第5話
次の日教室の机に着いたのは俺のほうが先だった。
座っている彼女の視線を受けるよりも、下から彼女の顔を見上げる方が楽な気がして、いつもより少しだけ早く学校へと向かった結果想定通りになれてホッとする。
座って1分も経たないうちに彼女が教室に現れると、教室内の空気が確実に変わったのが分かった。
たくさんの人に朝の挨拶をされ、それらをいつもの微笑で返しながら自分の机の前に来ると、彼女の隣に座っていた俺の顔を上から見下ろしている。
俺と目が合うと、何か言いたい事があるのかしばらく考えたあとングっと声にならないような音を喉から絞り出してから、席に着いていた。
どうやら彼女も見上げるほうが良かったと見える。
昨日言うだけ言って走り去ったからか気恥ずかしかったのだろうか。
どちらが先に席に着くか。
もしかしたら、しばらくは不毛な戦いが続くかもしれないと恐れを抱いた直後、深い深呼吸をしてから、皆に向けている微笑んだ顔とは違い、なんだか怒っているように見える表情で目線を合わせることもなくおはようとそっけなく挨拶をしてきた。
それだけを俺に言うのに深呼吸が必要なのかよ…
彼女の方をチラ見してからうっすと短く挨拶を返した。
一年生の時に発した彼女の不用意な一言。
平凡で目立たない高校生活を送ろうとしていた俺は、それのせいで平穏が崩れ去る音が耳元で聞こえたまである。
時間が経った今は、恨んでもいないし、怒っているわけでもない。
彼女自身悪気があったようにも思えないし、一年目なんてのは皆が皆、手探りで自分の居場所を確保しようと躍起になっているのだ。
あの美貌で勉強まで掲示板レベルに出来るのかと騒がれていて、他のクラスからも彼女見たさに覗きに来る人間が一日に何人も来ていた。
当たり前のように輪の中心になっていった女の子が、ただ隣の席にたまたま座ることになった男に、そんなつもりではなかったとしても結婚の文字をチラつかせたのだからそれは大騒ぎになるのは当たり前の話である。
この学校で学園ドラマを作るのなら、間違いなくヒロイン級の彼女とは違い、ヤンチャそうな本名のくせに与えられた役どころはクラスメイトAで間違いのない俺。
役名すらつかない俺を無理矢理表舞台に上げようとしたのだからそりゃ大騒ぎになるのは当たり前だった。
長富杏香が教室に入ってくると、出席確認の後、昨日に続いてのホームルームから始まった。
実際のところ、本格的に授業が始まるのは来週の月曜かららしく、五月に行われる体育祭や各種委員会活動の委員決めなどを昨日今日のホームルームでやっつけちゃいましょうと言う感じか。
クラス担任である長富杏香の話しが終わり、この後は学級委員の仕事だぞとという言葉の後に視線が送られる。それに反応するかのように、彼女が昨日纏めた議事録などを手に立ち上がりながら俺の顔をチラッと見る。
なんとなくだ。
ただ、なんとなくやり返したくなって
「冴木姓になりたがっている愛子さん。クラス委員としての仕事をしに行きましょう」
彼女にだけ分かるように、書類を持つ手伝いをするふりをしながら小声で言った。
驚いた表情でこちらを見ながら、再びペタっと力が抜けたように椅子に崩れた佐藤愛子の顔は耳までもが真っ赤である。
片方の口角だけを少し上げて、誰かの仕草を真似るようにニヤッとしてやると、少しだけ悔しそうに俺を上げ、小さいため息をひとつ吐き気持ちを落ち着かせたのか、スッと立ち上がる。
まだ顔は少しだけ赤い。
彼女より先に幾つかの書類を持って前に出ると、教壇の上に昨日纏めていった順番に分かりやすいように用意していく。
生徒が座る教室よりも一段高くなっている黒板の前に立ち、未だに朱を刺したかのような赤い顔で残りの書類を自分の席で用意している彼女を見下ろしていると、可愛らしい人だなとふと思う。
ギリギリのとこで言葉にするのは止めたのだが、今俺は何を言おうとしていたんだ?と、自分の気持ちにビックリして呆けてしまった。
準備を終え、歩み寄ってきた彼女と目が合う。
そんな思考を悟られたくなくて、慌てて視線を逸らしたのだが、運が悪いことに、俺が向いた方向には凄く卑屈な顔で微笑を浮かべている長富杏香の顔があった。
昨日の帰り道、佐藤愛子に言われて気づいた事がもう一つある。
長富杏香に言われたことも一語一句覚えている。
俺自身の問題なのか。
その人を好きか嫌いかと言う単純な気持ちの問題なのか。
それ以前に、俺自身はこの空間でクラスメイトには興味を示してすらいないのは自覚していた。
好きの反対は嫌いではなく興味がない。
誰が言い出した言葉なのかはよく知らないが、俺の中で好きの反対は絶対に嫌いであり、俺の中では興味がないはそれ以前の問題なのだ。
人間関係に興味がない。
人を好きになることも嫌いになることもない。
そんな冷たい感情は病気かも知れない。
そう思って悩んだ時期もある。
クラスメイトAのはずの役しか与えられていないはずの俺は、クラスのみんなと楽しそうに話すだけの演技を演じきれているはずだった。
ヒロインの佐藤愛子には冴木龍臣のその演技は大根だと見抜かれてしまった。
監督の長富杏香にもそれはバレている。
俺はこの役に満足しているし、それを良しとしてる人間が大半のはずなのだ。
一年生の時点である程度クラスごとの中心的人物が出来上がっているのに、二年生になってから主役級に名乗りを上げて来るんじゃねえよ。
そう思う者も必ず出てくるだろう。
お前はもっと違う役も出来るのだろう?
表舞台に立たせてあげるから。
演技ではなく素の冴木龍臣を見せてみろよ。
違った景色を一緒に見ようよ。
大きくなお世話だ…
俺になんて構わないでくれ…
彼女が隣に立つまでにそんな悪態に近いような考えが頭の中を駆け回っていて、それに気づいた時、俺は彼女に対して怒っているのだろうかと悩んでしまっていた。
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