っている。

 通り過ぎていく風の行方を目で追った俺だったけど――、視線に気付いて顔を戻せば、彩華は真っ直ぐに俺だけを見ていた。

 何も言ってくれない、真剣な表情がある。

 ぞくりとするくらい、綺麗な表情で射抜くように見詰めてくる彩華。

 さっき出た話題の意図を確かめたくなった俺は、彩華の解れ髪に指を伸ばした。

 人差し指の爪の部分を軽く彩華の頬にあて、そのまま撫でるようにして耳に髪を掛けて、元通りにする。

 指に伝わるのは、張りの良い頬の熱と、少し細い髪のくすぐったさ。

 彩華はその俺の行動に対しても、無言を貫き通した。表情はちょっと甘えたような感じに変わってしまっていたけど、それだけの変化では何の確証も得られない。 

 指を離す一瞬、ずっと昔にも感じていた胸の苦しさを感じた。

「もう一回、走ってみようか。同じモノを賭けて」

 口の端に小さな笑みを点して、彩華が言った。彩華は、言うと同時に額に右手を当てて、目を隠していたから、表情の全体は見えない。

 だから、俺は期待よりも不安の方を多く感じていた。

「言いたくないですけど、懲りるってことを覚えた方が良いですよ」

 嘆息して言った俺。

 今日の飲み会で、彩華を無視しなかったのは――お互いに当時の事を無かったことにするという大人な対応が出来たからであって、だからこそ、不用意にお互いのかさぶたに触れたくは無かった。

 今、かさぶたを無理に剥がしたら、また血が出る予感がする。

 不安そうな俺を他所に、彩華はいつも通り勝気に言った。

「あの頃とは違うでしょ?」

 流石に、子供を諭すように上からものを言われて、俺も少しカチンと来た。

「俺が一方的に未熟だったと?」

 そこまで意識したわけじゃなかったけど、声の温度が想像以上に下がったのに自分でも気付いて、バツが悪くなって視線を地面に落す。

「アタシも、昔は甘えるの下手だったからね」

 失敗したとは思ってくれたのか、目を伏せ、少し無理した笑顔で答えた彩華。

 フォローしてくれた以上、今もそうだろうという、至極もっともなツッコミは、心の中だけに留めておいた。

「……俺は、現時点でも彩華の心の機微を量りかねてるって言ったら、止める?」

 そして自分自身の感情も、と、口には出さずに考える。そもそも、俺は今も彩華が好きなのだろうか? 今の彩華に対しても、当時と同じ気持ちでいるのだろうか?

 嫌ってはいないと思う。

 何かが始まる前のそわそわした感覚は、今、胸の内に有る。

 でも、だからこそ、すぐに結論を出せるほど簡単じゃない気がした。今、この感覚を、無理に恋と呼べば、かえってそこから遠ざかる気がして。

「大丈夫。アタシもそんなの良くわかってない。直感に従って動いてるの。でも、今を逃したら、もう絶対に間に合わないって確信がある」

 確かにそれはあるかもしれない。家はそう遠くないけど、今日まで会えなかったんだから。偶然に期待するのは歩が合わな過ぎる。少々強引かもしれないけど、切っ掛けの一つと思えば、悪くない。

 どの道、今目の前に居る女性以外に、気になる女性がいるわけじゃない。

 それに、もう一度積み上げるためにも、不安定な今の足場を一度壊す必要があるのも事実だ。

 そう考えると、俺の方もなんだか吹っ切れた気がする。

 この勝負は、全ての決着を今日出すためではなく、スタートラインに並ぶために、終わっていなかったレースのゴールテープを切るためにある。

「そういえば、俺が負けた時の罰ゲームも決めておかないと、フェアじゃないですよね?」

 深く考えたわけじゃないけど、自然と口を衝いて出た言葉。

「アタシの純情は、バツゲームと同レベルかい」

 思いっ切りふきだした彩華が、笑いながら怒った顔で俺を軽く睨んだ。

 駄々をこねる子供のようなその視線を微笑で受け流して黙っていると、彩華は頬に指をあてて少し考えてから口を開いた。

「それじゃあ――」

 彩華先輩のほんのりと上気した頬はアルコールだけのせいじゃなくて、目の前にある悪戯っ子な表情は、照れの上に隠すように塗りつけているのが丸わかりだった。

「昔の……そして今の本当の気持ちを素直に伝えること! 参加賞はキス一回! はい、決定!」

 勝気に笑った彩華が、俺の横に並ぶ。


 そして俺達は走り出した、あの日から二人の間を隔てている距離を駆け抜けるために。

 少しだけ冷えた、秋の追い風を受けて。

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