8 ~品評会・審判~(1)
オーリィの左手首のうずき。そして、ガラスの破片を握りしめるその感覚。
(わたしもあの時、それを手にした。割った鏡の刃……)
シモーヌの背中に、シモーヌの娘クロエの掌に。その時走った痛みが、オーリィにはまざまざと感じられた。刃を向けたのが母に対してなのか、自分自身に対してか?
それはオーリィにとって、それこそ些末な事。
(この人には、あたしが……『絵の中の女』に……見えてたんだ)
ケイミーは思い出す。あの日のシモーヌの悪魔のような形相を、そして。
(だからシモーヌさんは、あんなに泣いたんだ……娘を返して、って……)
ひしとすがり合う二人、コナマもそっと、寄り添うように近づいてきた。
(『愛とは恐ろしいもの』。シモーヌ、あなたはあの時、わたしの知ったかぶりを嗤ってよかった。あなたほどそれを知っている人はいなかったのだわ……)
シモーヌの背後で。よだか婆ァは一人、愛弟子の背を睨み、両の拳を固める。
(確かに聞かせてもらったよ。いいや、まだあるんだろう、言いたいことは、シモーヌ。あたしは聞くよ、何だって聞いてやる、お前の事なら何だってね……!)
誰もが重苦しいため息を吐く。シモーヌはしばし足元に目を伏せ、一同と同じ沈黙。今までの自分の言葉が皆の心に飲み込まれるのを待つと、やがて。
もはや語る言葉もわずか、そうと覚悟して。
「長老様、この場で私から是非、お願いしたいことがございます。
オーリィさんの首枷の刑に、【恩赦】をお賜り下さい。この場で、是非とも!」
「……恩赦?恩赦とは、どういう意味かね?君は何故、それが出来ると思う?
……述べたまえシモーヌ!何故君は、何故今、それを求める?!」
長老の問いは、厳格で力強い。それは実は、シモーヌへのエール。
満場の皆の胸に誰しも持っているであろう疑問、何故シモーヌは自分の過去をこの大勢の前でさらしたのか。彼にはようやく彼女の胸中の切なる意図がわかった。
ならばこの場は、その意を存分に尽くさせるのみ。
加勢を得たシモーヌもまた、いっそう力強く答えた。
「オーリィさんの刑、首枷二ヶ月。それは長すぎます。彼女はすでに刑期の半ばを越えて勤めを果たしました。もう十分です……私はそう考えます!!」
「つまり私の量刑がそもそも不当であったと、君はそう言うのだね?根拠は?」
「長老様の当初のお裁きには、被害者の私の人格が加味されておりません!
あの時、オーリィさんが怒りに捉われたのは……相手がこの私であったからです!
私は、よだか婆ァ様が私に彼女を始めて預けられた時、一目彼女を見た時から思ったのです。彼女は、オーリィさんは……私の娘クロエにそっくりだと。
私は驚きました。動揺したのです。そして、彼女の存在を不愉快に感じたのです。
私がこの村に来てもう十年近くになります。私は前の世界でのあの出来事を、娘のことをその間、必死に忘れようとしていた……如何に悔いても、償いようのない私の罪。逃げていたかったのです。ですが、そこに、オーリィさんが現れた。
『今更、何故?』と。私はそう思ってしまったのです。
もちろん彼女になんら責めがあるわけではありません。理性で考えればあくまで彼女は、私の娘とは別人。私が勝手にクロエの姿をオーリィさんに投影しているだけのこと。そう思って、私は自分の勝手な不愉快を胸に押し殺した。押し殺して、上手く隠したつもりだったのです。
ですが。このオーリィさんは、私のその「敵意」を見抜いてしまった、肌で感じてしまったのです。彼女の人並み優れた感受性。婆ァ様はそれを、『隠された秘密をえぐりぬく眼』だと、彼女はそういう力の持ち主なのだとおっしゃられた。
そう、彼女は見抜いてしまったのです。私の中の、人を支配し踏みにじることに喜びを覚える悪魔を、人の姿をした吸血蝙蝠を。
さらに彼女は、オーリィさんは。元の世界で母親に虐げられて育ったのだと、私は後で聞きました。その彼女の眼なら、私の『正体』を見抜くのはなおさら簡単だったのでしょう。
そしてあろうことか、私の声も外見も、彼女の実の母にそっくりなのだそうです。
それは、私達二人にとって不運な偶然なのでしょうが……ともかく。
彼女は私が彼女に向けたわずかな不快に、敵意に、敏感に反応した。
もちろん、最初はお互い、そんなばかなと自制していたと思います。
オーリィさん、あなたの反抗も、初日、二日目ほどはそれ程でもなかったはず。私はそう記憶しています。あなたも、私に対する理屈に合わない反発心に、どうにか耐えようとしていたはず。違いますか?
ですが長老様、そして皆さん。日を経るうちに私達二人の間で、最初のわずかの敵意が、やまびこのように行っては返し……そしてやまびこと違って、それはどんどん大きくなってしまったのです。私は、私の指示をちっとも守らない彼女に苛立ち、その彼女がよりによってクロエの似姿を持っていることに『あてつけ』を感じました。侮辱だと感じたのです。それでいきおい頭ごなしに叱りつけると、彼女はその私に彼女の母の姿を見て、怖れと怒りでなおさら歯を向いて反発した。
坂道を転げ落ちる雪玉は、ただただ大きくなって、最後の壁に衝突して、そして。
木っ端みじんに砕けたのです。それが、彼女が私を襲い殺しかけたあの日のこと。
これでおわかりいただけると思います。もし、婆ァ様がオーリィさんを託した相手が、この私でなければ。彼女は決してあんな罪を犯すことはなかったはず。
長老様、そしてもう一つ。
もし、私がもっと早くに婆ァ様に彼女のことを相談していたら。
彼女が私の手に負えないということならば。私は婆ァ様に彼女の行状を報告し、ご指示を仰ぎ、必要であれば彼女をもう一度、婆ァ様に差し戻すべきでした。彼女は婆ァ様によく馴染んでいました。婆ァ様も彼女を可愛がっていらっしゃった。私は婆ァ様にお力を借りるべきでしたし、婆ァ様はむしろそれをお喜びになられたはず。
ですが私はそうしなかった。それは。彼女を【手放したくなかった】からです。
私は私に従わない彼女を憎みましたが、一方で。私は……私は。
かつての私の娘の似姿を持つ彼女を、支配したかった、蹂躙したかった。
忘れていた虐待の喜びを、私の中の蝙蝠が求めてしまったのです。その衝動を抑えられなかった!
私は、まったく思いがけずに現れた、オーリィさんという私の娘の……身代わりを!
婆ァ様にですら、【奪われたくなかった】のです……二度と。
そしてその結果、彼女があの凶行に至るまで、私は事態を放置してしまった。
彼女が罪を犯す前に踏みとどまる、そのチャンスを奪っていたのが、他ならないこの私なのです。
彼女には、オーリィさんには。例え殺人未遂は事実としても、その罪にはこれだけの情状酌量の余地が、減刑の余地がある。彼女一人に罪を負わせるのは不当です。私はそう考えるのです。
そして長老様、私が彼女の恩赦を願う、願いうる根拠はもう一つ!」
「……ふむ!」長老がそこで相槌を入れたのは、シモーヌの弁舌をより励ますため。
「聞こう!根拠がもう一つ、それはどういうものかね?」
「恩赦というものは。罪人が【慶事】に際して、あるいは、その罪をぬぐいうる【功績】を成した場合に賜るもの。
りんご園の、すなわちこの村全体の至宝である、あの伝承の大樹、その再生!
今日のこの品評会、年に2度の実りを祝うこの良き日。ですが、これまでの例年毎回と違って、今日の日は特別です。もう一度ご覧ください、長老様、皆さま!
……今日のこの日に!あの鮮やかに緑成す、大樹の姿!
代々の園長様方に受け継がれた悲願の成就。大いなる【慶事】ではありませんか!
そしてこの一大事を成したのが、オーリィさんその人。その偉大な【功績】!
もって彼女に、恩赦を賜るべし!私はそう考え、お訴えいたします!」
満場の村人達に、声高々と響き渡る、シモーヌのその訴え。自らを悪魔の蝙蝠と断じた彼女、だがその姿の気高さ潔さは、常と変わらぬシモーヌその人。聴くもの皆の心中に沁みわたっていく。
「……待って!何故、シモーヌ、あなたは私に、どうして?!」
オーリィは叫んだ。シモーヌの痛ましい過去の告白、自らの非を断じオーリィに赦を乞うその姿に、湧き上がるオーリィの問いがとうとう堰を切った。
「オーリィさん」向き直ったシモーヌ。その穏やかで、どこかもの寂しい微笑み。
「あなたは先ほど、私に尋ねましたね?『私はあなたの何なのか』と。
認めましょう。私の中の蝙蝠は、まだあなたを独り占めにしたいと思っている。
あなたの母を名乗って、あなたを支配しようと欲している。
けれどそれは許されないこと。私はその気持ちと戦います。
この村には、あなたの母になれる人はすでにいたのですから。
そうです、今も、そうやって、あなたのすぐそばに……。
オーリィさん、私はあなたの母と名乗る事も、その地位を求めることも出来ません。その資格は無いのです。
では、私にとってあなたは何者なのか。
お答えしましょう。あなたは私の、そして私達りんごの園に働く皆の、末の妹。
母なるよだか婆ァ様に教えをいただき、同じりんごの園で暮らす姉妹の末。
私は……この村で、婆ァ様の教え子にしていただいた、このシモーヌは!
姉の一人として。妹のあなたを。この家から迷子にしたくないのです。
そして共にこの村で生きる家族として!私があなたに被せた罪の穢れを、清めてあげたいのです。
私は、元の世界で。娘に罪の十字架を背負わせてしまった。娘は精神に異常を来していましたから、現実の法律では罪に問われないかも知れない。でも!
私はあの子を、母殺しの罪で穢してしまった。それはもう償えない……決して。
だから、せめて……」
オーリィは思い出す。彼女があの女王を処刑した時、シモーヌに足を清められたこと。あの愛おし気な眼差しと、指の感覚。胸にひたと湧き上がる思いに、オーリィは唇を震わせ、シモーヌの瞳を見つめた。
シモーヌもしばしオーリィを見つめると、長老に向けて深く頭を一つ下げて、そして、広場の村人達に向き直った。
その時、すかさず。
「恩赦!恩赦だ恩赦、賛成の大賛成!!恩赦、バンザイ!!」
遠く会場の末席で、頭の上で派手に手を叩きながら叫んだのは、ゾルグ。
「見直したぜ代行さん、アンタは大した女だ!恩赦、恩赦!!……おいベン!」
大はしゃぎのゾルグに、村人たちが一斉に振り返り視線が集まる、すぐ隣にいたベンにも。人前で目立つのが何より苦手なベン、だがこの時、相棒に胸を小突かれると、彼もまた臆することなく堂々たる仁王立ちで、無言で手を叩き始めた。彼の大きな掌、固く鍛えられた皮膚は、乾いた明るい音を会場に響き渡らせる。
「棟梁あんたホント、お祭り男だよ……あたしとしたことが出遅れたね!!」
アグネスは傍らのメネフに肘鉄一発、そして手を高々と頭上に上げての拍手。
ツンと澄ましたいけ好かない女。そう思っていたシモーヌが、心の中の獣と必死に戦っていたということ。【癇癪持ち】のアグネスにはその辛さが骨身に染みている。反感が共感に反転したのは、あっという間のことだった。
(オレは役場の人間だから、一応中立でなくちゃいけねぇんだが……敵わねぇな)
敵わない、それは誰に対してか。メネフは長老からそっぽを向いて、手を叩く。
会場を前後に挟んでのそれらまばらな拍手。するとシモーヌはすかさず、その拍手に合わせてさっと手を広げた。
オーケストラの前に立つ指揮者が、演奏開始を合図するような、そのしぐさに。
会場の前方を埋めていたりんご農婦たちが、手を打ち合わせ始めた。
はじめは少し戸惑い気味に、しかしそのさざ波は次第に大きくなって、瞬く間に割れんばかりの拍手の渦が巻きおこる。
(シモーヌ、そう、あなたはこれを狙っていたのね……)
(お前は、仲間外れだったオーリィを、みんなの中に入れてやるために……)
シモーヌを挟んで、コナマとよだか婆ァは視線を交わし、頷きあう。
大樹が元に戻ったらりんご園を去るという、オーリィのあの決意。シモーヌは翻させなければならない。だがたとえオーリィを引き留めたとしても、ただそれだけでは、嫌われ者になっていた彼女を再び針のむしろに座らせるようなもの。
りんご園に、オーリィの帰ってこれる空気を作ること。そして同時に、園の女達のほころびかけた団結の絆を、再び結び直すこと。それがシモーヌの目論見。
そのためにこそ、シモーヌはオーリィをこの場に招いた上で、自らの過去を晒し、自らを弾劾し貶め、かつ、オーリィをかばい弁護したのだ。この品評会は、ただそのための大舞台。
そして彼女の思惑どおり。りんご園の「姉妹たち」、シモーヌのあの呼びかけは、切々たる訴えは、彼女たちがオーリィに持っていた反感をきれいに拭い去ったのだ。
(シモーヌ、あなたはやっぱり手ごわい人。今のあなたにはとても敵わない!)
(そうだシモーヌ、お前はあたしの子、りんご園の長女だ。立派だよ……)
「長老様!お願いします、どうか恩赦を!
シモーヌさんのお願いを、叶えてあげて下さい……!」
シモーヌの過去のあまりの痛ましさに、オーリィと共にその場にしゃがみこんでいたケイミーが、卒然と立ち上がって、そう叫び懇願した。
見開く大きな目、逆立つ冠羽、ケイミーがしばしば見せる、それは、愛のために怒る明王の貌。しかしこの時、それはオーリィに対してだけではなかった。
過去に、決して償えない罪を置き去りにしてこの村に来た者として。
同じ悔いの持ち主として、ケイミーはシモーヌのために、共に願う。
かくて会場の拍手は、今や後方の見物の村人の席まで伝搬し、海鳴りの轟きに。
再び、シモーヌが長老に表を向け、最後の訴えの眼差しを放つ。
すると。
厳格で静かな、審判者としての威儀を正していた長老は、急にその長い首をぐんにゃりと曲げて、傍らのバルクスに寄りかからせて言った。
「ねぇバルクス君これさ、わしが『ダメ―!!』って言ったら、どうなるかなぁ?」
やれやれと大げさに肩をすくめ、バルクスは、彼には日ごろないとぼけた調子で。
「……骨は拾って差し上げます。どうかその点だけは、ご安心を」
そう言って、すまし顔で彼は、満場の中で最後に、ゆっくりと拍手を始めた。
「アハハハハハ!バルクス君、頼もしいけど、わしはまだフライド・オストリッチになるのは御免だよ!!よろちい!!
訴人シモーヌ君の主張を認め、陪審バルクス君の滅多に聞けない冗談に免じて!
……今日ここに、オーリィの首枷の刑を、恩赦によって減じこれを解く!!
高札は後日、いらないと思うけど、いちおうね!メネフ君、ノミとトンカチ大至急!封印を割るから!急いでー!」
一人脱兎のごとく駆け出したメネフを後目に、会場は、更なる大きな拍手の轟きで満たされた。(続)
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