8 ~品評会・蝙蝠の告白~(4)
「部屋の窓からアンリが庭を歩いていくのを確かめると、私は自室のドアを開いて廊下に出ました。その時の私に、ためらいはありませんでした……部屋を出ることは、クロエに会うことは。それはもちろん息子に対する裏切りです。ですが私は一方で、その頃は半ば自暴自棄でした。クロエのことが今後どうなろうとも、私の居場所はこの家には無い、そう諦めていました。私が恐ろしかったのは、アンリだけ。あの子の、まだほんの一欠片だけ私に対する温情を残していた、あの瞳だけ。けれどその時、もうそれも未練だと思ったのです。どうせ私はこの家族の輪から去る身……
この上さらに息子の怒りを買おうとも、今クロエの姿をこの目で見ておかなければ、どうしても会いたい、その思いに捉われてしまったのでした……」
あの罪の暴露の日から、思えば、それはちょうどひと月も経った頃だった。
(そうね……いつの間に、もうひと月も経っていたのね。考えたこともなかった。
今まであの子は、クロエはどうしていたのかしら……)
邸内にいるはずの使用人たちに気づかれぬよう、忍び足で廊下を滑り歩きしながら、シモーヌは思う。
(身勝手なものね、身勝手な私!あの子を3年も閉じ込めて、でも今までずっと私は平気だった。毎晩勤めから帰って来ては、メイドにその日のあの子の様子を聞いて……あの子がきちんと閉じ込められていたことを確認して!そして私はそれに満足していた、悦に入っていた。あの子を支配していること、それが嬉しかった……)
自分は、娘を愛していたのだろうか?シモーヌの自問自答。
確かに。不出来な娘に、彼女はいら立ち、いつも不満を抱いていた。だがそれならなぜ、娘を【見捨てて】しまわなかったのか?大病院の理事として多忙な毎日を勤め、経済的にも恵まれ、結果多くの使用人に家政をまかせていたシモーヌ。同じ身勝手というなら、甲斐の無い育児も教育も放棄して、いっそ娘の存在を無視してしまうことも、彼女には不可能ではなかったし、ありえる人生の形だったかもしれない。
だが、彼女はそうしなかったし、それは彼女には出来なかった。
(私はあの子を、クロエを……手放したくなかったのね……
今も、私はあの子に、こんなに会いたい。【自分のものにしたい】のだわ……)
だが果たしてそれは【愛】なのか。シモーヌの問いは同じ渦の中で回り続けた。
ついにシモーヌの手が、クロエの部屋のドアノブを掴んだ。ためらいは無い。が、一抹の不安はあった。クロエは精神に異常をきたしている。彼女が勝手に外に出てしまわぬように施錠すること、それは今ではむしろ、彼女の保護のために必要な措置とも考えられることだ。もしも施錠されていたら?
シモーヌの心の片隅で、理性と良心はむしろ、それを願っていた。
たとえ今娘に相見えたとして、それでどうなる?今更どうにもならないではないか。このドアが開かなければ、このまま諦めて帰るしかない。本当はそれが一番いいことなのだ、アンリを裏切らずに済むのだから……
だが、その期待は裏切られた。ドアノブは静かに回り、音もなくドアは開く。
もう引き返せない。否、シモーヌの意識からそれは消し飛んでいた。細くギリギリに開けた隙間から素早く自分の体を滑り込ませ、音を立てぬようそれだけは集中してドアを閉めると、一つ大きく息を吸い込んで、室内に振り返る。
クロエの部屋。
かつて、その部屋の窓には、娘の気が散らないようにと、重い厚い、そして暗い色のカーテンが掛けられていた。壁をぐるりとくまなく囲む本棚に、分厚い書籍がいかめしく立ち並び、調度は武骨で頑丈な学習机と、それとセットの重く頑丈な椅子。シモーヌが娘の自由を奪い「立派な教育を施す」、そのためだけに考え設えた、重苦しい威圧に満ちていたその部屋は。
今はアンリの手配によって、すっかり様変わりしていた。日の良く入る窓には白く薄いレースのカーテン。自然であたたかな調光が戻っていた。無為な置物に過ぎなかった書籍の山は本棚ごととりはらわれ、部屋の空間は一回り広くなった。その空間のそこかしこに散らばったおもちゃや人形、それに子供の絵本。クロエの心の傷をいやそうと、記憶を意識を回復させようと、アンリが娘の思い出の「宝物」に近いものを、新たに買い与えたのだろう。あのいかめしい机も無い、丸くやわらかなぬくもりのある素朴なデザインの、白木のテーブルに置き換えられていた。
アンリの妹への思いやりを映したような、明るく健やかで穏やかなその空間。
ただ一つ。椅子だけは、かつての椅子がそのまま残されていた。若い娘が取りまわすにはいかにも重すぎて不向きな、太い桟で作られた頑丈な木製のその椅子。それはひ弱な娘の行動をさまたげ、少しでも机に縛り付けておくためのもの、そのばかげた重さを、かつてそれをあつらえたシモーヌはよく知っていた。今でも、それを娘が自分一人で動かすようなことは無いに違いない。食事時などに、メイドや息子が介助して、クロエをそこに掛けさせるのだろう。そしてこれを残したのは、正気を保っていないクロエを着座させたときの、万一の転倒を気にしてのことだろう。娘がどんなに不意に姿勢を変えても、その椅子なら動かない、それほど重いのだ……
そしてクロエは。
彼女は床の中心でぺたりと座り、シモーヌに背を向けてうずくまっていた。彼女の周囲に散乱する紙と、鉛筆。そしてシモーヌの侵入に気付かないのか興味が無いのか、床に広げた紙に向かってさかんに手を動かしている。
(何か描いているのだわ……)
そう、アンリが言ったではないか、娘が急に絵を描き始めたのだと。
何を?
「……クロエ?あなた、何を描いているのかしら……?」
シモーヌは、しわがれたような自分の声に驚く。緊張と不安に、喉を握りつぶされるような感覚。自分が蟄居する前、シモーヌは一度だけクロエを見ていた。あの時は、誰がどんなに呼びかけても娘は無反応だった。だから今も、シモーヌは返事の無い事を半ば期待していたのだ。それなら何も起こらない、そっと部屋を出ていけば、ここに来たことも無かったことに出来る……だが。
クロエは、ゆっくりと背後を振り返った。依然と変わらぬ虚ろな目つき、しかし、どうやら確かにシモーヌの声は彼女に届いたのだ。そしてただ一言こう言った。
「お花」
(……花?)
一言そう言って、クロエは再び、床の絵に向かって視線を落としていく。その時クロエが大声をあげないこと、暴れないことに、シモーヌはわずかに不安の胸をなでおろした。この様子なら、ひどく刺激しなければ大丈夫。やや大胆になったシモーヌは、そっとクロエに近づき、肩越しに床の絵を覗き込んで。
胃の腑が凍った。
娘はそれを「花」だという。それが?
シモーヌの目に映ったもの。黒鉛筆の黒一色で、ただぐるぐると乱雑に描かれた、いくつもの渦巻。クロエはさらに握った鉛筆を走らせる。同じように、ただひたすら、ぐるぐる、ぐるぐると。そして。
「出来た」
紙一面を黒い渦で埋め尽くすと、クロエは立ち上がった。そして満足した声でこう言ったのだ。
「見て、お母さん」
(『お母さん』……?)
クロエはかつて、自分のことは「お母様」と呼んでいた。兄アンリには父さん母さんとフランクに語りかけるのを許しておきながら、シモーヌはクロエには言葉をうるさく躾けていた。そしてそれは、アンリが進学して家を空ける以前からのこと。
シモーヌが感じた、異様な疎外感。シモーヌはぎくりとして娘の姿を見る。
「お母さん」、確かにそう言いながら、娘は自分には一切目をくれていないのだ。その絵を手に持って、壁に向かって歩いてゆく。
クロエが向かう壁面に貼られている、一枚の紙。
「お花。きれいに描けたかな……?お母さん、どう?」
壁の紙に向かって、クロエは彼女が花の絵と呼ぶ渦巻の黒い海を捧げる。
困惑したシモーヌは娘を追って、その壁の紙を見た。
白い紙に描かれた、大きな卵型の縦長の楕円と、その中に、逆三角形に配置された小さな三つの円。描かれているのはそれだけ。
「クロエ……?これは……何?」
シモーヌの問いに。あいかわらず壁の紙を、その図形を、うっとりとした表情で見つめながら、クロエは答えた。
「お母さん。わたしのお母さん。いつもわたしの絵をほめてくださるの、よく出来ましたね、って。とっても優しい、わたしのお母さん」
「これが……?ねぇクロエ、だったら私は?私は誰?」
自らを指さして問うシモーヌに、クロエはようやくうつろな目つきで振り返った。
「……あなた?だぁれ?」
その瞬間、シモーヌの胸に湧き上がった、どす黒い衝動。
「あの時の気持ちを、どう説明したらいいのか、私にはわかりません。
怒りでしょうか?そして悲しみ、絶望……混ざりあったそれらが、すべてが一度に噴出したのです。その時の私は、それでもその気持ちを本能的に整理しようとしたのでしょうね。正体不明の感情にさらされれば、理性が侵される、それを恐れて。
残ったのは、【嫉妬】です。
娘が、クロエが、自分を差し置いて!紙切れに描かれた得体の知れない空っぽの顔の【女】を、母と呼ぶ!それが私には許せなかった……爆発した様々な醜い感情が、嫉妬という一筋の束になって。
私は壁に駆け寄って、その紙を引きはがし、バラバラに破り捨てました。
そして部屋を出ていこうとして、娘に背を向けたのです。
その時。
怪鳥のようなあの叫び声。あの日のクロエと同じ叫び声が私の背後で響きました。
私は思わず振り返って。そして見たのです。娘が、クロエが。
あの大人二人がかりでなくては動かせない椅子を、高々と頭上に振り上げていた。
そして聞いたのです。
『お母さんを殺した!お母さんを返して!』
私は恐怖に駆られて部屋の外に逃げようと、娘に背を向けて……
私の記憶はそこで途絶えています。何があったのか、思い出すことは出来ません。
次に私が、私について覚えていることは。
私が目覚めたこと。この村の、あの山の頂上で……」
シモーヌの言葉は、機械のように冷たく凍っていた。
【正体不明の感情にさらされれば、理性が侵される、それを恐れて】。
オーリィもまた、心臓が凍り付くような恐怖を感じていた。
あの時自分もまた、背を向けて逃げようとしたシモーヌの首に、タガメの力をもつ必殺の左腕を巻き付けた。よだか婆ァの際どい介入が無かったなら、自分も間違いなくシモーヌの命を奪っていただろう。シモーヌの娘クロエ、彼女と同じその名前を持っていた自分との、恐るべき運命の相似。そして今ならわかる。かつて自分の命を奪った娘、その似姿を持った自分に、再び襲われたシモーヌの感じた恐怖と、悲哀。
シモーヌはオーリィの苦し気な表情を軽く一瞥し、言葉を続けた。
「私はこの村に来たその日から、私が何故ここに居るのかを考え続けました。
この村に来たものは『死者』であること。そして私の頭と背中の傷。長老様からそれらについて伺って、そして、自分が半分蝙蝠になったことも思い知った。
それでも私にはわからなかった。いいえ、認めるのが恐ろしかったのです。
私は何故、どうしてここに来てしまったのか。
醒めない悪夢の中にいるような心地で、悪夢であって欲しいと願いながら。一週間、二週間、一ヶ月、何度も何度もずっと考え続けて、いくら考えても決して覆らない結論を、強いて棚の上に上げようとして……そうですね、たしか、三月目のある日。頑迷な私はようやく、事実にねじふせられたのです。
『私はクロエに殺された』のだと。
あの重い椅子の一撃を後頭部に受けて、私は意識を失った。あの椅子なら、あるいはその一撃で私の命を奪うのに充分だったかも知れません。
そして、虫の息になった私の体が完全に命を失うまでのそのわずかの間に、クロエは倒れている私の体を、刃物で何度も刺した。背中の傷は九つ、でもあの後、あちらの世界に残された私の体には、もっと多くの傷があったかも知れません。丁度九回刺されたところで、私の命は完全に途絶えた、そういうことでしょうね。
その刃物はどこにあったのか?未練な私は、それをいつまでも最後の結論を下さない言い訳に使っていました。精神に異常をきたした娘の部屋に、危険な刃物をアンリが置いておくはずがない、きっと何かが間違っているのだ、と。
でもみなさん。それは些末な話です。部屋には窓というものが、窓ガラスというものがあったのですから……
それに何より、昏倒した私がもし生きていたとしたなら。アンリにしても夫にしても使用人たちにしても、私の背中を刺す動機はありません。
【お母さん】を殺された、クロエ以外には……」
シモーヌの最後の言葉、最後の息が、噛みしめた唇の合間を抜けていく。
そう、シモーヌの胸が、巨大な万力に押しつぶされるかのように。(続)
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