5 ~伝承の大樹と蝙蝠の慟哭~(2)

「シモーヌさん。お聞きしたいことがあってこちらに来ました……!」

 そこはりんご園の「集会室」。あの嵐の夜、担架担ぎの男達に仮眠室としてシモーヌが使わせたその部屋に、やって来たのはケイミー。

 その冠羽を怒りに震わせながらも、その時は、口調だけはまだ静かであった。


 ケイミーがシモーヌに対して持つわだかまりと不信感、それはシモーヌにとってもただの誤解ではない。ケイミーに対してはシモーヌは実際、ひどく後ろめたいのだ。

 オーリィが自分を襲い、結果として首枷の刑に処されることとなった一件についても、シモーヌにはその原因に「思い当たる節」があった。そして決定的なのは、あの嵐の夜、オーリィを園のりんごの樹の前に置き去りにしてしまったこと。

 ケイミーがいつか自分に詰め寄ってくるのではないか?シモーヌにはそれは当然予測出来た。その時どう説明したらいいのか、むしろあれからシモーヌはそれを脳裏で反芻し続けていたのである。だがそれを説明するには、シモーヌが抱くオーリィに対する【ある感情】と、その原因である過去の【ある事件】について語らなければならない。そしてシモーヌの思考は毎回、すぐにそこで行き詰まる。

(とても言えない……【あのこと】は誰にも……!)

 結局、今、目前に対峙したこの時まで彼女はケイミーの詰問に対して何の「対策」も思いつくことが出来ていなかったのだ。

「どうぞ……」

 自分の表情に動揺が隠しきれていない、それを自覚しつつもシモーヌはケイミーを室内に差し招き、応接用の椅子に座らせようとした。むしろ彼女自身が、そのわずかの時間でもなんとか気持ちをたてなおしたかったのが本音。しかし。

 ケイミーは両手を左右のドア枠に突っ張り入口に立ちふさがったまま微動だにしないではないか。そしてシモーヌには聞こえるのだ、ケイミーの力でその建具がギシギシと軋む音が。一息大きく息を吸うと、ケイミーはそのままゆっくりと話し始めた。

「先にお礼を言っておきます。あの夜は……ありがとうございました。ここと、道具置き場でしたっけ?みんなに貸して下さったんですよね、わたしもそれは聞きました……オーリィの手当てもここでさせてもらえたし……」

 ケイミーはと言えば、彼女も自分の感情をどうにか抑えようとしていたのであった。彼女とて、【シモーヌがオーリィに無益で無意味な仕事を押し付けた】という想像に、確たる根拠が無いのは自覚していた。あの「大きな枯れ木」の前からここに来るまでの間も、頭を冷やして他の可能性を考えるべき、そう彼女の理性は何度も告げていたのである。

 だがそれを、彼女の感情が許さない。扉が開かれ、シモーヌの顔を見た瞬間から、ケイミーは自らの怒りが堰を切るのはもう時間の問題だと覚悟した。「先にお礼を」言ったのは、それがもうすぐ言えなくなってしまうから。正々堂々やり合うには、通すべき筋は先に通しておかなければためらいの元になるから。ドアの枠で腕を突っ張っているのは、そのためのわずかの間だけ、自制心をとどめておきたかったから。

「本当にありがとうございました……ですから……もういいです……どうしてあの子を置き去りにしたのかは、もうお尋ねしません……」

「……え?」

「でも!!!!!」

 その質問を無策のまま戦々恐々と待ち構えていたシモーヌは、ケイミーの「お尋ねしない」という言葉に虚を突かれた。そして思わずポカンとした顔を見せてしまったのが、抑えられていたケイミーの怒りに一気に火をつけた。室内に足を踏み入れる、そして一足飛びに一瞬で、シモーヌの胸倉に掴みかかっていた。

「あの枯れ木は何?!あんなものを世話しろですって?!あの子はアナタとの事で酷い罰を受けたわ、あれで帳消しにしてくれるって聞いてたのに!!」

「待ってケイミーさん、一体何の話を……」

「とぼけないで!!」

 話の見えないシモーヌの当然の当惑顔。だがそれがケイミーの怒りの炎にいよいよ油を注いだ。すっかり激昂したケイミーは、シモーヌを室内の奥にグイグイと押し込み一気呵成にまくしたてた。

「そんなにアナタはあの子が嫌いなの?!あんな離れたところにある樹を独りぼっちで世話させる?仲間外れにして?!何故そんなにアナタはあの子をいじめるのよ!!

 あの子はね……前の世界で実のお母さんから酷い仕打ちを受けてた。やりたくも無い事ばかり押し付けられて、好きなことは全部取り上げられて!だからあの子は今でもちょっと難しい子……心のどこかが壊れたまま……時々危ない事を、怖いことをしてしまう……この間みたいに……

 そうよ、だから!!この世界であたしがあの子のお母さんになってあげるって決めたの!あの子はあたしが守ってあげる、もう二度と逃げたくない、逃げないって決めたのよ!!相手が誰だって、そうよアナタだって……長老様にも婆ァ様にも、村のみんなが認めてるわ、アナタが偉い人だって……でもそれが何?何だって言うの?!

 今あの子を守ってあげられるのはあたしだけ!あの子をいじめるのなら、アナタだってあたしは許さないわ!!」


「……お黙りなさい!!」

 シモーヌのそのたった一言で、ケイミーは膝から崩れおちるようにその場に倒れた。ケイミーは気付いていなかった。彼女に責められている間に、シモーヌの表情が変わっていくその様子を、当惑から次第に苛立ちに染まりゆき、やがて歪んだ怒りに塗りつぶされていくその様子を、興奮しきったケイミーは読み取ることが出来なかったのだ。責め立てるのは自分の方ばかりと高をくくっていた。まさか「反撃」が来ようとも思っていなかった、それもこんな不可解な方法で。

 なぜ自分は倒れているのか?ケイミーはそう思うまでもなく、もちろん反射的に起き上がろうとした。だが出来なかった。感じたことのない凄まじい眩暈。立ち上がろうにも、そもそもどちらが上でどの方向に「立ち上がる」べきなのか、その感覚自体がすっかり失われているのだ。そして腰が抜け、膝は笑う。腕で半身を起こそうにも、まるで力が入らない。あたかも全身の骨をすっかり抜かれてしまったように、糸のすっかり切れた操り人形のように。

(何これ……そうだ、あの時のメネフさん……あれと同じ?この人が何かしたの??)

 倒れたケイミーを険しい目で見下ろしてしばし睨みつけた後、シモーヌはケイミーの胸元あたりにしゃがみこむと、最前までそうされていたお返しとばかり、ケイミーの胸倉をつかみ上げる。そして額と額をつけるようにして言うのだ。

 普段の彼女のものとは似ても似つかない、一種奇怪なガラガラ声で。

「お黙りなさい、この……汚い鳥!お前に何が、何がわかると言うの?お腹を痛めたこともない癖に、お前に!母親の何がわかると言うの?!

 あの子は……ああ、【あの子】は!【絵の中のあの女】に奪われてしまったわ!!

 でもやっと……ここでやっと会えたと思っていたのに、あの子はすっかり人が変わっていた……お前のせいね?!『返して』ですって?『許さない』ですって?!それはこちらの台詞だわ!!

 今度こそ誰にも……あの子は誰にも渡さない!!

 ……あの子は!【クロエ】は私のものよ!!」

 シモーヌはいったい何を言っているのか?困惑するのは今度はケイミーの方だった。

(……『あの子』?でも『クロエ』ってオーリィのこと?……どうしてその名前を?『絵の中の女』?)

 そしてもう一つ。ケイミーに忽然とわかったことがある。

(『汚い鳥』……ああ!この人……どうして?この人はオーリィにそっくり……!)

 端正な顔を醜くゆがめ、ののしるその姿は。かつてこの村に来たばかりのオーリィが、ケイミーの庇護を拒んで泣き叫んでいた顔と姿に生き写し。

 しかし、そう長い事考えてはいられない、それだけは今のケイミーにも明らかだった。シモーヌの凶暴な顔つきの示すものは一つしかない。

 すなわち殺意。

 シモーヌの両手の指がケイミーの首にかかった。そして振りほどこうにも、何故か今のケイミーには手を動かすことも出来ない。シモーヌにののしられていたその間に、ケイミーの全身にはますます不可解なマヒが進行していたのだ。

 そしてついに、狂乱したシモーヌはとどめを刺しに来た。

「お前も殺してやるわ、あの絵の女と同じように、【あの時】と同じようにね!!」

 

 グワンと、突然大きな金属音。

 ケイミーを睨みつけていたシモーヌが思わず顔を上げると、そこに立っていたのは、鉄鍋と木の棒を持ったメネフ。最初の一叩きでシモーヌと目線が合ったことを見澄ましてシモーヌに詰め寄ると、その目と鼻の先で彼は今度は滅多矢鱈に鍋を叩きまくった。ガンガンと鳴る耳障りな騒音。

「……!!」

 シモーヌはケイミーの首から手を放し、自らの耳を塞ぐ。彼女の敏感過ぎる聴力、当然騒音には弱い。村に来て以来、通常の「大きな生活音」には耐えるように自ら訓練したつもりだったが、今のメネフの鳴らす音は耐えられる度を越えている。

 そして次の瞬間。空気を切り裂くような悲鳴と共に、今度はシモーヌが床に崩れた。膝を落とし、背を丸めてしゃがみこんで動かない。

 いつの間にか、シモーヌの背後に回り込んでいたのはコナマ。メネフの騒音に動転し注意を奪われたシモーヌの死角をついて、その背後からコナマが投げつけたもの。

 コナマの履いていた、小さなサンダルの片足。

 兎や大鼠の皮を重ねて靴底とし、草で編みあげたその履物は、村では誰もが普通に履いているもの。その材質から言って、いかに強く投げつけたとて、その軽さ柔らかさでは人を傷つけるのは不可能。まして子供の体格のコナマのための小さなサンダルだ。威力など本来、あって無きが如し。

 しかしシモーヌに対してはその一撃が効果覿面だった。【不意に背中に投げつけた】から。シモーヌが倒れたのは痛みによってではなく、すなわち「恐怖」のため。サンダルが命中したのは背中の真ん中だったにもかかわらず、しゃがみこんだシモーヌが必死で押さえているのは、彼女の後頭部。すなわち彼女が以前の世界で命を落とした時、何者かの最初の一撃を受けたと思われる箇所だ。

(モレノ、あなたの作戦、上手くいったわ……でも間に合ってよかった……)


 翻って。あのオーリィの裁判の直後、コナマは長老に再度呼び出されたのだ。

(わたしだけ?何事かしら?)

 何事も要領のいいモレノ長老のこと、普通の用事なら帰るまえに言うべきことは伝えておくはず。怪訝顔で役場に再び出頭すると、聞かされたのが、シモーヌが陰で裁判を傍聴していたという事実。そして彼女の奇怪な独り言。

 モレノは言ったのだ。「今のシモーヌは危険だ。監視が必要だよ。それで……」

「わたしに?だけど……困ったわね、相手があのシモーヌだなんて。あなたが今言った通り、彼女の耳からは逃げられないわ。こっそり見張るには最悪の相手よ?」

「そうだね、だからターゲットを変えよう。見張る必要があるのはシモーヌだけじゃない。肝心なのは、彼女が『会う相手』だ。彼女が出会って問題を起こす相手!」

「……オーリィね?」

「いいや、惜しいが違う。ケイミーだ」

「……何ですって?」

「あの表情、そしてあの独り言。シモーヌが不愉快に思っているのはどうやらケイミーなんだ。何故って?わたしにも実は良くわからない。まだ考えるには材料が足りないんだ。しかしおそらく手をこまねいている暇もない。頼むよコナマ。ケイミーの行く先に気をつけて、そしてなるべくシモーヌと二人きりで会わせないように。あの二人には接点が乏しいから、そこは一つの安心材料とは言えるが、まさかということもある……」

 疑問だらけではあったが、モレノは論理だけでなくカンも優れている。普段からそう知っているコナマは、一も二も無く長老の依頼を受けた。守るべき相手がケイミーであるなら躊躇する理由は無いし、監視もたやすい。コナマはケイミーとは極めて親しいのだ。日頃の生活の予定や立ち寄りそうな場所、すべて熟知している。追いかけまわすもよし、先回りで張り込むもよし。なんならいっそ適当な理由をつけてケイミーの家に泊まり込んだとて、歓待されこそすれ疑いを持たれるような間柄ではない。

 それ以来、コナマはケイミーの身辺に絶えず付きまとっては様子を伺い、去ったふりをしてはこっそり覗き見・立ち聞きを続けて来ていたのだ。

 今日この日までは。

 だが今日はどうしてもメネフの話を聞いておきたかった。だから長老の叱責を受けたあと、わずかの間ならよかろうと、ケイミー達と別れて役場に残ったのだ。

 メネフの話を聞いた長老は、シモーヌの謎の「攻撃」の正体をこう推測した。

「メネフ、君が攻撃されたのは『耳』さ。『三半規管』だよ。特殊な音を使って、鼓膜のさらに奥の三半規管にまで振動を与えて平衡感覚を奪う……そんな効果がシモーヌの『嫌な声』にはあるんだよ、おそらくね。君は『脳震盪』とも言ったな?あるいは聴覚神経を通じて直接脳にダメージを与えることも出来るのかも知れん。

 私も、いやもしかしたらシモーヌ自身も知らなかった、彼女のもう一つの『獣の力』だ。シモーヌは『蝙蝠』だからね。蝙蝠は暗闇で獲物を捕らえるために、超音波をソナーとして使う。通常は超高音だが、シモーヌはいわば人間大の蝙蝠、逆に超低音で人間の脳や神経に揺さぶりをかけるとしたら……」

「まずいなそいつは……」

 長老のいささか突飛な推測。だがあの時、たった一声かけられただけで地面に転がされたメネフには、シモーヌの「声」が危険だということだけは素直に納得できた。

「面と向かってお話するだけでKOされるなんざ、やりにくいにも程があるぜ?」

「だから先手必勝、それも不意を突くに限る。幸い彼女には致命的な弱点があるんだよ。気が付かれないように背後に回って、背中を攻撃したまえ。傷つける必要はない、脅かせばいいんだ」

 シモーヌの弱点。あの裁判の後、長老は自分のうっかりで見つけてしまったそれを二人に話して聞かせた。

「で、オレにも婆さんに一枚噛めってか?なるほど、例えばオレがあの女の注意を惹きつけてその隙に……」

「わたしがシモーヌを後ろから脅かす。そうね、それがいいわ、いざとなったら」

 そうと決まれば、と。それからすぐに二人そろってケイミーの家に出向いたのだが。

「おい婆さん、二人とも居ねぇな?」

「……これはちょっと……困ったことになったかも知れないわ。急いでりんご園に行きましょう。この家今、婆ァ様の匂いが残ってるの」

「何だと?」

 シモーヌが聴力ならコナマは臭覚。彼女の尋常ならざる鼻がその場のよだか婆ァの残り香をとらえたのだ。

「あの方と一緒に二人が出かけたとしたら……」

 その行先はりんご園、それが一番ありうる。そして園にはシモーヌがいるのだ。

「婆ァ様やオーリィが一緒にいるならいいのだけれど……」

「イヤな予感がするな。よし急ごう……ちょい待ち!念のためだ、コイツを持っていこう。この鍋と、薪ざっぽう。長老の話でな、オレも思いついたことがあるんだ。あの女にはきっとコイツが効くぜ」


 長老の作戦と、メネフの機転、そしてコナマの素早さ抜け目なさ。全てが図に当たった。シモーヌはガタガタと肩を震わせながら、座り込んで動けなくなっている。それをコナマはなおも警戒しながら見つめ続けていた。

 一方、急ぎケイミーの元に駆け寄り、抱き起して安否を確かめるメネフ。気を失ってはいたがどうやら息はある。しかし、彼女の喉にくっきりと残る手形に彼は戦慄した。

(手で直に人の首を絞めるなんてのは、普通は女の力じゃ難しいはずだが、なんてこった……もう一息遅かったら……)

 すぐにでも声をかけて彼女の意識を取り戻させたかったが、メネフはそれをこらえてじっと待った。

(もし脳がどうにかなってたら……うかつに起こせねぇ……頼むケイミー、目を覚ましてくれ……!)

 するとようやく、オーリィとよだか婆ァが集会室に駆けつけてきた。そして二人そろってその場の異様な状況に目をむいた。

「こりゃぁ……コナマ!こりゃどうしたこった?何でお前がここに?シモーヌはなんだってあんな風にしゃがみこんでるんだ?!シモーヌ!!」

「ああ、お母様!どうなさったの?メネフさんお母様は無事なんですの?!」

 それぞれに駆け寄りかけた二人を、コナマとメネフがそれぞれに遮る。

「二人とも落ち着いて!今は説明できないわ。後できちんと話しますから」

「オーリィちゃん、ケイミーは息はある。大丈夫だ、大丈夫……頼む、もう少し待ってくれ」

 固唾を飲んでしばしその場に固まる一同。だがようやく。

「うう……あ……!あたし、生きてたんだ……もうダメかと……」

 メネフの腕の中で、ケイミーが蘇生の声を上げた。

「ケイミー!!しっかりしろ、どうだ?気分は?おかしなところは無いか?」

「ちょっと目が……回ってるけど……手足に力が戻ってきた……多分大丈夫……」

「よし、じゃぁ今は何も考えるな。このままゆっくり目を閉じて休め」

「よかったわ、あの声の効き目はどうやら一過性のものみたいね。でも安心は出来ない。すぐに人を呼びましょう。オーリィ、坊やに替わってあげて。坊や、急いであの二人を!シモーヌなら婆ァ様がいてくだされば大丈夫だから。さぁ!」

 慌てて駆け寄ってきたオーリィに素早く、しかし慎重にケイミーの体を預け、メネフが立ち上がったその時。


「返してぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 シモーヌの絶叫が、集会室の中に響き渡った。

「返して、あの子を、私の【クロエ】……返して!連れていかないで!!」

 その場の一同が、石像のようにその時の姿勢のままで固まった。シモーヌの叫びの例えようも無い悲痛に、耳も目も心も全て奪われてしまったのだ。シモーヌは両の拳が砕けるほどに床を叩き、そして己が顔を搔きむしりながら、なおも叫び続ける。

「こんなに!こんなに愛しいのに、逢いたいのに!!どうして?!返して……ああ!!神様お許しください、あの子をお返しください、逢わせて、一度だけでも!!私が間違っていたのです、今度こそ、今度こそ、ですから……お願い……!!」

 しばし泣き叫び続けた後、シモーヌは彼女自身の涙で濡れた床に突っ伏して、とめどなく嗚咽する。

 囲繞する一同の思いと表情は千々に乱れていた。

 ケイミーは。麻痺から回復していたのであろう、抱かれていたオーリィの腕の中から身を起こしながらしゅんとなっている。おぼろげにわかって来た自分の誤解。自分の言葉がシモーヌの心を傷つけたのかと、襲われた当人であるはずの彼女はかえって自責の念に駆られているようだ。

 コナマは。かねてより人知れず角付き合っていた相手の敗残の姿に、むしろ憐憫の色が濃い。手ごわい、しかしだからこそ一目置くライバルのこんな姿はむしろ見たくはなかった。

 メネフ。あの嵐の夜の、シモーヌの悲し気な顔を思い出していた。弱きを助け強きをくじく、そんな彼の侠気の天秤はこの時大きく片側に傾いていた。

 よだか婆ァ。自分の片腕として、かけがえない後継者として、頼りにし大切に育てて来たはずの一番弟子が抱えていた闇。その末端に触れた婆ァは、師としての自分の驕りと未熟を恥じ後悔していた。何故もっと早く、もっと深く愛弟子に接してやれなかったのか、と。

 ただ一人、オーリィだけが険しい顔色を崩していなかった。だが彼女の胸中に渦巻くのは、シモーヌに対しての憎しみでも怒りでもない。

(この方は本当に……清い方……気高い方なのだわ。一体何があって、こんな……)

 シモーヌのこんな姿は世にあってはならない、たとえ何があろうとも。オーリィの胸を占めていたのは、いわば、人の世の理不尽な運命に対する義憤。

「……ケイミー?」

 状況がひとまず落ち着いていることを確認した後、コナマが、どうやら回復して動けるようになったらしいケイミーに、なぜこんなことになったのかと問うた。ケイミーがあの「大きな枯れ木」の前で怒りに駆られてしまったことを説明すると、コナマは深いため息とともに諫め顔で言った。

「何て早合点……いけないわねケイミー。あなたが何を誤解したのか、それはもう一度、あの樹の前でわたしが教えてあげましょう。でもその前に。

 もっと大切なことを知っておかなければね。『愛』はね、恐ろしいものなのよ?

 あなたはオーリィを我が子として愛しているから、そうやって怒った。それはわかるわ。でもね、思い出してケイミー。先生だったあなたは、クラスでいじめを注意して、逆恨みしたいじめっ子の告げ口で、地元の権力者だったそのいじめっ子の親に追い込まれて自ら命を断ってここに来た、そうでしょう?

 その親はね……そのいじめっ子を愛していたの。だから目がくらんであなたを責めた。愛は時に人を惑わすわ。恐ろしい力を秘めているの。かつて盲愛の犠牲になったはずあなたに、こうして同じ轍を踏ませるほどに、ね。

 そんなことはもう終わりにしなければ。わかるでしょうケイミー?」

 涙をポロポロとこぼしながら言葉も無く頷くケイミーに慰めの頷きを返すと、

「婆ァ様、シモーヌをお願いします。坊や、二人と一緒にもうしばらくいてあげて。ケイミー、それにオーリィ……もう一度、あの樹の前に行きましょう」

 コナマは二人を連れて集会室を出て行った。(続)

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