8 ~品評会・蝙蝠の告白~(3)

「あの日。奇声を上げて館に駆け込んで来たクロエは、廊下の途中で倒れてしばしの間、そのまま床を転げまわりながら叫び続けた後、糸が切れたように気を失いました。目が覚めてまた暴れてはと思ったのでしょう、アンリは迷い悩みながらも、クロエを止む無く簀巻きにして彼女の部屋のベッドの上に運んだのでした。

 そして使用人たちを集めて説明を求め、私を糾弾した……それは先ほどお話した通りです。

 それから。クロエは数日の間昏々と眠り続け、再び目を覚ました時には。

 あの子はすっかり自分を失っていたのです。目を覚ましたと言っても、どろりとした目を剥いたまま、どんなに私達が呼びかけても何の返事も反応も無いのです。まるで、魂の抜け殻のようになってしまったのでした……」


 オーリィの、ケイミーの肩にすがるその手。おこりの発作のように震えながら、がっきりと食い込むその指に、その手に、ケイミーは自分の手を重ねて、僅かにでもなだめようなぐさめようとしていた。だが。

(あたしの指も震えてるよね……ごめんねオーリィ、でも……あたしも怖いよ……)

 次第に事件の核心に近づく、シモーヌの告白。避けられない無残な結末への予感。

 シモーヌとケイミーがその時、ふと目が合った。

(あの目、あの顔。そうだ、この人は、あたしにも何か言いたいことがあるんだ)

 ケイミーは卒然と思い出す。自分が殺されかけたこと、そして、あの時のシモーヌの不可解な言葉の数々。その答えが、これから語られる。

(怖い……!)


「アンリと事態を知った夫は。クロエのために、早速専門の療養所を、精神病院を探しました。あの子に治療と介護が必要なのは言うまでもなく、ですが、何より。

 クロエを私から引き離さなければならない……当然のことですね。

 ただ娘の保護のための施設は、その当座はなかなか見つかりませんでした。そして娘はすっかり生気を失ったような様子で、中身はともかく形だけはすっかり大人しくなってしまいましたから、数日してアンリと夫はこう考えるようになりました。

『このままの状態なら、少なくとも命にだけは別条は無いだろう。焦っても仕方がない。治療先はじっくり探し、クロエはもう少し館に留めて置くしかない』と。

 ただし。今度は娘に代わって私が一時、館の自室に軟禁されることになりました。娘が邸内にいる間は、私を自由にしてはならない、二人はそう考えたのです。私は逆らえなかった……逆らえるはずもありませんね。当然の報いなのですから。それに、私は一面、その沙汰に二人の私に対する温情も感じていたのです。私の体面、名誉を慮ってくれていたのだと。そしてこんな私でも、家族から追放はしないのだと。

 ですから、私は病院の職を辞して、半ば自ら館にひきこもったのですが。

 ……でもそれは!後から考えてみれば!取り返しのつかない間違いだった!!

 いっそあの時、私が追い出されていれば、あるいは私が自らあの家を去っていれば、あんなことには……!!」


 ノックの音、そして【外から】鍵の開く音がする。室内のシモーヌは立ち上がって、彼女が蟄居している自室のドアを開けた。立っていたのは、息子のアンリ。それは彼女にも予想は着いていた。室内の清掃などの、使用人がその部屋に現れる時間は毎日決まっており、今はその時ではないからだ。

 母子はつかの間見つめ合う。そしてシモーヌは伏し目がちに、アンリを手で室内にいざなった。アンリも無言で頷き、招かれた椅子へ向かう。

 あの日。家族の心の絆はバラバラに砕け散った。およそ3年間にも渡る、シモーヌのクロエに対する非情な虐待。それは息子あるいは夫として、シモーヌを愛し敬慕してきた二人に対しての、信じがたい裏切り。

 そしてそれが故に妹が、愛娘がいつ回復するとも、回復出来るとも知れない無残な心神喪失状態に陥ったとなれば。兄として父として、二人にはシモーヌに対して怒りと憎しみ、失望を抑える術などあるはずがなかった。

 だがその父と息子の間にも、実は隠しきれない亀裂が走っている。遠く離れて暮らしていたアンリはともかく、如何に多忙とはいえ身近に暮らしていたシモーヌの夫の落ち度は、客観的に考えれば明白で重大だ。彼にとっては簡単に言い訳の出来る問題ではない。だが、だからこそ。彼は自分をこんな【のっぴきならない窮地】に追いやった妻シモーヌが許せなかった。彼の心は憎しみに染まり冷え切った。離婚に踏み切らないのも、シモーヌを邸内に置くのを許しているのも、クロエの処遇が決着するまでのわずかな猶予に過ぎない、彼はすでにそう思っていた。

 だが一方アンリは、その父の態度にぬぐいきれない【卑怯】を感じ取る。

(父さん、あなたにだって責任はあったはずじゃないか?)と。

 無論その言葉は、アンリの胸の奥に常に飲み込まれた。娘を台無しにされた父、その立場を思えば、彼には父をいたずらに責めることは出来ない。それでも、青年らしい一途な正義感が、逃げを打ち続ける父に対して、侮蔑の念となって視線に、態度に現れることをアンリには如何ともしがたかった……


 室内の椅子に腰を掛け、シモーヌに向き直ったアンリは、自分のつま先を見るようにして口ごもる。おそらく、その部屋に現れる前に何度も心中で繰り返してきた母への言葉を、もう一度反芻していたのだろう。やがて彼はゆっくりと口を開いた。

「母さん。今日、僕は退学届を学校に送ったよ。僕はもう、学校には戻らない。

 医者になるのも、病院を継ぐのも止めたよ。もちろん、僕はクロエを守る。あの子を守って生きていくよ、これからも、どんなことをしてもね。でも……」

【この家は継がない】。アンリの言葉は途切れたが、シモーヌの心にははっきりとそれが聞こえていた。あの日以来の、父と息子の不和。自分の親達に対する、アンリの幻滅。それはシモーヌにもまざまざと伝わっていたのだ。だが無論、今の彼女は仲裁など出来る立場ではない。娘の心も、息子の将来の夢も、夫の面目も、ぶち壊しにしたのは全て自分なのだから。自らの罪と無力に感じ入りながら、シモーヌはただ黙って頷いた。そして母と息子の間に再び立ちふさがる、重い沈黙の壁。

 だが再び、アンリの方からこう切り出した。

「実はね母さん、昨日クロエがね、喋ったんだよ」

 シモーヌははっと弾かれたようにアンリの顔を見返す。クロエとは引き離されてはいたが、その様子はこれまでもアンリから聞いてはいた。何をされても無反応な、息をするだけの死体のようなその様子を。

 そのクロエが、喋ったのだと言うのだ。

 シモーヌにとっては当然、娘の精神状態の回復は今、もっとも望んでいたことだ。蟄居の身にあって、それが毎日、今の彼女の胸を掻き立てる、唯一の望み。

 シモーヌも含めてもう一度円満な家族に戻る、それは、自分のしたことを思えば虫の良すぎる話だ。だがクロエさえ元のクロエに回復してくれれば、自分は放逐されても、後の三人で新しい家族の愛を築き直せるかもしれない。アンリも父と和解し、もう一度、彼の夢を追うことが出来るようになるかも知れない。

 そして自分も、いつか娘に対して、罪の償いが出来るかも知れない!

「アンリ!それは本当なの?!クロエは……アンリ?」

 急き込んで先を問いただそうとしたシモーヌは、しかし、息子の依然として固い、沈痛な面持ちに気づいて言葉を呑んだ。

 クロエが回復の兆しを見せたというなら。妹思いのアンリのことだ、真っ先にその事から話すはず。自分の退学の話、家督の話など問題では無くなっていたはずだ。

 何かがおかしい。シモーヌの胸中に湧き上がる黒雲のような不安と疑念。

「母さん。クロエがね、急に絵を描き始めたんだよ。僕は今日これから、色鉛筆を沢山買ってきてやるつもりさ。今この家には、黒鉛筆とペンしか無いから。

 いや、クレヨンの方がいいかな、削るのはクロエにはちょっと難しそうだ……」

「……?」

 いつでも物事にしっかりした筋道を立てて話す息子が、この時、唐突にそうつぶやいたかと思うと。彼はそこまで言ってやや後悔の顔つきを見せてプツリと押し黙った。そしてシモーヌから目を捨てて、椅子から立ち上がり室外へ、倉皇と出て行った。

「……アンリ、アンリ待って!」

 追ったシモーヌの目前で、アンリの後ろ手でドアは無情に閉じられた。

 だが。

(アンリ……?あなた、鍵を?)

 シモーヌを閉じ込めるため、急遽しつらえられた、室外から施錠の出来る鍵穴。

 その時、施錠の音がしなかったのだ。

 もともとこの鍵の処置については、アンリは反対していた。仮にも実の母、いや、仮にも一人の人間ではないか。檻の中の動物のように施錠で閉じ込めるなど非情に過ぎる。だがシモーヌに対してすっかり怒りに捉われた父は頑として譲らない。今までシモーヌはクロエに同じことをしてきたのだと、自業自得なのだと、これはクロエを守るためなのだから、と。その意見の不一致が父と息子の仲を裂く一因にもなっていたのだが、しかし。シモーヌが自らその扱いを甘んじて受けることを認めたため、アンリもやむなく、施錠による彼女の閉じ込めを続けていたのだが。

 今、その鍵は掛けられていない。

 アンリは、シモーヌを許したのだろうか?ただ不注意で施錠を忘れたのだろうか?

 それはシモーヌにはわからない。ドアを開けて息子を呼び止めようとして、しかし即座にシモーヌは思いとどまる。そっとノブを回して、鍵のかかっていないことを確認したのち、彼女は一度静かに手を放した。

(色鉛筆を買いに行く、そう言ってたわ。鍵をこのままにしておけば、アンリが出て行った後なら……)

 この部屋から抜け出せる。娘に、クロエに会いに行ける。

(……会いたい……!!)


「皆さん。それは悪魔の誘惑だったのでしょうか?あるいは……

 山が私をこの村に招こうとした、その最初の誘いだったのかも知れません……!」

(続)

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