自殺

 私が大学卒業の夏、Kが自殺した。

 首吊りだった。

 周囲には隠していたらしいが、鬱病だったのだそうだ。

 一体、いつから彼がそのような精神状態になってしまったのかは分からないが、映画なぞ微塵も関係ない機械を相手に、日すがら作業に打ち込んでいる最中な気もするし、私と頻繁に顔を合わせていた時からその兆候はあったのかもしれない。彼が明るく振る舞えたのは、心を許した数人だったのは確かだった。

 噂では、Kは投薬治療を拒んでいたらしい。なぜ、彼がその選択をしたのかは定かではないが、自分の意識が混濁するのを嫌がったような気がする。

 もしかするとKが片田舎の工場で自我を保っていたのは、映画という夢の想像力だったのかもしれない。全ては憶測だが、もしかすると彼は、本当は未だに夢を諦められずにいたのではないだろうか。

 車の部品の油で塗れた世界から逃避するようにして、彼は妄想に従順していた。そう思う方が私は気が楽だったが、抜け出せない現実で夢を見ることは、何とも無慈悲な気もする。


 Kがこの世を去った夏、私は四年間の集大成として挑んでいた実験映像作品、卒業論文と、消化し損ねた講義の単位に追われる多忙な日々で、葬儀には出席することが叶わなかった。

 今思えば唯一無二の親友に対して、何とも慇懃無礼、薄情な態度だった。

 しかし、それは少しずつお互いの人生の道が、離れ始めていたことを暗に意味していた。

 金属加工工場の作業工程や事情は私の専門外だったし、興味もなかった。彼との映画とサボタージュの思い出という、限られた懐古だけで繋がるには限界があった。それに私の映画の知識は、趣味人で素人の彼を遥かに凌駕していて話が噛み合わなかった。実際にカメラレンズを覗き人道指揮を取る人間と、盲目に映画監督を夢見るだけの男には大きな溝があった。


 無事に卒業が決まり、映像関係の就職先も見つかった私は、久しぶりに帰京した。両親への挨拶もほどほどに、数人の中学校時代の同窓を誘ってKの墓参りに出かけることになった。

 思わぬ友人からの提案だったが、Kに対して何の救いの手も差し出せなかった私は、彼の墓石を磨き、墓前に花を添えるくらいしか懺悔の方法がない気がした。


 私は墓参りの前日の晩、場末の安酒場で即興の同窓会となった旧友に囲まれて、ぽりぽりと揚げた鰯のつまみを食っていた。

 皆が皆、Kの墓参りというきっかけを利用して、集合の理由付けにしているのは、ほとんど間違いのない事実だった。私も旧友との邂逅などはよっぽどのことがなければ難しいが、自ら死を選んだ男の追悼となればそれは参加せざるを得ない。


 一頻り、互いの大盛況の近況報告が続いた。恋愛事情から始まり、結婚と女の話に花が咲いた。そして皆が中々の企業に就職し、お互いの組織に属する苦悩と、出世の現実の普遍性に苦笑していた。それが場所は変われども、同じ境遇の自分が仲間と切磋琢磨している印象を受けた私は、酒がなくても心地よく酔えた。

 場がお開きに近付いてきた頃、しばらくの沈黙が広がった。


「Kもあんな女、捨ててしまえば良かったのに」


 さきほどから言葉数の少なかった一人の友人が、安い焼酎が回ってほろ酔いになったのか、ポツリと呟いた。

 私はさっぱり意味が分からず、詳しく尋ねた。

 女の影があるKの存在は、どうにも自身の幻影の中にある彼のイメージとは乖離していたからだった。彼は孤独に作業機械に向かい、そして帰宅した小さな下宿で、レンタルしてきた映画を夢見がちに観ている生活が拭えぬ印象だったのだ。

 友人が語った話は、根も歯もない噂というよりは、Kの自殺の真相のようなものだった。


 Kは工場の社長の煩雑な事務方に回った妻と、交際関係にあったのだそうだ。

 この女性というのは、あまり節操のない人だったようで、複数の職場の人間と関係を持っていた。Kもその一人だったらしい。

 周囲には隠していたが、一人の竹馬の友に向けた遺書にはっきりと、そして克明に事の顛末が書かれていた。そこには己の懺悔ばかりで、相手の女性の裏切りに対する恨み言はなかったらしい。


「アイツらしい淡白な文体で、まるでルポルタージュを読んでいる気分だった」そう語り友人は虚空を眺めた後に、再び焼酎を舐めた。

 そして二人には単なる肉体関係だけではなく、相手の妻の腹には子があった。結局は二人の相談で極秘裏に堕すことになったのだそうだ。

 資金は潤沢ではないKの貯蓄から捻出され、そしてそれは成功した。元々金には執着のない男だったが、問題の本質はそこにはなかったのだろう。

 そして二人の関係は親友の遺書にのみ記され、後は闇に葬り去られた。それはKが望んでいた通りの結末だったようで、工場の営業は今も問題なく営業しているらしい。


 その友人は全てを悟っていた。「アイツの弔い合戦は嫌だった。書いてあったよ、自分は幸せ者です。彼女と出逢えて幸せでしたって」としながらも、やはり忸怩たる想いを抱えている様子だった。

 この全てが、Kにしてみればそれはさぞかし精神的に堪える出来事だったに違いない。


 私は当然のことながら驚いたが、彼が常に纏っていた夢破れた孤独な風貌には、どこか似合っているような気がした。

 危険な情事の末に絶望し、彼は死を選んだ。

 その類の不健全な恋愛経験が豊富ではなかった私には、Kの苦悶や煩悶は理解しかねたが、真摯な彼の性格と、どうやら飼っていたらしい鬱病のことを思うと、やはり同情を覚えざるを得なかった。

 孤独を癒すように女の肌を求め、誰かに愛されることを切望し、女の裏切りに気が付いていながらも、それでも無償の自己肯定を欲した。それは彼の業でありながらも、幸福を追い求めた憐憫に満ちた末路だった。しかしそんな彼の、行き過ぎた渇望は人妻を孕ませてしまった。しかも相手は社長の愛妻である。

 結果、彼は深夜の烏の羽に飲み込まれるように、この世界の全ての原罪を背負うようにして、まだ見ぬ名も知れぬ命を奪うことを決断した。それは自分が幸福になるという未来との訣別でもあったに違いない。


 私の頭には即座に無表情なままで、下宿の電気を消して、天井からぶら下がった首吊り縄に頭を通す瞬間のKの姿が浮かんだ。

 彼は静かに台座を蹴る。

 私は彼を救えはしなかっただろう。しかしせめてその煩悶の一部を引き取ることが出来たかもしれない、という思い上がりはあった。

 しかし私も含めた仲間に、Kはそれを望まずに逝った。


 Kは遺書を書いた唯一の友人に、毎年の水子地蔵への供養を託したのだそうだ。

 この世に生を受ける前の穢れ無き命という茫漠とした存在が、Kの精神までも石油色になるまで摩耗させ、自己否定の限界まで追い詰めていたのかもしれない。

 そして、彼は自分を犠牲に出来るまで、その女を愛していたのだろう。

 その歪んだ妄念が、私には理解できなかったが、不謹慎な好奇心はあった。その三流の情事がここに仲間を集め、皆が人の心の奥底にある秘密に深入りする蜜の味を知っている。そのためか、場の空気は一瞬にして瑞々しくなり、憐れみの応酬で一気に盛り上がりを見せた。

 ただ一人、早々にこの話を切り上げたそうだった友人が、ゆっくりと再びグラスを口に運んだ後に、虚ろな視線で呟いた。

「遺書にあったあれだけは意味が分からん」

 なぜか一瞬、背筋に嫌なものを覚えながら尋ねると、友人は表情の強張った私を不思議そうに見ながら続けた。


「お墓公園に行く、そうあった」


 私の古い記憶の扉が開いた。

 それだけ追い詰められていたんだろうな、と友人は締めくくった。

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