彼女
数年して私は、中堅規模の映像制作会社で大きなプロジェクトの中心人物として、それなりに活躍の場を広げていた。この年齢では珍しい、とまで言われるほど、活発にディレクションに参加して成功していた。周囲からの評判も上々で、じきに好きな作品も任せられる、という上司からのお墨付きも貰っていた。
同時に職場で恋愛関係になった、二つ年下の女性との結婚を前提にした同居生活の始まった私は、Kのことはすっかり忘れた多忙な日々を送っていた。私と同じ美大出身の彼女とは馬が合い、私は熱烈に恋をしていた。そして恋をしている自分が好きだったし、私に好意を寄せている存在のありがたみも感じていた。
とある日、自分の転機ともなり得る、相手先のクライアントの規模にしては珍しい、かなり大きなプロジェクトのディレクションの山場を超えて、彼女と二人で祝杯の意味も込めた食卓を囲んでいた。
「成功は確実ね」陰ながら緻密なサポートを欠かさなかった彼女が、ワインで頬を赤らめながら微笑んだ。
「クライアントが満足しても、最後に評価するのは世間さ。皮肉だけどね」私は謙遜したが、正直に言うと手応えはあった。
私の烏龍茶と、彼女のワインが進んでいく中で、眼前の女性のウェディングドレス姿と、アルタ前のスクリーンで流れる自分の映像が、あながち遠い未来ではないことを悟った。
急に彼女が一層頬を赤らめ、「子供が欲しいかも」と恥じらいながら言った。
「まずは結婚さ」と気恥ずかしくなりながら、私も笑った。
「必ずしてくれる?」彼女の目はいつになく真剣だった。
「そこは男を立ててくれよ、しっかりプロポーズを考えるからさ」と私はお茶を濁したが、頭には某有名ジュエリーショップの指輪が浮かんでいた。
私は年相応になったものだな、と妙な感慨に耽りながら、親に孫の顔が見せられることで多少はまともな人間になったという誇らしい気もしていた。
彼女と二人で育児に勤しみ、小さな家を建て、いずれは独立も考え、自分の作品で名をなし、そして老後は油絵でも描いて暮らしたかった。私の求める幸福とは平々凡々としたものだったが、それらの実現をしてみせるという野望はあった。
それに彼女を仕事上のパートナーとして伴侶にするのは、自分にとってもかなりのメリットであることは間違いがなく、彼女こそが自身の成功の鍵の一つだったのだ。
その、数日後からだった。
彼女の様子がおかしくなった。
笑顔が絶えない気さくな彼女が、陰鬱な顔で私の挨拶にも応じなくなった。職場でも上の空でミスが増え、見かねた上司に叱責を受けることも何回かあった。
正直、自身のプロジェクトに影響が出たことに苛立ちもあった。後一歩、ここで足を引きずられては困る。
それでも将来の伴侶になるかもしれない女性に、私が励ましの意味も込めて、それなりに名の知れた高級レストランを予約してディナーに誘った。だが当日になると調子が悪いと言って、私を待たずに帰宅してしまった。彼女は自分の子供まで欲しがったではないか。殊更理由は分からなかった。
当然、これらの原因は職場の悩みではないことは歴然だった。何かしら自分との生活に悩みでもあるのか。私は会社でも出世頭だし、それなりの稼ぎもある。不自由はないはずだった。
しかし並行するようにして、夜の営みの回数も減っていった。極度に私と皮膚が触れるのを嫌悪するかのようだった。まるで不潔なものだというような様子すら見せた。自分の中に潜んだ影を盗み見られているようで、心底気分が悪かった。
他に男でもできたのか……。私の疑念はどんどん誇大し、不安に変わり、そして最後には一種の嫉妬に変わった。ただ身勝手に、彼女を自分でコントロール出来ないことに苛立ち、そして裏切りを恐れた自尊心の塊以外の何物でもなくなった。
それらが入り混じった感情で、しつこく、それこそ異常とも思えるほど執拗に絡んだが、彼女の反応はどんどんなくなり、最後にはいよいよ頑なに黙するばかりだった。彼女を慮る気持ちは忘却に去り、そして掻き乱された感情だけが残り、自身の未来の設計図に翳りが出たことにばかり執着していた野卑な男になっていった。
それを、私は否定はしない。
それでも日常は継続していく。破局を恐れていたのは、不健康になっていく彼女を救済したいがためか、あるいは自分の歪んだエゴイズムのためか。
そんなある日、仕事で帰宅が深夜になった日があった。
彼女は私を避け、とっくの先に帰宅していた。
帰路を急ぐと、マンションのエントランスに男がいた。
オートロックの玄関扉なので、住人の誰かには違いがないが、見覚えがない。
その男はこちらに背を向けていた。
汚らしい蓬髪で、油まみれのエプロンのようなものを着けている。その下に着たTシャツの後ろには、某有名自動車メーカーのロゴが大きくプリントされている。
男は何をするわけでもない。ただ俯いて、立っている。
不吉な感覚が走った。
自宅に帰るとキッチンで彼女が包丁を走らせていた。
「今、変な男を見たよ」会話の種を見つけた私は言った。
彼女は何も答えない。
「聞いてる?」
そこで、思い出した。
あの男の自動車メーカーのロゴは、Kが働いていた下請け工場の親会社のものだった。
キッチンには包丁の走る音だけが、ただ響いていた。
私と彼女の関係は、その時には手遅れだった。会話どころか、会社でも彼女は鬱を発症したかのように殆ど廃人だった。
しばらくすると彼女が退社届けを出して、突然逃げるようにして私の目の前から去った。数週間後、彼女の家族がマンションまで私物を纏めに来た。私が必死で様子を尋ねたが、妙に恨めしい横目で一瞥するばかりで何も答えず、最後まで彼女に生じた変化の理由は分からなかった。
ただ後に、偶然にも職場の人伝に聞いた話では、彼女は私の子を身篭っていたのだそうだ。
それは、あの時「子供が欲しい」と言った時には、叶っていた夢であることを示していた。
赤子は無事にこの世に生を受けたのだろうか。
その後の彼女の行方を、私は知らない。
そしてそれからというもの街中で、あのエントランスの男を見ることが多くなった。
大概が見間違いで、二度見すればそれは何でもない作業員だった。だがコンビニエンスストアで休憩時間に缶コーヒーを飲む男衆を見ると、言葉にならない不吉さを覚えた。皆が笑顔を浮かべている、どこにでもいる工場職員ばかりだった。
しかしたまに遠方の出張先で車を走らせていると、人気のない夜道の山中で、路上にあの日と同じように何をするわけでもなく、こちらに背後を向けている男がいた。
それがKであるのかは、分からない。
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