第18話       君が来ない日々に

あれから5枚あった卓上カレンダーのうち3枚がゴミ箱へ行き

しつこい蒸し暑さから解放され

窓から入ってくる風に若干の冷たさと乾燥を感じるようになってきた

オレンジジュースは冷蔵庫の中に2本ストックしてあるが

開封されることなくその容量は1ミリも減っていない

ここを何回か訪れた後、足を運ばなくなる人はたくさんいる

訪れた人々の話を聞き、本当に死を望んでいるのか

臓器を提供することを望んでいるのか

カウンセリングのような形態でその人が本当に望んでいることを

浮き彫りにしていく

精神科の終着駅のような「0」を訪れて

人としての生活に別れを告げて逝く人もいれば

僕との会話を重ねていくうちに何かを見つけて

また人としての生活に戻っていく人もいる

みな現実という制限がある中でそれなりに選べる選択肢を選んで

死というゴールに向かって進んでいく

女の子もその中の内の1人だ

女の子が「0」を訪れなくなった事に関して特段の感情があるわけではないが

色々なタスクをこなしていかなくてはいけない時間の流れの中

時折やって来る何もない空洞で、僕の頭の中に女の子がひょっこり現れる事が

たまにあるという事実はある

そんな事を考えながら不要になった書類をシュレッターにかけていると

少し重たい「0」の扉を肩幅くらいに開けて1人の人間が

顔を少しだけ室内に入れ中をキョロキョロと見渡しているのが見えた

「どうかしましたか?何か御用でしょうか?」

その不安そうな不思議なものを見るような行動に気づいて声をかけると

開いた扉の幅はそのままにその人が僕に声をかけてきた

「あの、精神科ってこちらでよろしいんでしょうか?」

明らかに迷っている様子で僕に言葉をかけてくる

紹介されてここを訪れる方たちには「0」と認知されているが

そうではない方たちには

「暁脳循環器センター精神科」として認知されるようにしている

実際、ここを伝えるために渡す地図にはその表向きの名前が記載されている

世間的にまだまだ死というものがタブー視されている世の中で

死を心から望んでいる事が周囲の人達に知られてしまった時

批判や偏見、見当違いな𠮟咤激励などの攻撃を受けてしまう可能性は高い

それを避けるためにそのような対策をとっている

精神科を受診する事に抵抗や批判や偏見が少なくなってきた現代なら

それを隠れ蓑にして

安心して死と向き合うことが可能な「0」を訪れることが出来るからだ

「そうです。精神科はここですよ」

にっこりと微笑みながら、数分前の疑問に回答を示すと

肩幅で開いている「0」の扉をさらに開けて

室内を見渡していた人物が室内にゆっくりと入って来た

黒いストレートのセミロングの髪を茶色のシュシュで後ろでひとくくりにまとめ

黄色味がかったクリーム色のカーディガンにオフホワイトのシャツ

濃すぎないチョコレート色をしたロングスカートを着用した女性が

閉めた扉の前に立って僕の方を見ている

対外的に人に会う、医療施設を訪れるという事で身綺麗にしているが

その表情はどこか疲れていた

日々の生活に追われて疲れ切っている様子が見て取れる

それでも懸命に対外的に好ましい対応を取ろうと頑張っている様子だった

「あ、どうぞこちらへ」

そう言いながらソファーに促すと

その女性は、申し訳なさそうにソファーへ歩みを進めて来る

「どうぞ、おかけになってください」

そう言葉をかけると女性は軽く会釈をしてソファーに腰を下ろした

落ち着いた様子だがゆったりとソファーに体を預けるでもなく

両手をきちんと膝に置き、ゆっくりと室内を見渡している

「何か飲まれますか?」

と、問いかけると

「ありがとうございます。そうですね・・・お茶、があれば頂けますでしょうか」

丁寧な言葉遣いで返答を返してくる

「はい。ありますよ。今、お持ちしますので少々お待ちください」

そう言いながらいつものようにグラスにお茶を注いでテーブルに向かう

僕用のお茶と女性用のお茶をテーブルに置いて僕もソファーに腰掛ける

少しの沈黙の後、女性が静かに口を開いた

「あの・・・・・・娘がこちらに大変お世話になったようで・・・」

「娘」というワードが耳に入ってきたが、それに全くピンとこない僕がいた

何も思いつかない僕と僕の返答を待っている女性を残して

時間だけが過ぎていく

しばらく沈黙が続いた後、女性が助け舟を出すように人物の名前を口に出した

苗字が僕の耳に入り、その後下の名前が耳に入り

それが合致してフルネームになった時

僕の頭の中にあの女の子が唐突に浮かんできた

「はい。こちらに通院してますね。最近はいらっしゃってないですけど」

ようやく意思疎通が出来た事に安堵したのか

女性がほっとした様子で言葉を続ける

「ええ。こちらに娘を1人で通院させてしまっていてすいません」

「どうしても仕事を抜けられなくて・・・」

「仕事を休んで一緒に行くからと言っても大丈夫だよ!って聞かなくて」

「きっと私に気を使っていたんだと思います・・・・」

一通り言葉を発した後、ゆっくりと下を向いて肩を落とした

ここを目的に訪れているのは事実なのだろうが

僕は女性と女の子の関係性がいまいち不透明になっていることが気になり

「すいません。お母様でいらっしゃいますか?」

と、女の子の名前を交えながら女性に問いかけると

「はい。母です」

女の子の名前を口にしながら顔を上げて返答を返した

「すいません。申し訳ないんですけど、何か証明できるものはお持ちですか?」

そう告げると女性は、はっ・・・と気づいたと同時に

持ってきた鞄の中を捜索し始める

差し出された健康保険証を手に取り、表紙に目を通すと

母親であろう人物の名前が世帯主として記載されている

表紙を開いて中に目をやると、確かに女の子の名前が1つ記載されていた

表紙の世帯主名が女性名であることから父親がいないことが察知できる

ここにいる女性と女の子の関係性は理解できたが

なぜ、女性が今ここに1人で訪れているのかが全く分からない

手にしていた保険証を女性に返して女性に僕の疑問を問いかける

「ありがとうございました。で、今日はどういったご用件で・・・」

僕の率直な疑問に女性はちょっと戸惑っているようだった

疑問に対してストレートな回答をしていいのか迷っている様子だ

少しの沈黙の後、女性は意を決したように

「亡くなったんです。飛び降りて」

そう言葉の羅列を口にした

ナクナッタンデス・・・トビオリテ・・・

その言葉が耳に入って来たとき、僕は一瞬その言葉が理解出来なかった

だが、良いのか悪いのかすぐに僕の脳は正常に働きだす


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