第5話 深淵を覗くとき

殺人を犯した元高級官僚の護送は、恐ろしく静かだった。彼の居る空間は、まるで真空状態にでもなったかのように静まり返っていた。何もしゃべらず、ただ黙って、進行方向を見つめ、指示されるままに歩を進める。

 留置所で数日間過ごしても、彼に憔悴の気配はなく、逮捕されたときのままの血色だった。そして、現場検証のための留置所からのわずかな移動時間、彼の隣に日比谷は座った。


突然、日比谷が、静寂をかき消した。

無論、これは奨励される行為ではない。本来は、業務上必要な場合以外、護送車で口を開くことはご法度である。


彼が話す内容は、全くもってただの無駄話以外の何物でもなかった。

「フランケンシュタインというと、世間の人々は、頭に大きなボルトが付いたつぎはぎだらけの巨大な怪人をイメージします。フランケンシュタインイコール怪物。しかし、原作の設定ではそれは間違いで、フランケンシュタインは怪物を生み出した科学者の名前を意味します。フランケンシュタインnotイコール怪物が正解です」


(この男は急に何をしゃべりだしたんだ)という目で、護送車に乗るほかの警官が日比谷に視線を向けた。ただ、元高級官僚の男は、まっすぐに正面を見据えたまま、なんの反応もない。


「怪物に名前はなく、ただ怪物と呼ばれるだけ。しかし、彼は最初から怪物ではなかったと私は思います。彼は、人間であろうとしました。言葉を覚え、人と交わろうと努力していました」


「おい。静かにしろ」

警官の一人に指摘されたが、日比谷は無視した。


「人間が彼を拒絶したのです。見た目が恐ろしいと、いわれのない差別を受け、彼という人間を否定し、怪物と無理やり定義したのです。そして、彼は一人になり、本物の怪物になったのです・・・自分勝手に彼を作り出し、少々見た目が悪いからといって彼を捨て、彼との約束を破り、挙句の果てには、彼を殺すために北極まで追いかける執念深いフランケンシュタイン博士。自分の生み出した怪物がこれ以上、人を殺めないためという正義感もあったでしょうが、私の解釈は違います。確実におぞましい憎しみの心がフランケンシュタインの中にはあったと思います。北極には、人はいないのですから・・・そう考えるとフランケンシュタインnotイコール怪物が本当に正解だと断言できるでしょうか?」


「いい加減にしろ!」

無視され続けている警官が、一人熱くなっている。


「息子さんが最後に、ネット上でつぶやいた言葉をご存じですか?」


そういわれても、元高級官僚の男は、何の反応もなかった。

「誰も、一人では生きていけない、、、と実際に会ったこともない、世界中の他人に発信していたそうですよ」


日比谷の言葉を聞き、元高級官僚の男は、一瞬、彼の方に顔を向けた。力のこもった日比谷の瞳を男は一瞥する。日比谷の額から、一筋の汗がしたたり落ちる。


男の顔は、変わらず”毅然と”していた。


そして、すぐにまた真っすぐに正面を見据えた。日比谷はそれ以上、口を開くことはしなかった。

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